今の道徳に依つて最も重なるものとも言ふべきものは、孔子のことに就て門人達の書いた論語といふ書物がある、是は誰でも大抵読むと云ふ事は知つて居るが、此の論語といふものと、算盤といふものがある、是は甚だ不釣合で、大変に懸隔したものであるけれども、私は不断に此の算盤は論語に依つて出来て居る、論語は又算盤に依つて本当の
富が活動されるものである、故に論語と算盤は、甚だ遠くして甚だ近いものであると始終論じて居るのである、或時私の友人が、私が七十になつた時に、一の画帖を造つて呉れた、其の画帖の中に論語の本と算盤と、一方には「シルクハット」と朱鞘の大小の絵が描いてあつた、一日学者の三島毅先生が私の宅へござつて、其の絵を見られて甚だ面白い、私は論語読みの方だ、お前は算盤を攻究して居る人で、其の算盤を持つ人が斯くの如き本を充分に論ずる以上は、自分も亦論語読みだが算盤を大に講究せねばならぬから、お前と共に論語と算盤を成るべく密著するやうに努めやうと言はれて、論語と算盤のことに就て一の文章を書いて、道理と事実と利益と必ず一致するものであると云ふことを、種々なる例証を添へて一大文章を書いて呉れられた、私が常に此の物の進みは、是非共大なる慾望を以て利殖を図ることに充分でないものは、決して進むものではない、
只空理に趨り虚栄に赴く国民は、決して真理の発達をなすものではない、故に自分等は成るべく政治界軍事界などが唯跋扈せずに、実業界が成るべく力を張るやうに希望する、これは即ち物を増殖する務めである、是が完全で無ければ国の富は成さぬ、其の富を成す根源は何かと云へば、仁義道徳、正しい道理の富でなければ、其の富は完全に永続することが出来ぬ、茲に於て論語と算盤といふ懸け離れたものを一致せしめる事が、今日の緊要の務と自分は考へて居るのである。
昔、菅原道真は和魂漢才といふことを言つた、これは面白いこと〻思ふ、これに対して私は常に士魂商才といふことを唱道するのである、和魂漢才とは、日本人は日本の特
有なる日本魂といふものを根柢としなければ為らぬが、併し支那は国も古し、文化も夙く開けて孔子、孟子の如き聖人賢者を出して居る位であるから、政治方面、文学方面その他に於て日本より一日の長がある、それゆゑ漢土の文物学問をも修得して才芸を養はなければ為らぬといふ意味であつて、その漢土の文物学問は、書物も沢山あるけれども、孔子の言行を記した論語が中心となつて居るのである、それは尚書、詩経、周礼儀礼などの、禹湯文武周公の事を書いた書物もあるけれども、それとても矢張孔子の編纂したものと伝へられてあるから、漢学といへば孔子の学、孔子が中心となつて居るのである、其の孔子の言行を書いた論語であるから、菅公も大に之を愛誦し、応神天皇の朝に百済の王仁が献上した論語千字文の朝廷に伝へられたのを筆写して伊勢の大廟に献じたのが、世に菅本論語といつて現存して居るのである。
士魂商才といふのも同様の意義で、人間の世の中に立つには武士的精神の必要であることは無論であるが、併し武士的精神のみに偏して商才といふものが無ければ、経済の上から自滅を招くやうになる、故に士魂にして商才が無ければならぬ、其の士魂を養ふには、書物といふ上からは沢山あるけれども、矢張論語は最も士魂養成の根柢となるものと思ふ、それならば商才はどうかと云ふに、商才も論語に於て充分養へるといふのである、道徳上の書物と商才とは何の関係が無いやうであるけれども、その商才といふものも、もと〳〵道徳を以て根柢としたものであつて、道徳と離れた不道徳、詐瞞、浮華[、]軽佻の商才は、謂ゆる小才子小悧口であつて、決して真の商才ではない、故に商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書たる論語に依つて養へる訳である、また人の世に処するの道は、なか〳〵至難のものである、けれども論語を熟読翫味して往けば
大に覚る所があるのである、故に私は平生孔子の教を尊信すると同時に、論語を処世の金科玉条として、常に座右から離したことは無い。
我邦でも賢人豪傑は沢山に居る、其中でも最も戦争が上手であり、処世の道が巧であつたのは徳川家康公である、処世の道が巧なればこそ、多くの英雄豪傑を威服して十五代の覇業を開くを得たので、二百余年間人々が安眠高枕することの出来たのは実に偉とすべきである、それゆゑ処世の巧みな家康公であるから、種々の訓言を遺されて居る、彼の『神君遺訓』なども、我々処世の道を実に能く説かれて居る、而して其の『神君遺訓』を私が論語と照し合せて見たのに、実に符節を合するが如くであつて、矢張大部分は論語から出たものだと云ふことが分つた、例へば『人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し』とあるのは、論語の『士不可以不弘毅、任重而道遠、仁以為己任、不
亦重乎、死而後已、不亦遠乎』とある、この曾子の言葉と寔によく合つて居る。
また『己れを責めて人を責むるな』は、『己欲立而立人、己欲達而達人』といふ句の意を採られたのである、また『及ばざるは過ぎたるより勝れり』といふのは、例の『過猶不及』と孔子が教へられたのと一致して居る、『堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思へ』は『克己復礼』の意である、『人は唯身の程を知れ草の葉の、露も重きは落つるものかな』は分に安んずることである、『不自由を常と思へば不足なし、心に望み起らば困窮したる時を思ひ出すべし』『勝つこと計りを知りて負くることを知らざれば、害その身に至る』とある、この意味の言葉は論語の各章に屡次繰返して説いてある。
次に公が処世に巧みであつたこと、二百余年の大偉業を開かれたことは、大抵論語から来て居るのである。
世の人は漢学の教ふる所は禅譲討伐を是認して居るから、我が国体に合しないといふが、そは一を知つて二を知らざる説である、孔子の『謂韶、尽善矣、又尽美也、謂武、尽美矣、未尽善也』とあるのを見ても明かであつて、韶といふ音楽は尭舜のことを述べたので、兎に角尭は舜の徳を悦んで位を譲つたのである、故に其事を歌つた音楽は実に善美を尽して居る、然るに武といふ楽は武王の事を歌つたので、たとへ武王は徳があつたにせよ、兵力を以て革命を起し位に登つたのであるから、従つて其の音楽も善を尽さないと言つて居られる、孔子の意では、革命といふことは望ましいものでないと云ふことが充分に看ることが出来る、何でも人を論ずるには其の時代といふものを考へなければならぬ、孔子は周の代の人であるから、充分に露骨に周代の悪き事を論ぜられないから、美を尽せり未だ善を尽さずと云ふやうに婉曲に言つて居るのである、不幸に
して孔子は日本のやうな万世一系の国体を見もせず知りもしなかつたからであるが、若し日本に生れ又は日本に来て万世一系の我が国体を見聞したならば、どの位讃歎したか知れない、韶を聞いて美を尽くし善を尽せりと誉めた所では無い、それ以上の賞讃尊敬の意を表したに違ひない、世人が孔子の学を論ずるには、能く孔子の精神を探り、謂ゆる眼光紙背に徹する底の大活眼を以て之を観なければ、皮相に流れる虞れがある。
故に私は人の世に処せんとして道を誤まらざらんとするには、先づ論語を熟読せよと云ふのである、現今世の進歩に従つて欧米各国から新しい学説が入つて来るが、其新しいといふは我々から見れば矢張古いもので、既に東洋で数千年前に言つて居る事と同一の者を、唯言葉の言ひ廻しを旨くして居るに過ぎぬと思はれるものが多い、欧米諸国の日進月歩の新しい者を研究するのも必要であるが、東洋古来の古い者の中にも棄て難い
者のあることを忘れてはならぬ。
孔夫子が『罪を天に獲れば、祷る所なし』と曰はれた言葉のうちにある天とは、果して何であらうか、私は天とは天命の意味で、孔夫子も亦この意味に於て天なる語を用ゐられたものと信ずるのである。
人間が世の中に活き働いてるのは天命である、草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある、此の天命が即ち天の配剤となつて顕はれ、同じ人間のうちには、酒を売るものがあつたり、餅を売つたりする者があつたりするのである、天命には如何なる聖人賢者とても、必ず服従を余儀なくせられるもので、尭と雖も吾が子の丹朱をして帝
位を継がしむること能はず、舜と雖も亦太子の商均をして位に即かしむるわけには行かなかつたのである、これ皆天命の然らしむる所で、人力の如何ともすべからざる所である、草木はどうしても草木で終らねばならぬもので、鳥獣に成らうとして成り得られるものでない、鳥獣とても亦如何に成らうとしたからとても、草木には成り得られぬものである、畢竟みな天命である、之によつて稽へて見ても、人間は天命に従つて行動せねばならぬものであることが頗る明かになる。
されば孔子が曰はれた『罪を天に獲る』とは、無理な真似をして不自然の行動に出づるといふ意味であらうかと思ふ、無理な真似をしたり不自然な行動をすれば、必ず悪い結果を身の上に受けねばならぬに極つて居る、その時になつて、その尻を何処かへ持つてゆかうとしたところで、元来が無理や不自然なことをして自ら招いだ応報であるから、
何処へも持つて行き所がないと云ふことになる、これが即ち『祷る所なし』との意味である。
孔夫子は論語陽貨篇に於て、『天何言哉、四時行焉、百物生焉、天何言哉』と仰せられまた孟子も万章章句上に於て、『天不言、以行与事示之而已』と曰はれて居る通り、人間が無理な真似をしたり不自然な行動をしたりなぞして罪を天に獲たからとて、天が別に物を言つて其人に罰を加へるわけでも何でもない、周囲の事情によつて其人が苦痛を感ずるやうになるだけである、之が即ち天罰といふものである、人間が如何に此の天罰から免れやうとしても、決して免れ得べきものでは無い、自然に四時の季節が行はれ、天地万物の生育する如くに、天命は人の身の上に行はれてゆくものである、故に孔夫子も中庸の冒頭に於て、『天命之謂性』と言はれて居る、如何に人が神に祷ればとて、仏に
お頼み申したからとて、無理な真似をしたり不自然な行為をすれば、必ず因果応報は其人の身の上に廻り来るもので、到底之を逃れる訳に行くもので無い、是に於てか自然の大道を歩んで毫も無理な真似をせず、内に省みて疚しからざる者にして、初めて孔夫子の言の如く、『天生徳於予、桓魋其如予何』との自信を生じ、茲に真正の安心立命を得られることになるのである。
佐藤一斎先生は、人と初めて会つた時に得た印象によつて其人の如何なるかを判断するのが、最も間違ひのない正確な人物観察法なりとせられ、先生の著述になつた『言志録』のうちには、『初見の時に相すれば人多く違はじ』といふ句さへある、初めて会つた
時に能く其人を観れば、一斎先生の言の如く多くは誤たぬもので、度々会ふやうになつてからする観察は考へ過ぎて、却つて過誤に陥り易いものである、初めてお会ひした其の時に、この方は大抵斯んな方だなと思ふた感じには、いろ〳〵の理窟や情実が混ぜぬから、至極純な所のあるもので、その方が若し偽り飾つて居らるれば、その偽り飾つて居らる〻所が、初見の時にはチヤンと当方の胸の鏡に映つてあり〳〵と見えることになる、併し度々お会ひするやうになると、あ〻でない斯うであらう抔と、他人の噂を聞いたり、理窟をつけたり、事情に囚はれたりして考へ過ることになるから、却つて人物の観察を過まるものである。
また孟子は『存乎人者、莫良於眸子、眸子不能掩其悪、胸中正、則眸子瞭焉、胸中不正、則眸子眊焉』と、孟子一家の人物観察法を説かれて居る、即ち孟子の人物観
察法は、人の眼によつて其の人物の如何を鑑別するもので、心情の正しからざるものは何となく眼に曇りがあるが、心情の正しいものは、眼が瞭然として淀みがないから、之によつて其人の如何なる人格であるやを判断せよといふにある、この人物観察法もなかなか的確の方法で、人の眼を能く観て置きさへすれば、その人の善悪正邪は大抵知れるものである。
論語に『子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉庾[廋]哉、人焉庾[廋]哉』、初見の時に人を相する佐藤一斎先生の観察法や、人の眸子を観て其人を知る孟子の観察法は、共に頗る簡易な手ツ取り早い方法で、是によつて大抵は大過なく、人物を正当に識別し得らる〻ものであるが、人を真に知らうとするには、斯る観察法では到らぬ所があるから、茲に挙げた論語為政篇の章句の如く、視、観、察の三つを以て人を識別せねばなら
ぬものだと云ふのが、孔夫子の遺訓である。
視も観も共に「ミル」と読むが、視は単に外形を肉眼によつて見るだけの事で、観は外形よりも更に立ち入つて其奥に進み、肉眼のみならず心眼を開いて見ることである、即ち孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、先づ第一に其人の外部に顕はれた行為の善悪正邪を相し、それより其人の行為は何を動機にして居るものなるやを篤と観、更に一歩を進めて、其人の安心は何れにあるや、其人は何に満足して暮してるや等を知ることにすれば、必ず其人の真人物が明瞭になるもので、如何に其人が隠さうとしても、隠し得られるものでないといふにある、如何に外部に顕はれる行為が正しく見えても、その行為の動機になる精神が正しくなければ、其人は決して正しい人であるとは言へぬ、時には悪を敢てすること無しとせずである、また外部に現はれた行為も正しく、これが動機と
なる精神も亦正しいからとて、若しその安んずるところが飽食暖衣逸居するに在りといふやうでは、時に誘惑に陥つて意外の悪を為すやうにもなるものである、故に行為と動機と、満足する点との三拍子が揃つて正しくなければ、其人は徹頭徹尾永遠まで正しい人であるとは言ひかねるのである。
明治六年官を辞して、年来の希望なる実業に入ることに為つてから、論語に対して特別の関係が出来た、其れは始めて商売人になるといふ時、不図心に感じたのは、是からは愈々銖錙の利もて世渡りをしなければならぬが、志を如何に持つべきかに就て考へた、その時前に習つた論語のことを思ひ出したのである、論語には己を修め人に交はる
日常の教が説いてある、論語は最も欠点の少ない教訓であるが、此の論語で商売は能まいかと考へた、そして私は論語の教訓に従つて商売し、利殖を図ることが能ると考へたのである。
そこへ恰度玉乃(世履)といふ岩国の人で、後に大審院長になり、書も達者、文も上手[、]至つて真面目な人で、役人中では玉乃と私とはマー循吏と謂はれて居た、二人は官で非常に懇親にし、官も相並んで進み、勅任官になつた、二人は共に将来は国務大臣にならうといふ希望を懐いて進んで居たのだから、私が突然官を辞して商人になるといふを聞き、痛く惜まれ、是非にと言つて引止めて呉れた、私は其時井上さんの次官をして居たので、井上さんは官制の事に就て内閣と意見を異にし、殆んも[ど]喧嘩腰で退いた、そして私も井上さんと共に辞したから、私も内閣と喧嘩して辞したやうに見えたのである、
勿論私も井上さんと同じく内閣と意見は違つて居たけれども、私の辞したは喧嘩ではない、主旨が違ふ、私の辞職の原因は、当時の我国は政治でも教育でも著々改善すべき必要がある、併し我が日本は、商売が最も振はぬ、之が振はねば日本の国富を増進することが出来ぬ、これは如何にもして他の方面と同時に、商売を振興せねばならぬと考へた[、]其時までは商売に学問は不要である、学問を覚えれば却つて害がある、『貸家札唐様で書く三代目』といつて、三代目は危険であるといふ時代であつた、そこで不肖ながら学問を以て利殖を図らねばならぬといふ決心で、商売人に変つたのであるけれども、併しそこまでは幾ら友人でも分らなかつたのだから、私の辞職を喧嘩だと合点し、酷く私を誤つて居るとして責めた、君も遠からず長官になれる、大臣になれる、お互に官にあつて国家の為に尽すべき身だ、然るに賤しむべき金銭に眼が眩み、官を去つて商人になる
とは実に呆れる、今まで君をさういふ人間だとは思はなかつた、と言ふて忠告して呉れた、其時私は大に玉乃を弁駁し説得したが、私は論語を引合に出したのである、趙普が論語の半ばで宰相を助け、半ばで吾身を修めると言つた事などを引き、私は論語で一生を貫いて見せる、金銭を取扱ふが何故賤しいか、君のやうに金銭を卑しむやうでは国家は立たぬ、官が高いとか、人爵が高いとかいふことは、さう尊いものでない、人間の勤むべき尊い仕事は到る処にある、官だけが尊いのではないと色々論語などを援いて弁駁し説きつけたのである、そして私は論語を最も瑕瑾のないものと思ふたから、論語の教訓を標準として、一生商売を遣つて見ようと決心した、其れは明治六年の五月のことであつた。
其れからといふものは、勢ひ論語を読まなければならぬ事になり、中村敬宇先生や、
信夫恕軒先生に講義を聴いた、何れも多忙なものだから、終りまでは成し遂げなんだが、最近からは大学の宇野さんに願つて復た始めた、主として子供の為に遣つて居るが、私も必ず出席して聴き、そして種々と質問し、又解釈に就て意見が出たりして、中々面白く有益である、一章々々講義し、皆で考へて本当に分つて後進むのだから中々進まないが、その代り意味は善く判つて、子供なども大変に面白がつて居る。
私は今までに五人の手で論語を講究して居るが、学問的でないから、時には深い意味を知らずに居ることがある、例へば、泰伯第八の『邦有道、貧且賤焉、恥也、邦無道、富且貴焉、恥也』の語の如きも、今となつて深い意味を含んで居ることを知つた、此度は論語を委しく攻究して居るので、色々な点に気がついて悟るところが多い、併し論語は決して六ケ敷い学理ではない、六ケ敷いものを読む学者でなければ解らぬといふやう
なものでない、論語の教は広く世間に効能があるので、元来解り易いものであるのを、学者が六ケ敷くして了い、農工商などの与かり知るべきもので無いといふやうにして了つた、商人や農人は論語を手にすべきもので無いといふやうにして了つた、之は大なる間違である。
此の如き学者は、喩へば八ケましき玄関番のやうな者で、孔夫子には邪魔物である、斯んな玄関番を頼んでは孔夫子に面会することは出来ぬ、孔夫子は決して六ケ敷屋でなく、案外捌けた方で、商人でも農人でも誰にでも会つて教へて呉れる方で、孔夫子の教は実用的の卑近の教である。
苟くも人と生れ――殊に青年時代に於て、絶対に争を避けやうとする如き卑屈の根性では、到底進歩する見込も発達する見込もなく、また社会進運の上にも争の必要であることは、言ふまでもないのであるが、争を強て避けぬと同時に、時期の到来を気長に待つといふことも、処世の上には必要欠くべからざるものである。
私は今日とても勿論、争はざるべからざる所は争ひもするが、半生以上の長い間の経験によつて、些か悟つた所があるので、若い時に於けるが如くに、争ふことを余り多く致さぬやうになつたかの如くに自分ながら思はれる。これは世の中のことは、斯くすれば必ず斯くなるものである、といふ因果の関係を能く呑込んで了つて、既に或る事情が因をなして或る結果を生じてしまつてる所に、突然横から現はれて形勢を転換しやうとし、如何に争つて見た所が、因果の関係は俄に之を断ち得るものでなく、或る一定の時
期に達するまでは、人力で到底形勢を動かし得ざるものであることに想ひ到つたからである、人が世の中に処して行くのには、形勢を観望して気長に時期の到来を待つといふことも、決して忘れてはならぬ心懸である、正しきを曲げんとするもの、信ずる所を屈せしめんとする者あらば、断じて之と争はねばならぬ、青年子弟諸君に勧める傍ら、私はまた気長に時期の到来を待つの忍耐もなければならぬことを、是非青年子弟諸君に考へて置いて貰ひたいのである。
私は、日本今日の現状に対しても、極力争つて見たいと思ふことがないでも無い、幾干もある、就中日本の現状で私の最も遺憾に思ふのは官尊民卑の弊が尚だ止まぬことである、官にある者ならば、如何に不都合なことを働いても、大抵は看過せられてしまふ、偶々世間物議の種を作つて、裁判沙汰となつたり、或は隠居をせねばならぬやうな羽目
に遇ふ如き場合もないでは無いが、官にあつて不都合を働いて居る全体の者に比較すれば、実に九牛の一毛、大海の一滴にも当らず、官にある者の不都合の所為は、或る程度までは黙許の姿であると云つても、敢て過言ではないほどである。
之に反し、民間にある者は、少しでも不都合の所為があれば、直に摘発されて、忽ち縲紲の憂き目に遇はねば為らなくなる、不都合の所為あるものは総て罰せねばならぬとならば、その間に朝にあると野にあるとの差別を設け、一方は寛に一方は酷であるやうなことがあつてはならぬ、若し大目に看過すべきものならは[ば]、民間にある人々に対しても官にある人々に対すると同様に、之を看過して然るべきものである、然るに日本の現状は、今以て官民の別により寛厳の手心を異にして居る。
また民間にある者が如何に国家の進運に貢献するやうな功績を挙げても、その功が容
易に天朝に認められぬに反し、官にある者は寸功があつたのみでも、直ぐに其れが認められて恩賞に与かるやうになる。是等の点は、私が今日に於て極力争つて見たいと思ふところだが、たとひ如何に私が争つたからとて、或る時期の到来するまでは、到底大勢を一変するわけにゆかぬものと考へて居るので、目下のところ私は、折に触れ不平を洩すぐらゐに止め、敢て争はず、時期を待つてるのである。
材能の適不適を察し、適材を適所に置くといふことは、多少なりとも人を使ふ者の、常に口に是を言ふ所であつて、而して又常に心に是を難ずる所である。更に又惟ふに、適材を適所に置くといふことの蔭には、往々にして権謀の加味されて居る場合がある、
自己の権勢を張らうとするには、何よりも適材を適所に配備し、一歩は一歩より、一段は一段より、漸次に自己の勢力を扶植し、漸次に自己の立脚地を蹈固めて行かなければならぬ、斯様に工夫するものは、遂に能く一派の権勢を築き上げて、政治界に処しても、事業界に処しても、乃至何等の社会に処しても、儼然として覇者の威を振ふことが出来るのである、併し左様な行き方は、断じて私の学ぶ所では無い。
我国の古今を通じて、徳川家康といふ人ほど巧みに適材を適所に配備して、自家の権勢を張るに便じた権謀家は見当らない、居城江戸の警備として、関東は大方譜代恩顧の郎党を以て取固め、箱根の関所を控へて大久保相模守を小田原に備へ、謂ゆる三家は、水戸家を以て東国の門戸を抑え、尾州家を以て東海の要衝を扼し、紀州家を以て畿内の背後を警め、井伊掃部頭を彦根に置いて平安王城を圧したなんど、人物の配備は実に其
妙を極めたのである、其他越後の榊原、会津の保科、出羽の酒井、伊賀の藤堂にしても、且は中国九州は勿論、日本国中到らぬ隈なく、要所には必ず自家恩顧の郎党を配備し、これはと思ふ大名は、手も足も出ぬやうに取詰め、見事に徳川三百年の社稷を築き上げたのである、斯くして得たる家康の覇道は、我が国体に適ふものであつたか否かは、私が更めて批評するまでもないが、兎も角も適材を適所に置くといふ手腕に於ては、古今家康に企及し得るもの、我が国史には其の匹儔を覓め難いのである。
私は適材を適所に配備する工夫に於て家康の故智にあやかりたいものと、断えず苦心して居るのであるが、其の目的に於ては全く家康に倣ふ所がない、渋沢は何所までも渋沢の心を以て、我と相共にする人物に対するのである、是を道具に使つて自家の勢力を築かうの、何うのといふ私心は毛頭も蓄はへて居らぬ、唯私の素志は適所に適材を得る
ことに存するのである、適材の適所に処して、而して何等かの成績を挙げることは、これ其人の国家社会に貢献する本来の道であつて、やがて又それが渋沢の国家社会に貢献する道となるのである、私は此の信念の下に人物を待つのである、権謀的色彩を以て其人を汚辱し、自家薬籠の丸子として、其人を封じこめて了ふやうな、罪な業は決して致さぬ、活動の天地は自由なものでなければならぬ、渋沢の下に居りて舞台が狭いのならば、即座に渋沢と袂を分ち、自由自在に海濶な大舞台に乗り出して、思ふさま手一杯の働き振を見せて下さることを私は衷心から希ふて居る、我に一日の長あるが為に、人の自ら卑うして私の許に働いて呉れるにしても、人の一日の及ばざるの故を以て、私は其人を卑しめたくない、人は平等でなければならぬ、節制あり礼譲ある平等でなければならぬ、私を徳とする人もあらうが、私も人を徳として居る、畢竟世の中は相持ちと極めて
居るから我も驕らず、彼も侮らず、互に相許して毫末も乖離する所のなきやうに私は勤めて居る。
世間には争ひを絶対に排斥し、如何なる場合に於ても争ひをするといふことは宜しくない、『人若し爾の右の頰を打たば、左の頰をも向けよ』などと説く者もある、斯んな次第で、他人と争ひをするといふことは、処世上に果して利益になるものだらうか、将た不利益を与へるものだらうか、この実際問題になれば、随分人によつて意見が異なることだらうと思ふ、争ひは決して排斥すべきで無いと言ふものがあるかと思へば、又絶対に排斥すべきものだと考へて居る人もある。
私一己の意見としては、争ひは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであらうかと信ずるのである、私に対し、世間では余りに円満過ぎる、などとの非難もあるらしく聞き及んで居るが、私は漫りに争ふ如き事こそせざれ、世間の皆様達がお考へになつて居る如く、争ひを絶対に避けるのを処世唯一の方針と心得て居るほどに、さう円満な人間でも無い。
孟子も告子章句下に於て『無敵国外患者、国恒亡』と申されて居るが、如何にも其の通りで、国家が健全なる発達を遂げて参らうとするには、商工業に於ても、学術技芸に於ても、外交に於ても、常に外国と争つて必ず之に勝つて見せる、といふ意気込みが無ければならぬものである、啻に国家のみならず、一個人におきましても、常に四囲に敵があつて之に苦められ、その敵と争つて必ず勝つて見ませうとの気が無くては、決し
て発達進歩するもので無い。
後進を誘掖輔導せらる〻先輩にも、大観した所で、二種類の人物があるかの如くに思はれる、その一は、何事も後進に対して優しく親切に当る人で、決して後進を責めるとか、苛めるとかいふやうな事をせず、飽くまで懇篤と親切とを以て後進を引立て、決して後進の敵になる如き挙動に出でず、如何なる欠点失策があつても、猶ほ其の後進の味方となるを辞せず、何所々々までも後進を庇護して行かうとするのを持前とせられて居る、斯ういふ風な先輩は、後進より非常の信頼を受け、慈母の如くに懐かれ慕はる〻ものであるが、斯る先輩が果して後進の為に真の利益になるか如何かは、些か疑問である。
他の種類は恰度これの正反対で、何時でも後進に対するに敵国の態度を以てし、後進の揚足を取ることばかりを敢てして悦び、何か少しの欠点が後進にあれば、直ぐガミガ
ミと怒鳴りつけて、之を𠮟り飛ばして完膚なきまでに罵り責め、失策でもすると、もう一切かまひつけぬといふ程に、つらく後進に当る人である、斯く一見残酷なる態度に出づる先輩は、往々後進の怨恨を受けるやうな事もあるほどのもので、後進の間には甚だ人望の乏しいものであるが、斯る先輩は果して後進の利益にならぬものだらうか、この点は篤と青年子弟諸君に於て熟考せられて然るべきものだらうと思ふ。
如何に欠点があつても、又失策しても、飽くまで庇護して呉れる先輩の懇篤なる親切心は、誠に有難いものであるに相違ないが、か〻る先輩しかないといふ事になれば、後進の奮発心を甚しく沮喪さするものである、仮令失策しても先輩が恕して呉れる、甚しきに至つては、如何なる失策をしても、失策すれば失策したで先輩が救つて呉れるから、予め心配する必要は無いなど、至極暢気に構へて、事業に当るにも綿密なる注意を欠
いたり、軽躁な事をしたりするやうな後進を生ずるに至り、どうしても後進の奮発心を鈍らす事になるものである。
之に反し、後進をガミ〳〵責めつけて、常に後進の揚足を取つてやらう〳〵といふ気の先輩が上にあれば、その下にある後進は、寸時も油断がならず、一挙一動にも隙を作らぬやうにと心懸け、あの人に揚足を取られる様な事があつてはならぬから、と自然身持にも注意して不身持なことをせず、怠るやうなことも慎み、一体に後進の身が締るやうになるものである、殊に後進の揚足を取るに得意な先輩は、後進の欠点失策を責めつけ、之を罵り嘲るのみで満足せず、その親の名までも引き出して、之を悪ざまに言ひ罵り、「一体貴公の親からして宜しく無い」なぞとの語を能く口にしたがるものである、随つて斯る先輩の下にある後進は、若し一旦失敗失策があれば、単に自分が再び世に立て
なくなるのみならず、親の名までも辱しめ、一家の恥辱になると思ふから、どうしても奮発する気になるものである。
真の逆境とは如何なる場合をいふか、実例に徴して一応の説明を試みたいと思ふ、凡そ世の中は順調を保つて平穏無事にゆくのが普通であるべき筈ではあるが、水に波動のある如く、空中に風の起るが如く、平静なる国家社会すらも、時としては革命とか変乱とかいふことが起つて来ないとも断言されない、而してこれを平静無事な時に比すれば明かに逆であるが、人も亦此の如き変乱の時代に生れ合ひ、心ならずも其の渦中に捲き込まれるは不幸の者で、斯ういふのが真の逆境に立つといふのではあるまいか、果
して然らば余も亦逆境に処して来た一人である、余は維新前後世の中が最も騒々しかつた時代に生れ合ひ、様々の変化に遭遇して今日に及んだ、顧みるに維新の際に於けるが如き世の変化に際しては、如何に智能ある者でも、また勉強家でも、意外な逆境に立つたり、或は順境に向ふたりしないとは言はれない、現に余は最初尊王討幕、攘夷鎖港を論じて東西に奔走して居たものであつたが、後には一橋家の家来となり、幕府の臣下となり、それより民部公子に随行して仏国に渡航したのであるが、帰朝して見れば幕府は既に亡びて世は王政に変つて居た、此間の変化の如き、或は自分に智能の足らぬことはあつたであらうが、勉強の点に付ては自己の力一杯にやつた積りで、不足はなかつたと思ふ、併しながら社会の遷転、政体の革新に遇うては、之を奈何ともする能はず、余は実に逆境の人となつて仕舞つたのである、其頃逆境に居つて最も困難したこと
は今も尚ほ記憶して居る、当時困難したものは余一人だけでなく、相当の人材中に余と境遇を同じうした者は沢山にあつたに相違ないが、斯の如きは畢竟大変化に際して免れ難い結果であらう、但しこんな大波瀾は少いとしても、時代の推移に伴れて、常に人生に小波瀾あることは止むを得ない、従つて其の渦中に投ぜられて逆境に立つ人も常にあることであらうから、世の中に逆境は絶対に無いと言ひ切ることは出来ないのである、只順逆を立つる人は、宜しく其の由つて来る所以を講究し、それが人為的逆境であるか、但しは自然的逆境であるかを区別し、然る後之に応ずるの策を立てねばならぬ。
併し自然的逆境は大丈夫の試金石であるが、さて其の逆境に立つた場合は如何に其間に処すべきか、神ならぬ身の余は別にそれに対する特別の秘訣を持つものではない、
又恐らく社会にも左様いふ秘訣を知つた人はなからうと思ふ、併しながら余が逆境に立つた時、自ら実験した所、及び道理上から考へて見るに、若し何人でも自然的逆境に立つた場合には、第一に其の場合に自己の本分であると覚悟するのが唯一の策であらうと思ふ、足るを知りて分を守り、これは如何に焦慮すればとて、天命であるから仕方がないとあきらめるならば、如何に処し難き逆境に居ても、心は平かなるを得るに相違ない、然るに若し此の場合を総て人為的に解釈し、人間の力で如何にかなるものであると考へるならば、徒らに苦労の種を増すばかりか、労して功のない結果となり、遂には逆境に疲れさせられて、後日の策を講ずることも出来なくなつて仕舞ふであらう、故に自然的の逆境に処するに当つては、先づ天命に安んじ、徐ろに来るべき運命を待ちつ〻撓まず屈せず勉強するが可い。
それに反して、人為的逆境に陥つた場合は如何にすべきかといふに、之は多く自働的なれば、何でも自分に省みて悪い点を改めるより外はない、世の中の事は多く自働的のもので、自分から斯う仕度いあ〻仕度いと奮励さへすれば、大概は其の意の如くになるものである、然るに多くの人は自ら幸福なる運命を招かうとはせず、却つて手前の方から殆んと[ど]故意に侫けた人となつて逆境を招くやうな事をして仕舞ふ、それでは順境に立ちたい、幸福な生涯を送りたいとて、其れを得られる筈が無いではないか。
私の処世の方針としては、今日まで忠恕一貫の思想でやり通した、古来宗教家道徳家といふやうな人に碩学鴻儒が沢山輩出して、道を教へ法を立てたけれども、畢竟それは
修身――即ち身を修めるといふ一事に尽きて居るだらうと思ふ、其の修身も廻りくどく言へば六ケ敷いが、解り易く云へば、箸の上げ下しの間の注意にも、十分その意義が含まれて居るだらうと思はれる、私は其の意味に於て、家族に対しても、客に対しても、其他手紙を見るにも何を見るにも誠意を以てして居る、孔子は此の意味を『入公門、鞠躬如也、如不容、立不中門、行不履閾、過位、色勃如也、足躩如也、其言似不足者、摂斉升堂、鞠躬如也、屏気、似不息者、出降一等、逞顔色、怡々如也、没階趨進、翼如也、復其位、踧踖如也』の中に遺憾なく説いて居られる、又、享礼、聘招、衣服、起臥に就ても諄々と説かれ、食物の段に至つて、『食不厭精、膾不厭細、食饐而餲、魚餒而肉敗不食、色悪不食、臭悪不食、失飪不食、不時不食、割不正不食、不得其醤不食』云々と言つて居られる、是等は極く卑近な例だが、道徳や
倫理は是等卑近の裡に籠つて居るのであらうと思ふ。
箸の上げ下しの注意が出来れば、次に心掛くべきは自分を知るといふことである、世の中には随分自分の力を過信して非望を起す人もあるが、余り進むことばかり知つて、分を守ることを知らぬと、飛んだ間違を惹き起すことがある、私は蟹は甲羅に似せて穴を掘るといふ主義で、渋沢の分を守るといふことを心掛けて居る、是でも今から十年ばかり前に、是非大蔵大臣になつて呉れだの、また日本銀行の総裁になつて呉れだのといふ交渉を受けたこともあるが、自分は明治六年に感ずる所があつて実業界に穴を掘つて這入つたのであるから、今更その穴を這出すことも出来ないと思つて固く辞して了つた、孔子は、『以て進むべくんば進み、以て止まるべくんば止まり、以て退くべくんば退く』と言つて居られるが、実際人は其の出処進退が大切である、併しながら分に安んずるか
らと云つて、進取の気象を忘れて了つては何にもならぬ、業若し成らずんば死すとも還らずとか、大功は細瑾を顧みずとか、男子一度意を決す、須からく乾坤一擲の快挙を試むべしなど云ふが、其間にも必ず己が分を忘れてはならぬ、孔子は『心の欲する所に従つて矩を踰えず』と曰はれたが、つまり分に安んじて進むのが可からうと思ふ。
次に青年の最も注意すべきことは、喜怒哀楽である、特に青年のみならず、凡そ人間が処世の道を誤るのは、主として七情の発作宜しきを得ざるが為で、孔子も『関睢は楽んで淫せず、哀しんで傷らず』といつて、深く喜怒哀楽の調節の必要なることを述べて居られる、私共も酒も飲めば遊びもしたが、淫せず傷らずといふことを常に限度として居た、之を要するに、私の主義は誠意誠心、何事も誠を以て律すると言ふより外何物もないのである。
凡そ人の禍は多くは得意時代に萠すもので、得意の時は誰しも調子に乗るといふ傾向があるから、禍害は此の欠陥に喰ひ入るのである、されば人の世に処するには此点に注意し、得意時代だからとて気を緩さず、失意の時だからとて落胆せず、常操を以て道理を蹈み通すやうに心掛けて出ることが肝要である、其れと共に考へねばならぬことは大事と小事とに就て〻゙ ある、失意時代なら小事も尚ほ能く心するものであるが、多くの人の得意時代に於ける思慮は全く其れと反し、『なにこれしきのこと』と云つたやうに、小事に対しては殊に軽侮的の態度を取り勝ちである、併しながら得意時代と失意時代とに拘はらず、常に大事と小事とに就ての心掛を緻密にせぬと、思はざる過失に陥り易い
ことを忘れ[て]はならぬ。
誰でも目前に大事を控へた場合には、之を如何にして処置すべきかと、精神を注いで周密に思案するけれども、小事に対すると之に反し、頭から馬鹿にして不注意の中に之をやり過して了うのが世間の常態である。但し箸の上げ下しにも心を労する程小事に拘泥するは、限りある精神を徒労するといふもので、何も夫程心を用ふる必要の無いこともある、また大事だからとて、左まで心配せずとも済まされることもある、故に事の大小といふたとて、表面から観察して直ちに決する訳にはゆかぬ、小事却つて大事となり、大事案外小事となる場合もあるから、大小に拘はらず、その性質をよく考慮して、然る後に相当の処置に出るやうに心掛くるのが宜いのである。
然らば大事に処するには如何にすれば宜いかといふに、先づ事に当つて能く之を処理
することが出来やうかと云ふことを考へて見なければならぬ、けれども其れとて人々の思慮に因るので、或人は自己の損得は第二に置き、専ら其事に就て最善の方法を考へる、又或人は自己の得失を先にして考へる、或は何物をも犠牲として其事の成就を一念に思ふ者もあれば、之と反対に自家を主とし、社会の如きは寧ろ眼中に置かぬ打算もあらう、蓋し人は銘々その面貌の変つて居る如く、心も異つて居るものであるから、一様に言ふ訳には行かぬが、若し余にどう考へるかと問はるれば、次の如く答へる、即ち事柄に対し如何にせば道理に契ふかを先づ考へ、而して其の道理に契つた遣方をすれば国家社会の利益となるかを考へ、更に此くすれば自己の為にもなるかと考へる、さう考へて見た時、若しそれが自己の為にはならぬが、道理にも契ひ、国家社会をも利益するといふことなら、余は断然自己を捨て、道理のある所に従ふ積りである。
斯く事に対して是非得失、道理不道理を考査探究して、然る後に手を下すのが事を処理するに於て宜しきを得た方法であらうと思ふ、併し考へるといふ点から見れば、孰れにしても精細に思慮しなくてはならぬ、一見して之は道理に契ふから従ふがよいとか、之は公益に悖るから棄てるが宜いとかいふが如き早飲込はいけない、道理に合ひさうに見えることでも、非道理の点はなからうかと右からも左からも考へるが可い、また公益に反するやうに見えても、後々には矢張世の為になるものではなからうかと、穿ち入つて考へなくてはならぬ、一言にして是非曲直、道理非道理と速断しても、適切でなければ折角の苦心も何にもならぬ結果となる。
小事の方になると、悪くすると熟慮せずに決定して了ふことがある、それが甚だ宜しくない、小事といふ位であるから、目前に現はれた所だけでは極めて些細なことに見え
るので、誰も之を馬鹿にして念を入れることを忘れるものであるが、此の馬鹿にして掛る小事も、積んでは大事となることを忘れてはならぬ、また小事にも其の場限りで済むものもあるが、時としては小事が大事の端緒となり、一些事と思つたことが後日大問題を惹起するに至ることがある、或は些細なことから次第に悪事に進みて、遂には悪人となるやうなこともある、それと反対に小事から進んで次第に善に向ひつ〻行くこともある、始めは些細な事業であると思つたことが、一歩々々に進んで大弊害を醸すに至ることもあれば、之が為め一身一家の幸福となるに至ることもある、是等は総て小が積んで大となるのである、人の不親切とか我儘とかいふことも、小が積んで次第に大となるもので、積り積れば政治家は政治界に悪影響を及ぼし、実業家は実業上に不成績を来し、教育家はその子弟を誤るやうになる、されば小事必ずしも小でない、世の中に大事とか
小事とかいふものはない道理、大事小事の別を立て〻兎や角といふのは、畢竟君子の道であるまいと余は判断するのである、故に大事たると小事たるとの別なく、凡そ事に当つては同一の態度、同一の思慮を以て之を処理するやうにしたいものである。
之に添へて一言して置きたいことは、人の調子に乗るは宜くないといふことである、『名を成すは常に窮苦の日にあり、事を敗るは多く得意の時に因す』と古人も云つて居るがこの言葉は真理である、困難に処する時は丁度大事に当つたと同一の覚悟を以て之に臨むから、名を成すはさういふ場合に多い、世に成功者と目せらる〻人には、必ず『あの困難をよく遣り遂げた』、『あの若[苦]痛をよく遣り抜いた』といふやうなことがある、これ即ち心を締めて掛つたといふ証拠である、然るに失敗は多く得意の日に其の兆をなして居る、人は得意時代に処しては恰も彼の小事の前に臨んだ時の如く、天下何事か成らざら
んやの槩を以て、如何なることをも頭から呑んで掛るので、動もすれば目算が外れて飛んでもなき失敗に落ちて了ふ、それは小事から大事を醸すと同一義である、だから人は得意時代にも調子に乗るといふこと無く、大事小事に対して同一の思慮分別を以て之に臨むが可い、水戸黄門光圀公の壁書中に『小なる事は分別せよ、大なることに驚くべからず』とあるは、真に知言と謂ふべきである。
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材有分而用有当、所貴善因時而已耳。
亢倉子
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衆人之智、可以測天、兼聴独断、惟在一人。
説苑