テキストで読む

武士道は即ち実業道なり

 武士道の神髄は正義、廉直、義俠、敢為、礼譲等の美風を加味したもので、一言にして之を武士道と唱へるけれども、其の内容に至りては中々複雑した道徳である、而して余が甚だ遺憾に思ふのは、此の日本の精華たる武士道が、古来専ら士人社会のみに行はれて、殖産功利に身を委ねたる商業者間に、其の気風の甚だ乏しかつた一事である、古の商工業者は武士道に対する観念を著しく誤解し、正義、廉直、義俠、敢為、礼譲等のことを旨とせんには、商売は立ち行かぬものと考へ、彼の『武士は喰はねど高楊枝』といふが如き気風は、商工業者に取つての禁物であつた、惟ふにこれは時勢の然らしめた所もあつたであらうけれども、士人に武士道が必要であつた如く、商工業者も亦その道が無くては叶はぬことで、商工業者に道徳は要らぬなぞとは飛んでもない間違であつたのである。

 蓋し封建時代に於て、武士道と殖産功利の道と相背馳するが如く解せられたのは、猶ほ彼の儒者が、仁と富とは並び行はれざるもの〻如く心得たと同一の誤謬であつて、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であらうと思ふ、孔子の謂ゆる『富と貴とは是れ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処らざるなり、貧と賤とは是れ人の悪む所なり、其の道を以てせずして之を得るも去らざるなり』とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義俠等に適合するものではあるまいか、孔子の訓に於て、賢者が貧賤に処して其の道を易へぬといふのは、恰かも武士が戦場に臨んで敵に後を見せざるの覚悟と相似たるもので、又彼の其の道を以てするに非ざれば、仮令富貴を得ることがあつても、安んじてこれに処らぬと曰ふのは、これまた古へ武士が其の道を以てせざれば一毫も取らなかつた意気と、その軌を一にするものと謂つて宜しからう、果して然らば富貴は聖賢も亦これを望み、貧賤は聖賢も亦これを欲しなかつたけれども、唯彼の人々は道義を本とし富貴貧賤を末としたが、古への商工業者はこれを反対にしたから、遂に富貴貧賤を本として道義を末とするやうになつて仕舞つた、誤解も亦甚しいではないか。

 想ふに此の武士道は、啻に儒者とか武士とかいふ側の人々に於てのみ行はる〻ものではなく、文明国に於ける商工業者の、拠りて以て立つべき道も茲に存在すること〻考へる、彼の泰西の商工業者が、互に個人間の約束を尊重し、仮令その間に損益はあるとしても、一度約束した以上は、必ず之を履行して前約に背反せぬといふことは、徳義心の鞏固なる正義廉直の観念の発動に外ならぬのである、然るに我日本に於ける商工業者は、尚ほ未だ旧来の慣習を全く脱することが出来ず、動ともすれば道徳的観念を無視して、一時の利に趨らんとする傾向があつて困る、欧米人も常に日本人が此の欠点あることを非難し、商取引に於て日本人に絶対の信用を置かぬのは、我邦の商工業者に取つて非常な損失である。

 凡そ人としてその処世の本旨を忘れ、非道を行うても私利私慾を充たさうとすることがあつたり、或は権勢に媚び諂うても其身の栄達を計らんと欲するは、これ実に人間行為の標準を無視したもので、斯くの如きは決して其の身、其の地位を永遠に維持する所以の道では無いのである、苟くも世に処し身を立てようと志すならば、其の職業の何たるを問はず、身分の如何を顧みず、終始自力を本位として須臾も道に背かざることに意を専らにし、然る後に自ら富み且つ栄ゆるの計を怠らざるこそ、真の人間の意義あり価値ある生活といふ事が出来よう、今や武士道は移して以て実業道とするがよい、日本人は飽くまで大和魂の権化たる武士道を以て立たねばならぬ、商業にまれ工業にまれ、此の心を以て心とせば、戦争に於て日本が常に世界の優位を占めつ〻あるが如く、商工業に於ても亦世界に勇を競ふに至らる〻のである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.308-312

参考記事:武士道と実業(『青淵百話』(同文館, 1912.06)p.196-203)

サイト掲載日:2024年03月29日