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由来競争は何物にも伴ふもので、その最も激烈を極むるものは競馬とか競漕とかいふ場合である、其の他朝起るにも競争がある、読書するにも競争がある、また徳の高い人が徳の低い人から尊重されるにも、それ〴〵競争がある、けれども是等後の方のものに於ては、余り激烈なものは認めない、然るに競馬競漕となると、命を懸けても構はないといふ程になる、自己の財産を増すに就ても是と同様で、激烈なる競争の念を起し、彼よりも我に財産の多からんことを欲する、其極、道義の観念も打忘れて、謂ゆる目的の為には手段を択ばぬといふやうにもなる、即ち同僚を誤り、他人を毀ち、或は大に自己を腐敗する、古語に『富をなせば仁ならず』といふのも、畢竟さういふ所から出た言葉であらう、アリストートルは『総ての商売は罪悪なり』と言つて居るさうであるが、それは未だ人文の開けぬ時代のことで、如何に大哲学者の申分とあつても、真面目には受取れない、併し孟子も『富をなせば仁ならず、仁をなせば富まず』と言つて居るから、等しく味はふべき言葉である。
蓋ふに此の如く道理を誤るやうになつたのは、一般の習慣の然らしめた結果といはなければならぬ、元和元年に大阪方が亡び、徳川家康が天下を統一し、武を偃せて復た之を須ゐない時代となつて以来、政治の方針は一に孔子教より出て居つたやうである、その以前、支那或は西洋に相当の接触もしたのであるが、偶〻「ゼシユイツト」教徒が、日本に対して恐るべき企を持つて居るかに見えたことがあつた、或は宗教によつて国を取るのを其の趣意として居るなどといふ書面が和蘭から来たといふやうなことから、海外との接触を全く絶つて、僅か、長崎の一局部に於てのみ之を許し、内は全く武力を以て之を守り治めた、而して其の武力を以て治める人の遵奉したのは実に孔子教であつた、修身、斉家、治国、平天下の調子で治めるといふのが幕府の方針であつた、故に武士たる者は謂ゆる仁義孝悌忠信の道を修めた、さうして仁義道徳を以て人を治める者は、生産利殖などに関係する者でない、即ち『仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず』を事実に於て行つたのである、人を治める方は消費者であるから生産には従事しない、生産利殖のことをするのは、人を治め、人を教ふる者の職分に反するものとして、謂ゆる武士は喰はねど高楊枝といふ風を保つた、人を治める者は人に養はる〻ものなり、故に人の食を喰むものは人の事に死し、人の楽を楽む者は人の憂を憂ふといふが彼等の本分と考へられて居た、生産利殖は仁義道徳に関係のない人の携はるものとされて居たから、恰かも総て商業は罪悪なりと言はれた昔時と同様の状態であつた、是が殆んど三百年間の風を成した、其れも初めは極く簡単な方法で宜かつたが、次第に智識は減じ気力は衰へ、形式のみ繁多になり、遂に武士の精神廃り、商人は卑屈になつて、虚偽横行の世の中となつたのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.345-348
出典:道徳的覚醒(『竜門雑誌』第316号(竜門社, 1914.09)p.11-15)
サイト掲載日:2024年11月01日