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◎人生観の両面

 人は此の世に生れた以上、必ず何等かの目的がなくては叶はぬことだが、其の目的とは果して何事であるか、如何にして遂げ得べきか、これは人の面貌の異れる如く、各自意見を異にして居るであらうが、恐らくは次の如く考ふる人もあるであらう、それは自己の長じたる手腕にせよ、技倆にせよ、それを十分に発揮して力の限りを尽し、以て君父に忠孝を効し、或は社会を救済しようと心懸ける、併し其れも漠然と心で思ふだけでは何にもならぬ、矢張り何等か形式に現はして為なければならぬので、茲に己の修め得たる材能に依頼して、各自の学問なり、技術なりを尽すやうにする、例へば、学者ならば学者としての本分を尽し、宗教家ならば宗教家としての職責を完うし、政治家も其の責任を明かにし、軍人も其の任務を果すといふやうに、各自に其の能力の有らん限りを傾けて之に心を入れる、斯の如き場合に於ける其の人々の心情を察するに、寧ろ自己の為といふよりは君父の為め、社会の為といふ観念といふ方が勝つて居る、即ち君父や社会を主とし、自己のことをば賓と心得て居るので、余は之をしも客観的人生観とは名くるのである。

 然るに前陳のやうなことは全く反対に、唯々簡単に自分一人のことばかり考へ、社会のことや他人のことなぞ考へない者もあるであらう、併し此人の考の如く社会を観察すれば、矢張り其所に理屈がないでもない、即ち自己は自己の為に生れたものである、他人の為や社会の為に自己を犠牲にすることは怪しからぬではないか、自己の為に生れた自己なら、何所までも自己の為に計るが可いとの主張から、社会に起る諸事件に対し、出来得る限り自己に利益になるやうにばかりして行く、例へば、借金は自分の為に自分がしたのだから、是は当然払ふべき義務があるから払ふ、租税も自分が生存しつ〻ある国家の費用だから、当然に上納する、村費も亦左様であるが、此上他人を救ふ為に、或は公共事業の為に義捐するといふやうな責任は負はない、それは他人のため社会の為にはなるであらうが、自分の為にならぬからだとなし、何でも自己の為に社会を経営させようとする[。]即ち自己を主として他人や社会をば賓と心得、自己の本能を満足せしめ、自我を主張するを以て能事終れりとする、余は此の如きものを名けて主観的人生観とは言ふのである。

 余は今是等二者の中、事実に於て如何と考ふるに、若し後者の如き主義を以て押し通すときは、国家社会は自ら粗野となり、鄙陋となり、終には救ふべからざる衰頽になりはすまいか、それに反して前者の如き主義で拡充してゆけば、国家社会は必ず理想的のものとなつてゆくに相違ない、故に余は客観的に与して主観的をば排斥するのである、孔子の教に『仁者は己れ立たんと欲して先づ人を立て、己れ達せんと欲して先づ人を達す』と曰うてあるが、社会のこと人生のことは総て斯うなくては為らぬこと〻思ふ、己れ立たんと欲して先づ人を立てといひ、己れ達せんと欲して先づ人を達すといへば、如何にも交換的の言葉のやうに聞えて、自慾を充たさう為に、先づ自ら忍んで人に譲るのだといふやうな意味にも取れるが、孔子の真意は決してそんな卑屈なもので無かつたに違ひない、人を立て達せしめて、然る後に自己が立ち達せんとするは、其の働きを示したもので、君子人の行の順序は此くあるべきものだと教へられたに過ぎぬのである、換言すれば、それが孔子の処世上の覚悟であるが、余も亦人生の意義は此くあるべき筈だと思ふ。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.197-201

出典:人生観(『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.10-19)

サイト掲載日:2024年11月01日