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孝は強ふべきものに非ず

 論語の為政篇中に、『孟武伯問孝、子曰、父母唯其疾之憂』、また『子游問孝、子曰、今之孝是謂能養、至於犬馬、皆能有養、不敬何以別乎』、尚ほ此外にもある如く、孔夫子は孝道の事に就て屡〻説かれて居る、併し親から子に対して孝を励めよと強ゆるのは、却つて子をして不孝の子たらしむるものである、私にも不肖の子女が数人あるが、それが果して将来如何なるものか、私には解らぬ、私とても子女等に対して、時折『父母は唯その疾を之れ憂ふ』といふやうな事を説き聞かせもする、それでも決して孝を要求し孝を強ゆるやうな事は致さぬ事にして居る、親は自分の思ひ方一つで、子を孝行の子にしてもしまへるが、又不孝の子にもしてしまふものである、自分の思ふ通りにならぬ子を、総て不孝の子だと思は〻゙ 、それは大なる間違で、皆能く親を養ふといふだけならば、犬や馬の如き獣類と雖も、猶ほ且つ之を能くする、人の子としての孝道は、斯く簡単なるものであるまい、親の思ふ通りにならず、絶えず親の膝下に居て親を能く養ふやうなことをせぬ子だからとて、それは必ずしも不孝の子でない。

 斯ることを述べると、如何にも私の自慢話のやうになつて恐縮であるが、実際の事ゆゑ、憚らずお話しする、確か私の二十三歳の時であつたらうと思ふが、父は私に向ひ『其許の十八歳頃からの様子を観て居ると、どうも其許は私と違つた所がある、読書をさしても能く読み、又何事にも悧発である、私の思ふ所から言へば、永遠までも其許を手許に留め置いて、私の通りにしたいのであるが、それでは却つて其許を不孝の子にしてしまふから、私は今後其許を私の思ふ通りのものにせず、其許の思ふま〻に為せることにした』と申されたことがある、如何にも父の申された如く、その頃私は文字の力の上から云へば、不肖ながら或は既に父より上であつたかも知れぬ、また父とは多くの点に於て、不肖ながら優つた所もあつたらう、然るに父が無理に私を父の思ふ通りのものにしようとし、斯くするが孝の道であると、私に孝を強ゆるが如きことがあつたとしたら、私は或は却つて父に反抗したりなぞして、不孝の子になつてしまつたかも知れぬ、幸ひに斯ることにもならず、及ばぬうちにも不孝の子にならずに済んだのは、父が私に孝を強ひず、寛宏の精神を以て私に臨み、私の思ふま〻の志に向つて私を進ましめて下された賜物である、孝行は親がさして呉れて初めて子が出来るもので、子が孝をするのでは無く、親が子に孝をさせるのである。

 父が斯る思想を以て私に対して下された為め、自然その感化を受けたものか、私も私の子に対しては父と同じやうな態度を以て臨むことにして居る、私が此く申すと少し烏滸がましくはあるが、何れかと云へば、父よりも多少優れた所があつたので、父と全く行動を異にし、父と違つた所があつて、父の如くになり得なかつたのである、私の子女等は将来如何なるものか、素より神ならぬ私の断言し得る限りでないが、今の所では、兎に角、私と違つた所がある、この方は、私と父とが違つた違ひ方と反対で、何れかと申せば劣る方である、併し此く私と違ふのを責めて、私の思ふ通りになれよ、と子女等に強ひて試みたところで、それは斯く注文して強ひる私の方が無理である、私の通りになれよ、と私に強ひられても、私のやうになれぬ子女は、どうしても成れぬ筈のものである、然るに猶ほ強ひて、子女等を総て私の思ふ通りにしようとすれば、子女等は私の思ふ通りに成り得ぬだけのことで、不孝の子になつてしまはねばならぬ、私の思ふ通りにならぬからとて、子女等を不孝の子にして仕舞ふのは忍ぶべからざる事である。

 故に私は子に孝を為せるのでは無い、親が孝を為せるやうにして遣るべきだと云ふ根本思想で子女等に臨み、子女等が総て私の思ふやうに為らぬからとて、之を不孝の子だとは思はぬことにして居る。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.349-353

参考記事:実験論語処世談(四)(『竜門雑誌』第328号(竜門社, 1915.09)p.11-17)

サイト掲載日:2024年03月29日