テキストで読む

偉人と其の母

 婦人は彼の封建時代に於けるが如く、無教育にして寧ろ侮蔑的に取扱つて置けば宜しいであらうか、それとも相当な教育を施し、修身斉家の道を教へねばならぬであらうか[、]之は言はずとも知れ切つた問題で、教育は縦ひ女子だからとて、決して疎かにすることは出来ないのである、それに就て余は先づ婦人の天職たる子供の育成といふことに関して、少しく考慮して見る必要があらうと思ふ。

 凡そ婦人と其の子供とは如何なる関係を持つて居るものであるかと云ふに、之を統計的に研究して見れば、善良なる婦人の腹から善良なる子供が多く生れ、優れた婦人の教育に因つて優秀な人材が出来るものである、その最も適切な例は彼の孟子の母の如き、ワシントンの母の如き即ち其れであるが、我国に於ても楠正行の母、中江藤樹の母の如き、亦皆賢母として人に知らる〻ものであつた、近くは伊藤公、桂公の母堂の如きも賢母であつたと聞いて居る、兎に角優秀の人材は、其の家庭に於て賢明なる母親に撫育された例は非常に多い、偉人の生れ賢哲の世に出づるは婦徳に因る所が多いと云ふことは、独り余一家の言では無いのである、して見れば婦人を教育して其の智能を啓発し婦徳を養成せしむるは、独り教育された婦人一人の為のみならず、間接には善良なる国民を養成する素因となる訳であるから、女子教育は決して忽諸に附することが出来ないものであるといふことに成るのである、然り矣、女子教育の重んずべき所以は未だそれのみにては尽きない、余は更に女子教育の必要なる理由を次に述べて見やうと思ふ。

 明治以前の日本の女子教育は、専ら其の教育を支那思想に取つたものであつた、然るに支那の女子に対する思想は消極的方針で、女子は貞操なれ、従順なれ、緻密なれ、優美なれ、忍耐なれと教へたが、此く精神的に教育することに重きを置いたにも拘はらず、智慧とか学問とか学理とかいふ方面に向つての智識に就ては奨めも教へもしなかつた、幕府時代の日本の女子も主として此の思想の下に教育されたもので、貝原益軒の『女大学』は其の時代に於ける唯一最上の教科書であつた、乃ち智の方は一切閑却され、消極的に自己を慎むことばかり重きを置いたものである、而して左様いふ教育をされて来た婦人が今日の社会の大部分を占めて居る、明治時代になつてから女子教育も進歩したとはいへ、未だそれら教育を受けた婦人の勢力は微々たるもので、社会に於ける婦人の実体は『女大学』以上に出ることの出来ぬものと言ふも、敢て過言では無からうと思ふ、故に今日の社会に婦人教育が盛んであるとは謂つても、尚ほ未だ充分その効果を社会に認識せしむるには至らぬ、謂は〻゙ 女子教育の過渡期であるから、その道に携はる者は其の可否を能く論断し講究しなくてはならぬでは無いか、況んや昔の『腹は借りもの』といふ様なことは口にすべからざる今日、又言うてはならぬ今日とすれば、女子は全く昔日の如く侮蔑視、嘲弄視することは出来ないこと〻考へられる。

 婦人に対する態度を耶蘇教的に論じて云々することは姑く別とするも、人間の真正なる道義心に訴へて、女子を道具視して善いものであらうか、人類社会に於て男子が重んずべきものとすれば、女子も矢張社会を組織する上に其の一半を負うて立つ者だから、男子同様重んずべき者ではなからうか、既に支那の先哲も『男女室に居るは大倫なり』と云うてある、言ふ迄もなく女子も社会の一員、国家の一分子である、果して然らば女子に対する旧来の侮蔑的観念を除却し、女子も男子同様国民としての才能智徳を与へ、倶に共に相助けて事を為さしめたならば、従来五千万の国民中二千五百万人しか用を為さなかつた者が、更に二千五百万人を活用せしめる事となるでは無いか、是れ大に婦人教育を興さねばならぬといふ根源論である。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.360-364

参考記事:女子高等教育論(『青淵百話』(同文館, 1912.06)p.374-381)

サイト掲載日:2024年03月29日