テキストで読む
史乗などに見ゆる所の英雄豪傑には、兎角智情意の三者の権衡を失した者が多いやうである、乃ち意志が非常に強かつたけれども智識が足りなかつたとか、意志と智慧とは揃うて居たが、情愛に乏しかつたとかいふが如き性格は、彼等の間に幾らもあつた、斯の如きものは如何に英雄でも豪傑でも常識的の人とは謂はれない、成る程、一面から見れば非常に偉い点がある、超凡的な所がある、普通一般人の企及すべからざる点があるには相違ないが、偉き人と完き人とは大に違ふ、偉い人は人間の具有すべき一切の性格に仮令欠陥があるとしても、其の欠陥を補うて余りあるだけ他に超絶した点のある人で、完全なる人に比すれば、謂は〻゙ 変態である、夫に反して完き人は、智情意の三者が円満に具足した者、即ち常識の人である、余は勿論偉い人の輩出を希望するのであるけれども、社会の多数人に対する希望としては、寧ろ完き人の世に隈なく充たんことを欲する、詰り常識の人の多からんことを要望する次第である、偉い人の用途は無限とは云へぬが、完き人なら幾らでも必要な世の中である、社会の諸設備が今日の如く整頓し発達して居る際には、常識に富んだ人が沢山に居て働けば、それで何等の欠乏も不足もない訳で、偉い人の必要は、或る特殊の場合を除いては、これを認むることが出来ない。
凡そ人の青年期ほど思想が一定せず、奇を好んで突飛な行動に出でんとする時代は少なからう、それも年を経るに従ひ、次第に着実になつて行くものだが、青年時代には多くの人の心は浮動して居る、然るに常識といふものは其の性質が極めて平凡なものであるから、奇矯を好み突飛を好む青年時代に、此の平凡な常識を修養せよといふは、彼等の好奇心と相反する所があらう、偉い人になれと言はるれば進んでこれに賛成するが、完き人となれと云はるれば、其の多くは之を苦痛に感ずるのが彼等の通有性である、併しながら政治の理想的に行はる〻も国民の常識に竢ち、産業の発達進歩も実業家の常識に負ふ所が多いとすれば、否でも常識の修養に熱中しなければならぬでは無いか、況んや社会の実際に徴するに、政治界でも、実業界でも、深奥なる学識といふよりは、寧ろ健全なる常識ある人に依つて支配されて居るを見れば、常識の偉大なることは言ふまでもないのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.115-117
出典:常識の修養法(『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.466-475)
サイト掲載日:2024年11月01日