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それ唯忠恕のみ

 凡そ業は勤むるに精しく、嬉むに荒むといふが、万事が即ちそれである、若し大なる趣味と大なる感興とを以て事業を迎へられたならば、仮令如何に忙しく、又如何程煩はしくとも、倦怠若くは厭忌といふが如き、自己が苦痛を感ずる気分の生ずべき理由はない、若し又これに反して、全然没趣味を以てイヤ〳〵ながら事務に従ふといふ場合には、必ず先づ倦怠を生じ、次で厭忌を生じ、次で不平を生じ、最後には自分が其の職を抛たねばならぬやうになるは、蓋し数の自然である、前者は精神潑溂として愉快の中に趣味なるものを発見し、この趣味よりして無限の感興を惹起し、感興は軈て事業の展開を来たすことに至るものである、而して事業の展開は即ち社会に公益を与ふることになる、後者は精神が萎縮して、怏々鬱々、倦怠より困憊を醸し、因憊はやがて其身の滅亡を意味することになる、仮りに前者と後者とを対照して、その孰れを執るかを諸氏に試問したならば、前者を執ることの最も賢しこく、後者を執ることの最も愚なるを明答せらるることであらう、又よく世人が口癖のやうに運の善悪といふことを説くが、抑も人生の運といふものは十中の一二、或は予定があるかも知れぬ、併しながら仮令これが予定なりとして見た所が、自ら努力して運なるものを開拓せねば、決してこれを把持するといふことは不可能である、愉快に事務を執りつ〻一方に大なる災厄を招致すると、其はじめ啻に天淵のみであるまい、諸氏も亦必ず其の一方を捨て〻他の一方を把持せられんことを熱望せらる〻であらう、而して諸氏が銘々其の事業上に大なる趣味と大なる感興とを有たる〻と同時に、其の内容の充実を期さねばならぬ、況して救済事業の如きは、其の性質上注意の上にも猶ほ一層の注意を払ひ、努めて其の内容の豊富ならんことに於て遺憾なきを期すべきである、さればと云うて其の内容にのみ腐心して形式を疎外視することも宜しくない、凡そ各種の事業として、内外共に権衡を欠いてはならぬ、要するに、単に其の表面を衒はんが為め、徒らに形式にのみ囚はる〻と云ふことは、最も注意してこれを避けねばならぬ。

 更に言ふまでもなきことながら、本院(東京市養育院)には、現に(大正四年一月)二千五六百人の窮民が収容してある、其の中には除外例として、善因却つて悪果を結びて窮民たり、行旅病人たるものなきにあらざるも、其の多くは謂ゆる自業自得の輩である、併しながら彼等を自業自得の者なりとして、同情を以て臨まぬは甚だよろしくない、夫れ吾人の須臾も離るべからざる人道なるものは、一に忠恕に存するものであるから、孰れも其の職務に忠実にして、而して且つ仁愛の念に富まねばならぬ、余は敢て彼等を飽くまで優遇せよとは言はぬが、これに臨むに常に憐愍の情を欠いてはならぬと云ふのである、諸氏は呉々もこの道を体得して、これを執務上に現実せねばならぬ、また医務に従事せらる〻諸氏に於ても、収容の患者を以て単に自己研究の資料となすにこれ努むるならば、开は甚だ遺憾の極みである、研究さる〻も程度問題であるから、絶対に悪いとは言はぬが、医員諸氏に於ては患者を治療するといふことが当面の義務と信じて勉励せらる〻ことを望むのである、又看護婦の人々にあつても同様であつて、患者へ対しては誠に親切に取扱はれたきものである、彼等には精神上欠陥する所が多い、社会の落伍者敗残者として之に同情するといふことが、前に述べた忠恕である、忠恕は即ち人の歩むべき道にして立身の基礎、つまりは其の人の幸運を把持することになるのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.383-387

参考記事:東京市養育院に於て(『竜門雑誌』第321号(竜門社, 1915.02)p.21-22)

サイト掲載日:2024年03月29日