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修養は理論ではない

 修養は何所まで行らねばならぬかと云ふに、之は際限がないのである、けれども空理空論に走ることは最も注意せねばならぬ、修養は何も理論ではないので、実際に行ふべきことであるから、何所までも実際と密接の関係を保つて進まねばならぬ。

 偖この実際と学理の調和といふことは、特に述べて置かねばならぬのである、要するに、理論と実際、学問と事業とが互に並行して発達せないと、国家が真に興隆せぬのである、如何程一方が発達しても、他の一方が之に伴はなければ、其国は世界の列強間に伍することは出来ぬと思はれる、事実ばかりで満足とは云はれず、又学理のみでは立つことが出来ないので、此の両者がよく調和し密着する時が、即ち国にすれば文明富強となり、人にすれば完全なる人格ある者となるのである。

 右に対する例証は沢山にあるが、之を漢学に求めて見れば、孔孟の儒教は支那に於ては最も尊重されて、之を経学または実学と云つて、彼の詩人又は文章家が弄ぶ文学とは全く別物視してある、而して其れを最も能く研究し発達せしめたのが彼の支那宋末の朱子である、蓋し朱子は非常に博学で、且つ熱心に此学を説いたのである、所が、朱子の時分の支那の国運は如何であつたかと云ふに、丁度その頃は宋朝の末で、政事も頽廃し、兵力も微弱にして、少しも実学の効は無かつたのである、即ち学問は非常に発達しても、政務は非常に混乱した、詰り学問と実際とが全く隔絶して居たのである、つまり本家本元の経学が宋朝に至りて大に振興したにも係はらず、之を採つて実際に用ゐなかつたのである。

 然るに日本に於ては其の空理空文の死学であつた宋朝の儒教を利用した為め、却つて実学の効験を発揮したのである、之を善く用ゐたのは徳川家康である、元亀天正の頃は日本を廿八天下と称して、国内麻の如くに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽して居つたのである、その中にて家康は大に達観して、到底武のみを以て治国平天下の策とすべきで無いといふことを悟り、大に心を文事に注いで、支那に於ては死学空文であつた朱子の儒学を採つたのである、当初先づ藤原惺窩を聘し、次で林羅山を用ゐて、切りに学問を実際に応用した、即ち理論と実際とを調和し接近せしめたのである、現に家康が遺訓の一として今日まで人口に膾炙する『人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、急ぐべからず、不自由を常と思へば不足なく、心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思へ、勝つ事ばかり知りてまくる事を知らざれば、害その身に至る、おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるにまされり』に就て考へて見るに、皆経学中に求めたものである、多くは論語中の警句中より成立して居る、当時殺伐の人心を慰安して、よく三百年の太平を致した所以のものは、蓋し学問の活用、即ち実際と理論とを調和して、極めて密接ならしめたるに由ること〻思ふのである。而かも家康が此くまで朱子の儒学を採つて之を実際に応用したけれども、元禄享保の頃となつては、次第に種々の学派を生じ、空理を弄ぶやうになつて来て、有名なる儒者は多かつたけれども、之を実際と密着せしめたものは甚だ稀で、僅かに熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒の数人に過ぎない、徳川の末の微々として振はなくなつて来たのも、矢張り此の調和を失した結果であらうと思ふのである。

 以上は往時の事例であるが、今日でも両者の調和不調和が其の事物の盛衰を示して居ることは、諸君のよく知られる所と思ふ、世界の二三等国に就て見ると明かである、又一等国中にも、現に両者が其の並行を失はんとしつ〻ある国もあるやうに思はれる。

 翻つて帝国は如何と言へば、未だ決して十分なる調和を得て居るといふことは出来ない、のみならず、動ともすれば離隔せんとする傾向さへ見える、之を思へば実に国家の将来が案じられるのである。

 故に修養を主とする者は、大に爰に鑑みる所があつて、決して奇矯に趨らず、中庸を失せず、常に穏健なる志操を保持して進まれんことを衷心より希望して止まぬのである、換言すれば、今日の修養は、力行勤勉を主として智徳の完全を得るのにある、即ち精神的方面に力を注ぐと共に、智識の発達に勉めねばならぬ、而して修養が、単に自分一個の為のみではなく、一邑一郷、大にしては国運の興隆に貢献するのでなければならぬ。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.249-253

参考記事:修養団員に告ぐ(『竜門雑誌』第294号(竜門社, 1912.11)p.24-29)

サイト掲載日:2024年03月29日