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功利学の弊を芟除すべし

 日本魂、武士道を以て誇りとする我国の商工業者に道義的観念の乏しいと云ふことは、実に悲むべきことであるが、抑も其の由つて来るところを繹ぬれば、従来因襲する教育の弊であると思ふ、予は歴史家にあらず又学者にあらざれば、遠く其の根源を究むることは出来ないけれども、彼の『民可使由之、不可使知之』といふ、朱子派の儒教主義は、近く維新前まで文教の大権を掌握せる林家の学に依て其の色彩を濃厚にし、被治者階級に属する農工商の生産界は、道徳の天則外に放置せらる〻と共に、己れ亦自から道義に束縛せらる〻の必要なしと感ずるに至つた。

 此の学派の師宗朱子その人が、唯大学者といふまでにて、実践躬行、口に道徳を説き、身に仁義を行ふ底の人物でなかつたから、林家の学風も、儒者は聖人の学説を講述する者、俗人は之を実地に行ふべきものとし、説く者と行ふ者との区別を生じ、之が結果として、孔孟の謂ゆる民即ち被治者階級に属する者は、唯だ命惟れ奉じて、一村一町の公役行事を怠らざれば足るといふ卑屈根性を馴致し、道徳仁義は治者の為すべきこと、百姓は政府より預りたる田畑を耕し、町人は算盤の目をせ〻つてさへ居れば能事了るといふ考へが、習ひ性をなして国家を愛するとか、道徳を重んずるとかいふ観念は全く欠乏したのである。

 鮑魚の市に入るものは自ら其の臭を知らずといへば、斯る数百年の悪風に養はれ、謂ゆる糞厮の臭きを忘れたるものを薫化し、陶冶し、天晴有道の君子的人物となすは、固より容易のことでは無いのに、欧米の新文明の輸入は、此の道義的観念の欠乏に乗じ、翕然として功利の科学に向はしめ、愈〻其の悪風を助長すること〻なつた。

 欧米にも倫理の学は盛である、品性修養の声も甚だ高い、併し其の出発点が宗教によりて、我国の民性と容易に一致し難き所があるより最も広く歓迎せられ、最も大なる勢力となつたのは、此の道徳的の観念では無くして、利を増し産を興すに覿面の効果ある科学的智識、即ち功利の学説である、富貴は人類の性慾とも称すべきであるに、初めより道義的観念の欠乏せる者に向つて、教ふるに功利の学説を以てし、薪に油を注いで其の性慾を煽るに於ては、其の結果は蓋し知るべしではないか。

 往時の下級生産者より出でて、天晴身を立て家を興し、一躍具瞻の地位に進みたる人も固より尠くないが、是等の人々は果して道徳仁義に終始し、正路に歩し、公道を進み、俯仰天地に怍るなきの心事を以て、能く今日に至つた者であらうか、関係の会社銀行等の事業を盛大ならしむべく、昼夜不断の努力を尽すは、実業家として洵に立派のことである、其の株主に忠なる者と称するも不可なしであるけれども、若し会社銀行の為に尽す精神が、由つて以て自ら利せんとする謂ゆる利己の一念に止まりて、株主の配当を多くするは、自家の金庫を重からしむる為めなりとせば、若し会社銀行を破産せしめ、株主に欠損を与ふるを以て自己の利益が多いといふ場合に際会したならば、或は之を忍ぶやも測られない、孟子の謂ゆる『奪はずんば饜かず』とは即ち是である。

 又富豪巨商に仕へて、一意主家の為に尽瘁する者の如きも、唯その事蹟より見れば、克く仕ふる所に忠なる者といふことは出来るが、其の忠義的行為が、全く自家損得の打算より発し、主家を富ましむるは自ら富む所以、番頭手代と見下げらる〻は面白からざるも、実際の収入は遥かに尋常事業家に優るものあれば、我は名を捨て得を取るなりとの心事より出でたるものなるときは、其の忠義振りも、帰する所は利益問題の四字に止まり、同じく道徳の天則外にあるものと云うて差支あるまい。

 然るに世人は此種の人物を成功者として尊敬し羨望し、青年後進の徒も亦これを目標として、何とかして其塁を摩せんとするに腐心する所より、悪風滔々として底止するところを知らざる勢となつて居る、斯く云へば、我が商業者の総ては皆不信背徳の醜漢のやうであるが、孟子も『人の性は善なり』と言へる如く、善悪の心は人皆之れあれば、中には君子的人物であつて、深く商業道徳の頽廃を慨し、之が救済に努力し居る者も尠くないが、何にせよ既往数百年来の弊習を遺伝し、功利の学説によりて悪き方面の智巧を加へたる者を、一朝有道の君子たらしむるは容易に望み得らるべきでは無い、去迚それを此儘に放任するは、根なき枝に葉を繁らし、幹なき樹に花を開かしめんとするものにて、国本培養も商権拡張も、到底得て望むべきに非ざれば、商業道徳の骨髄にして、国家的、寧ろ世界的に直接至大の影響ある、信の威力を闡揚し、我が商業家の総てをして、信は万事の本にして、一信能く万事に敵するの力あることを理解せしめ、以て経済界の根幹を堅固にするは、緊要中の緊要事である。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.340-345

参考記事:商業道徳の骨髄(信)(『竜門雑誌』第325号(竜門社, 1915.06)p.23-26)

サイト掲載日:2024年03月29日