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防貧の第一要義

 余は従来救貧事業は人道上より、将た又経済上より之を処理しなければならぬこと〻思うて居たが、今日に至つてはまた政治上よりも之を施行しなければ為らぬこと〻なつたと思ふ、余の友人は先年欧洲細民救助の方法を視察せんとして出発し、約そ一年半の日子を費して帰朝したが、余も此人の出発に就ては多少助力した点から、帰朝後同趣味の人を集めて、其の席上に報告演説を依嘱した、其人の語る所を聞いて見ると、英国の如きは此の事業完成の為に、殆んど三百年来苦心を継続して、今日僅かに整備するを得た、又「デンマルク」は英国以上に整頓して居るが、仏、独、米なぞは、今や各自各様に細民問題に力を注いで、一寸の猶予もないとのことである、而して海外の事情を見れば見るほど、久しい以前より自分共が力を注いで居た所に力を入れて居るやうに思はれる。

 此の報告会のとき、自分も集会した友人に対して意見を述べた、それは『人道よりするも経済的よりするも、弱者を救ふは必然のことであるが、更に政治上より論じても、其の保護を閑却することは出来ない筈である、但しそれも人に徒食悠遊させよと云ふのではない、成るべく直接保護を避けて、防貧の方法を講じたい、救済の方法としては、一般下級民に直接利害を及ぼす租税を軽減するが如きも、其の一法たるに相違ない、而して塩専売の解除の如きは、これが好箇の適例である』といふ意味であつた、此の集会は中央慈善協会に於て開催したのであつたが、会員諸君も全[余]の所説を諒とされ、今日と雖も其の方法等に就て種々なる方面に向ひ、相共に調査を実行しつ〻ある次第である。

 如何に自ら苦心して築いた富にした所で、富は即ち自己一人の専有だと思ふのは大なる見当違ひである、要するに、人は唯一人のみにては何事も為し得るものでない、国家社会の助けに依つて自らも利し、安全に生存するも出来るので、若し国家社会がなかつたならば、何人たりとも満足に斯の世に立つことは不可能であらう、これを思へば、富の度を増せば増すほど社会の助力を受けて居る訳だから、此の恩恵に酬ゆるに救済事業を以てするが如きは、寧ろ当然の義務で、出来る限り社会の為に助力しなければならぬ筈と思ふ、『己れ立たんと欲して人を立て、己れ達せんと欲して人を達す』といへる言の如く、自己を愛する観念が強ければ強いだけに、社会をも亦同一の度合を以て愛しなければならぬことである、世の富豪は先づ斯る点に着眼しなくてはなるまい。

 此秋に方つて、畏くも 陛下は大御心を悩まし給ひ、御先例になき貧窮者御救恤の御下賜金を仰せ出ださせられた、此の洪大無辺の 聖旨に対し奉りて、富豪者は申合せぬまでも、心中には何とかして聖恩の万分の一にだも酬い奉らなくてはならぬと苦慮するであらう、是こそ余が三十年来一日も忘る〻能はざりし願意で、言は〻゙ 願望が今日漸く達せられたといふもの、併しながら誠に長く心掛て来たことだけに、有難き 聖旨を承くるにつけても、前途が非常に明くなつた感じがして、心中の愉快は殆んど譬へやうがない、けれども爰に懸念すべきは其の救済の方法如何に就て〻゙ ある、それが適度に行るれば宜いが、乞食が俄に大名になつたといふやうな方法では、慈善が慈善でなく、救恤が救恤でなくなる、それからもう一つ注意したいのは、陛下の御心に副ひ奉らんが為め、富豪が資金を慈善事業に投ずるにしても、出来心の慈善、見栄から来た慈善は決して宜しくないといふことである、左様いふ慈善救済事業は得て誠実を欠くもので、其の結果は却つて悪人を造るやうな事になり勝ちである、兎に角 陛下の大御心の存し給ふ所を思ひ、此際富豪諸氏は社会に対する自己の義務を完うせられたい、これ実に畏き 聖旨に副ひ奉るのみか、二つには社会の秩序、国家の安寧を保持する上に於て、如何ばかりか貢献することが多からう。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.152-157

参考記事:社会に対する富豪の義務(『青淵百話』(同文館, 1912.06)p.286-292)

サイト掲載日:2024年03月29日