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私が初めて欧羅巴へ旅行したのは旧幕府時代であつた、慶応三年に仏蘭西に行つて、約一年も居り、其他の国々も巡廻して、一と当りの事情は知るを得たけれども、不幸にして其時には亜米利加に旅行をしなかつたが、明治三十五年(西暦一千九百二年)に初めて亜米利加へ行つた、曾て其の土地は蹈まぬでも、十四五歳の時から亜米利加なるものを知り、其の外交の関係に就て特に注目し、且つ従来の国交が甚だ適順に進んで居たので、亜米利加と云ふ音は、常に自分の耳を楽しましめるものであつた、而して其の土地を初めて見たのであるから、事々物々実に私の心を喜ばして、幾んど我が故郷へでも帰つたやうな感じを持つた、最初に桑港へ上陸して様々なる事物に接触して、深く興味を持つて居つた、所が、唯一つ大に私の心を刺戟したのは、金門公園の水泳場へ行つた時に、其の水泳場の掛札に『日本人泳ぐべからず』といふことが書いてあつた、これは私の如き亜米利加に対して愉快なる感じを持つて居る身には、特に奇異の思ひをなさしめた、当時桑港に居つた日本の領事上野季三郎といふ人に、何故か〻る掛札があるかと問ふたら、それは亜米利加に来て居る移住民の青年等が、公園の水泳場に行つて、亜米利加の婦人が泳いで居るのを、潜行して足を引張る、さういふ悪戯が多い為に、右の掛札を掛けられたのである、と説明した、其時に私は大に驚いて、其れは日本の青年の不作法が原因をなして居る、併しながら此く些細なことでも、兎に角差別的の待遇を受けるといふことは、日本として心苦しい話だ、斯ういふ事が段々増長して行くと、終には両国の間に如何なる憂ふべき事が生ずるかも知れぬ、さなきだに東西洋の人種間には、種族の関係、宗教の関係といふものは、斯の如く親んで居るとも、未だ全く融和したとは言へないやうに思ふのに、さういふ事が現はれたのは真に憂ふべきことである、領事に職を奉ずる人は、充分御注意をして欲しいものだと言つて別れたが、之が三十五年の六月の初めであつた、尋で市俄古、紐育、「ボストン」、費府を経て華盛頓に往つた、こ〻で時の大統領ルーズヴエルト氏に謁見することが出来た、其他にもハリマン、ロツクフエラー、スチルマン抔の亜米利加で有名なる人々にも面会した、初めルーズヴエルト氏に面会した時に、ル氏は頻りに日本の軍隊と美術とに就て賞讃の辞を与へられた、日本の兵は勇敢にして軍略に富み、且つ仁愛の情に深く、節制ありて極めて廉潔である、それは北清事件の時に、亜米利加の軍隊が行動を共にしたに依りて、日本の軍隊の善良なるを見て敬服したといふことであつた、また美術も欧米人が如何に羨望しても、企て及ばざる一種の妙味を有つて居ると言つて賞めた、私は此時に、自分は銀行家であつて美術家ではない、又軍人でないから軍事も知らない、然るに閣下は私に向つて軍事と美術だけをお賞め下すつたが、次回に私が閣下にお目に掛る時には、日本の商工業に対して御賞讃のお言葉のあるやうに、不肖ながら私は国民を率ゐて努める積りであると答へた、之に対してル氏が言ふには、私は日本の商工業が劣つて居るといふ意味を以て、他を褒めた訳ではなかつた、詰り軍事と美術とが先に自分の眼についたから、日本の有力なる人に向つては、先づ日本の長所を述べるのが宜いと思つたのである、決して日本の商工業を軽蔑したのでは無い、私の言葉が悪るかつたのだから、悪い感じを持つて下さらぬやうにして欲しい、イヤ決して悪い感じは持ちませぬ、閣下が日本の長所を褒めて下さつたのは有難いけれども、私は商工業が第三の日本の長所たるやうになりたいと、頻りに苦心して居るのであると言つて、胸襟を披いて談話したことがある、其後亜米利加の各地に於て種々の人々にも会ひ、いろ〳〵の物にも接触して、誠に愉快なる旅行を了つて帰朝したのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.288-292
出典:日米国交と予の関係(『竜門雑誌』第310号(竜門社, 1914.03)p.17-25)
サイト掲載日:2024年11月01日