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惟ふに社会問題とか労働問題等の如きは、単に法律の力ばかりを以て解決されるものではない、例へば一家族内にても、父子兄弟眷族に至るまで各〻権利義務を主張して、一も二も法律の裁断を仰がんとすれば、人情は自ら険悪となり、障壁は其の間に築かれて、事毎に角突き合ひの沙汰のみを演じ、一家の和合団欒は殆んど望まれぬ事となるであらう、余は富豪と貧民との関係も、亦それと等しきものがあらうと思ふ、彼の資本家と労働者との間は、従来家族的の関係を以て成立し来つたものであつたが、俄に法を制定して是のみを以て取締らうとするやうにしたのは、一応尤もなる思ひ立ちではあらうけれども、之が実施の結果、果して当局の理想通りに行くであらうか、多年の関係に因つて資本家と労働者との間に、折角結ばれた所の言ふに言はれぬ一種の情愛も、法を設けて両者の権利義務を明かに主張するやうになれば、勢ひ疎隔さる〻に至りはすまいか、それでは為政者側が骨折つた甲斐もなく、又目的にも反する次第であらうから、此所は一番深く研究しなければならぬ所であらうと思ふ。
試みに余の希望を述ぶれば、法の制定は固より可いが、法が制定されて居るからと云つて、一も二もなく其れに裁断を仰ぐといふことは、成るべくせぬやうに仕たい、若しそれ富豪も貧民も王道を以て立ち、王道は即ち人間行為の定規であるといふ考を以て世に処すならば、百の法文、千の規則あるよりも遥に勝つた事と思ふ、換言すれば、資本家は王道を以て労働者に対し、労働者も亦王道を以て資本家に対し、其の関係しつ〻ある事業の利害得失は即ち両者に共通なる所以を悟り、相互に同情を以て始終するの心掛ありてこそ、始めて真の調和を得らる〻のである、果して両者が斯うなつて了へば、権利義務の観念の如きは、徒らに両者の感情を疎隔せしむる外、殆んど何等の効果なきものと言うて宜からう、余が往年欧米漫遊の際実見した独逸の「クルツプ」会社の如き、又米国「ボストン」附近の「ウオルサム」時計会社の如き、其の組織が極めて家族的であつて、両者の間に和気靄然たるを見て頗る歎称を禁じ得なかつた、これぞ余が謂ゆる王道の円熟したるもので、斯うなれば法の制定をして幸に空文に終らしむるのである、果して此の如くなるを得ば、労働問題も何等意に介するに足らぬではないか。
然るに社会には是等の点に深い注意も払はず、漫りに貧富の懸隔を強制的に引直さんと希ふ者がないでもない、けれども貧富の懸隔は其の程度に於てこそ相違はあれ、何時の世、如何なる時代にも必ず存在しないといふ訳には行かぬものである、勿論国民の全部が悉く富豪になることは望ましいことではあるが、人に賢不肖の別、能不能の差があつて、誰も彼も一様に富まんとするが如きは望むべからざる処、従つて富の分配平均などとは思ひも寄らぬ空想である、要するに、富むものがあるから貧者が出るといふやうな論旨の下に、世人が挙つて富者を排擠するならば、如何にして富国強兵の実を挙ぐることが出来やうぞ、個人の富は即ち国家の富である、個人が富まんと欲するに非ずして、如何でか国家の富を得べき、国家を富まし自己も栄達せんと欲すればこそ、人々が、日夜勉励するのである、其の結果として貧富の懸隔を生ずるものとすれば、そは自然の成行であつて、人間社会に免るべからざる約束と見て諦らめるより外仕方がない、とは云へ、常に其の間の関係を円満ならしめ、両者の調和を図ることに意を用ふることは、識者の一日も欠くべからざる覚悟である、之を自然の成行き人間社会の約束だからと、其の成るま〻に打棄て置くならば、遂に由々しき大事を惹起するに至るは亦自然の結果である、故に禍を未萠に防ぐの手段に出で、宜しく王道の振興に意を致されんことを切望する次第である。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.292-297
出典:当来の労働問題(『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.274-282)
サイト掲載日:2024年11月01日