テキストで読む

常識とは如何なるものか

 凡そ人として世に処するに際し、常識は何れの地位にも必要で、又何れの場合にも欠けてはならぬことである、然らば常識とは如何なるものであらうか、余は次の如く解釈する。

 即ち事に当りて奇矯に馳せず、頑固に陥らず、是非善悪を見別け、利害得失を識別し、言語挙動すべて中庸に適ふものがそれである、これを学理的に解釈すれば『智、情、意』の三者が各々権衡を保ち、平等に発達したものが完全の常識だらうと考へる、更に換言すれば、普通一般の人情に通じ、能く通俗の事理を解し、適宜の処置を取り得る能力が即ちそれである、人間の心を解剖して『智、情、意』の三つに分解したものは心理学者の唱道に基く所であるが、何人と雖も此の三者の調和が不必要と認めるものは無からうと思ふ、智恵と情愛と意志との三者があつてこそ、人間社会の活動も出来、物に接触して効能をも現はしてゆけるものである、故に常識の根本原則たる『智、情、意』の三者に就て少しく述べて見やうと思ふ。

 さて『智』は人に取つて如何なる働きをするものであらうか、人として智恵が十分に進んで居らねば、物を識別する能力に不足を来すのであるが、此の物の善悪是非の識別が出来ぬ人や、利害得失の鑑定に欠けた人であるとすれば、其人に如何ほど学識があつても、善いことを善いと認めたり、利あることを利ありと見分けをして、それに就くわけに行かぬから、さういふ人の学問は宝の持ち腐れに終つてしまふ、此所を思へば智恵が如何に人生に大切であるか〻゙ 知らる〻であらう、所が、彼の宋の大儒程朱の如きは痛く此の智を嫌つた、それは智の弊として、動もすれば術数に陥り、欺瞞詐偽の生ずる場合がある、また功利を主とすれば智恵の働きが多くなり、仁義道徳の方面には遠くなるとの理由で之を疎外した、それが為め折角多方面に活用せしむべき学問が死物になり、唯己れ一身をさへ修めて悪事が無ければ宜いといふことになつて仕舞つた、是は大なる誤思謬見で、仮りに一身だけ悪事が無いから宜いと手を束ねて居る人のみとなつたら如何なものであらうか、左様いふ人は世に処し社会に立つて何等の貢献する所もない、それでは人生の目的が那辺に存するかを知るに苦しまねばならぬ、とは云へ、素より悪行があつては勿論不可ぬけれども、人は総て悪事に陥らずに、多くの世務を果すやうで無ければ、真の人間とは謂はれぬのである、若し智の働きに強い検束を加へたら、その結果は如何であらう、悪事を働かぬことにはなりもしようが、人心が次第に消極的に傾き、真に善事の為にも活動する者が少くなつて仕舞はねば宜いがと、甚だ心配に堪へぬ訳である、朱子は謂ゆる『虚霊不昧』とか『寂然不動』とかいふやうな説を主張して、仁義忠孝を説き、智は詐術に奔るものであるというて絶対に之を嫌つたから、それが為に孔孟の教は偏狭に陥り、儒教の大精神を世人に誤解されるやうになつた点が少くないと思ふ、智は実に人心に取つて欠くべからざる大切の一要件である、故に余は智は決して軽視すべからざるものとして居る。

 智の尊ぶべきものなることは実に前述の如くであるが、併し智ばかりで活動が出来るかといふに、決して左様いふものでない、そこに『情』といふものを巧みに案排しなれけ[けれ]ば、智の能力をして充分に発揮せしむることが出来ないのである、例を挙げて説明すれば、徒らに智ばかり勝つて情愛の薄い人間はどんなものであらうか、自己の利益を図らんとする為には、他人を突き飛ばしても蹴倒しても一向頓著しない、由来智恵が十分に働く人は、何事に対しても一見して其の原因結果の理を明かに知ることが出来、事物の見透しが付くのであるが、斯る人物にして若し情愛が無かつたら堪つたものでない、其の見透した終局までの事理を害用し、自己本位を以て何所までもやり通す、此の場合他人の迷惑や難儀なぞが如何に来ようとも、何とも思はぬほど極端になつて仕舞ふ、其所の不権衡を調和してゆくものが即ち情である、情は一の緩和剤で、何事も此の一味の調合によつて平均を保ち、人生のことに総て円満なる解決を告げてゆくものである、仮りに人間界から情の分子を除却したらどういふ事にならうか、何も彼も極端から極端に走り、遂には如何ともすべからざる結果に逢著しなければなるまい、此故に人間に取つては『情』は欠くべからざる一機能である、併しながら情の欠点は最も感動の早いものであるから、悪くすると動き易いやうになる、人の喜怒哀楽愛悪慾の七情によりて生ずる事柄は変化の強いもので、心の他の部面に於てこれを制裁するものが無ければ、感情に走り過ぐるの弊が起る、是に於てか始めて『意志』なるもの〻必要が生じて来るのである。

 動き易い情を控制するものは鞏固なる意志より外はない、然り矣、意は精神作用中の本源である、鞏固なる意志があれば人生に於ては最も強味ある者となる、けれども徒らに意志ばかり強くて、之に他の情も智も伴はなければ、唯頑固者とか強情者とかいふ人物となり、不理窟に自信ばかり強くて、自己の主張が間違つて居ても、それを矯正しようとはせず、何所迄も我を押通すやうになる、勿論斯ういふ風の人も、或る意味から見れば尊ぶべき点がないでも無いが、それでは一般社会に処すべき資格に於て欠けて居る[、]謂は〻゙ 精神的の片輪で完全の人とは言はれない、意志の鞏固なるが上に聡明なる智恵を加味し、之を調節するに情愛を以てし、此の三者を適度に調合したものを大きく発達せしめて行つたのが、始めて完全なる常識となるのである、現代の人は能く口癖のやうに意志を強く持てといふが、意志ばかり強くても矢張困り者で、俗にいふ『猪武者』のやうな者になつては、如何に意志が強くても社会に余り有用の人物とは云へないのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.96-102

参考記事:常識の修養法(『青淵百話』(同文館, 1912.06)p.473-482)

サイト掲載日:2024年03月29日