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 武士道の神髄は正義、廉直、義俠、敢為、礼譲等の美風を加味したもので、一言にして之を武士道と唱へるけれども、其の内容に至りては中々複雑した道徳である、而して余が甚だ遺憾に思ふのは、此の日本の精華たる武士道が、古来専ら士人社会のみに行はれて、殖産功利に身を委ねたる商業者間に、其の気風の甚だ乏しかつた一事である、古の商工業者は武士道に対する観念を著しく誤解し、正義、廉直、義俠、敢為、礼譲等のことを旨とせんには、商売は立ち行かぬものと考へ、彼の『武士は喰はねど高楊枝』

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といふが如き気風は、商工業者に取つての禁物であつた、惟ふにこれは時勢の然らしめた所もあつたであらうけれども、士人に武士道が必要であつた如く、商工業者も亦その道が無くては叶はぬことで、商工業者に道徳は要らぬなぞとは飛んでもない間違であつたのである。

 蓋し封建時代に於て、武士道と殖産功利の道と相背馳するが如く解せられたのは、猶ほ彼の儒者が、仁と富とは並び行はれざるもの〻如く心得たと同一の誤謬であつて、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であらうと思ふ、孔子の謂ゆる『富と貴とは是れ人の欲する所なり、其の道を以てせずして之を得れば処らざるなり、貧と賤とは是れ人の悪む所なり、其の道を以てせずして之を得るも去らざるなり』とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義俠等に適合するもの

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ではあるまいか、孔子の訓に於て、賢者が貧賤に処して其の道を易へぬといふのは、恰かも武士が戦場に臨んで敵に後を見せざるの覚悟と相似たるもので、又彼の其の道を以てするに非ざれば、仮令富貴を得ることがあつても、安んじてこれに処らぬと曰ふのは、これまた古へ武士が其の道を以てせざれば一毫も取らなかつた意気と、その軌を一にするものと謂つて宜しからう、果して然らば富貴は聖賢も亦これを望み、貧賤は聖賢も亦これを欲しなかつたけれども、唯彼の人々は道義を本とし富貴貧賤を末としたが、古への商工業者はこれを反対にしたから、遂に富貴貧賤を本として道義を末とするやうになつて仕舞つた、誤解も亦甚しいではないか。

 想ふに此の武士道は、啻に儒者とか武士とかいふ側の人々に於てのみ行はる〻ものではなく、文明国に於ける商工業者の、拠りて以て立つべき道も茲に存在すること〻考へ

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る、彼の泰西の商工業者が、互に個人間の約束を尊重し、仮令その間に損益はあるとしても、一度約束した以上は、必ず之を履行して前約に背反せぬといふことは、徳義心の鞏固なる正義廉直の観念の発動に外ならぬのである、然るに我日本に於ける商工業者は、尚ほ未だ旧来の慣習を全く脱することが出来ず、動ともすれば道徳的観念を無視して、一時の利に趨らんとする傾向があつて困る、欧米人も常に日本人が此の欠点あることを非難し、商取引に於て日本人に絶対の信用を置かぬのは、我邦の商工業者に取つて非常な損失である。

 凡そ人としてその処世の本旨を忘れ、非道を行うても私利私慾を充たさうとすることがあつたり、或は権勢に媚び諂うても其身の栄達を計らんと欲するは、これ実に人間行為の標準を無視したもので、斯くの如きは決して其の身、其の地位を永遠に維持する所

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以の道では無いのである、苟くも世に処し身を立てようと志すならば、其の職業の何たるを問はず、身分の如何を顧みず、終始自力を本位として須臾も道に背かざることに意を専らにし、然る後に自ら富み且つ栄ゆるの計を怠らざるこそ、真の人間の意義あり価値ある生活といふ事が出来よう、今や武士道は移して以て実業道とするがよい、日本人は飽くまで大和魂の権化たる武士道を以て立たねばならぬ、商業にまれ工業にまれ、此の心を以て心とせば、戦争に於て日本が常に世界の優位を占めつ〻あるが如く、商工業に於ても亦世界に勇を競ふに至らる〻のである。

 全欧の事変に就て初め私の予想は全く外れた、既に其の観察を誤つた私は、将来も亦

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見込違ひをするであらうと恐懼して居る、併しながら私の観察の誤つた所以は、私の予想以上に暴虐の人があつたからである、謂ゆる『一人貪戻なれば、一国乱を作す』といふ古訓が、事実として全欧洲に現はれて来たからである、文明の世には有り得べからざるものとの想像が過誤の観察となつたのである、果して然らば、私の智の到らざりしが為でもあらうが、私は却つて文明人の貪戻なる結果ではなからうかと、冷笑せざるを得ないのである。

 此の事変の終局は如何になるであらうか、私の如き近眼者流には予言することは出来ないけれども、結局は列強並び相疲る〻か、或は一方の威力が衰へて、其極或る条件の下に終局を見るであらうか、歴史家は、百年を経ると地図の色が変ると言うて居るが、我々は又之に由つて、商工業の勢力の移りゆく様を見ねばならぬ、将来の商工業は如何

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に変化するであらうか、其の変化に就て、我々は如何なる覚悟を以て之に応ずべきであらうか、我々の考慮すべき所、用意すべき点は詰り此所に在るのだ、私は政治上若くは軍事上に就て述ぶることを好まぬ、また其の知識をも持たぬのである、故に今私の言はんと欲する所は、単に商工業に関する方面に限らる〻のであるが、今後地図の変化に伴ふ商工業勢力範囲の変化に就て、適切なる準備と実行の責任とは、未来の当事者に在るのである、而して此の未来の当事者なるものは、現時の青年を除いて外にない、青年たる者は今日よりして審思熟慮、之に対する策を講ずべきである。

 何れの国家に於ても、自国の商工業を発達せしめんとするには、海外に我が国産の販路を求め、人口の増殖するに於ては領土を拡むることを講ずるのみならず、様々なる策略を以て自己の勢力の増大を図るのである、現に欧洲列強が五大洲に雄飛して居る所以

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は、全く是等の事情に由るものであつて、優越なる位地を占むるものは、特に優越なる国家と称せらる〻のである、彼の独逸皇帝今回の行動の如き、此点より企図せられたものであると思はれる、従来皇帝が内地の殖産に、海外の殖民に留意せらる〻ことは容易ならざるものにて、若しも少しく其点に就て注意するならば、何人と雖も、皇帝が何故に此くまで仔細に心を労せられるかと云ふことを感ぜずには居られまい、例へば、英仏に対する商工業の競争は勿論、日露戦後、日本雑貨が各地に歓迎さる〻を見れば、直ちに之を模造する、総じて学術技芸には能ふ限りの保護と便利とを与へ、商工業は常に政治兵備と相聯絡し、中央銀行の如きも力を尽して商工業の便宜、資金の融通を計るといふやうに、如何に彼等上下一致して富国に従事して居るか〻゙ 窺知し得られる、又その学問に於ても化学、発明、技術、精妙、実に行届くことは一通りではない、それは今回の
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戦乱の為に、遠き我国の如きをして、薬品染料等の欠乏に窮せしめたる事実に見るも、彼国の力が世界の隅々まで及んで居ることが分かる、故に自国の拡大のみを企図する貪戻心は実に厭ふべきであるが、官民一致その国の富強を勉むるの努力は感服の外はないのである。

 翻つて我国の商工業を見るに、多くは不統一にして振はず、殊に戦乱の影響を受け、生糸の値は下落し、綿糸綿布の販路は渋滞し、総じて取引は萎靡し、有価証券の価は下落し、新たなる事業は起らざるの状態にある、併し早晩是等は恢復することも予想に難くないのであるから、此際一時の困難は堪へ難くとも、当業者は大に勇気を起さねばならぬ所である、又一方には此の事変は大に乗ぜざるべからざる好時機と思ふ、今日我が実業家は目前の不景気に畏縮するやうであるけれども、其れは甚だ無気力の行為である、

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唯その著目を誤らぬやうにして戦中十分なる研究を積み、漸次実物の効果のあるやうに努めて行きたいのである、殊に支那に対する商工業の如きは、境は接近し居る、人情風俗共に欧米人に比すれば縁故最も深いのである、然るに其の関係に於ては、往々にして他列強に比して大に遜色あるは実に心細い極みである、吾人は須らく進んで支那の富源を開発し、其の産業を進め、其の販路を拡めて、通商上の利益を増加するやうに心掛けねば為らぬ、我が国民の今日まで支那に対する商工業経営の態度を見るに、兎角個々別々であつて、其の間に少しも聯絡がない、独逸の政治経済機関が統一して密接な関係を保つて居るのを見るにつけても、我が国民が此の歴史的に於ても、将た人種的に於ても、幾多の便宜を有する国柄なるに関はらず、彼等の後へに瞠若たるやうではならぬ、而して此の覚悟は特に我が青年に対して最も望ましき所である、何うか今日の青年諸氏
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は斯る所に注目して力を入れて貰ひたいのである。

 日支間は同文同種の関係あり、国の隣接せる位置よりするも、将た古来よりの歴史よりいふも、また思想、風俗、趣味の共通せる点あるに徴するも、相提携せざるべからざる国柄なり、然らば奈何にして提携の実を挙ぐべきか、其の方策他なし、人情を理解し、己の欲せざる所は之を人に施さず、謂ゆる相愛忠恕の道を以て相交はるにあり、即ち其の方策は論語の一章に在りと謂ふべきである。

 商業の真個の目的が有無相通じ、自他相利するにある如く、殖利生産の事業も道徳と随伴して、初めて真正の目的を達するものなりとは、余の平素の持論にして、我国が支

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那の事業に関係するに際しても、忠恕の念を以て之に蒞み、自国の利益を図るは勿論ながら、併せて支那をも利益する方法に出づるに於ては、日支間に真個提携の実を挙ぐることは、決して難い事ではない。

 之に就き先づ試みるべきは開拓事業であつて、即ち支那の富源を拓き天与の宝庫を展開して、其の国富を増進せしむるに在る、而して之が経営の方法は、両国民の共同出資に依る合弁事業となすが最良法である、独り開拓事業に止まらず、其他の事業に於ても亦その組織は日支合弁事業とするのである、斯くするに於ては日支間に緊密なる経済的連鎖を生じ、従つて両国間に真個の提携を為し得るのである、余の関係せる中日実業会社は、此の意味に於て発起設立せられたるものにて、其の成功を期せんとする所以も亦此に存するのである。

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 余が史籍を通じて尊敬し居る支那は、主として唐虞三代より後きも殷周時代であつて、当時は支那の文化最も発達し、光彩陸離たる時代である、但し科学的智識に至りては、当時の史籍に掲げられたる天文の記事の如き、今日の学理に合せずと言はるれども、百事を現在の支那に比較して、今日の昔時に及ばざる感あるは当然のことである、其の後、西東漢、六朝、唐、五代、宋、元、明、清に及び、謂ゆる二十一史にて通覧せる所に依るも、各朝に大人物の輩出せるは言はずもがな、秦に万里の長城あり、隋に煬帝の大運河あり、当時是等の大事業の目的が那辺に存せしかは暫く措き、其の規模の宏大なる、到底今日の企て及ぶ所ではない、されば唐虞三代より殷周時代の絢爛たる文華を史籍に依りて窺ひ、これが想像を逞しうして、今次(大正三年春)支那の地を蹈み、実際に就き民情を察するに及び、恰かも精緻巧妙を極めたる絵画によりて美人を想像し、実物に
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就き親しく之を見るに方り、始めて其の想像に及ばざるの恨を懐くと等しく、初め想像の高かりしだけ失望の度も深く、逆施倒行とも言ふべきか、余をして儒教の本場たる支那の到る処にて、屡〻論語を講ずるの奇観をさへ呈せしめたのである。

 就中余の感を惹きしは、支那に於ては上流社会あり下層社会あるに拘はらず、其の中間に於ける国家の中堅をなす中流社会の存在せざる事と、識見人格共に卓越せる人物が少いと云ふ訳ではないけれども、国民全体として観察するときは、個人主義利己主義が発達して、国家的の観念に乏しく、真個国家を憂ふるの心に欠けたることにて、一国中に中流社会の存せざると、国民全般に国家的観念に乏しきとは、支那現今の大欠点なりと謂ふべきである。

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 世界文明の進歩に伴ひ、人智を以て天然の抵抗を征服し、海にも陸にも種々交通の便利を加へて、其の距離を短縮することは実に驚くばかりである、往昔支那に於ては天円地方と称して、我々の住む此の大地を方形のものと思惟せしのみならず、自国以外には殆んど他国の存在を認めなかつたのである、我国とても当初は斯かる偏狭なる見解に依りて誘導啓発せられたのであるから、会〻日本以外の国といへば、直ちに唐天竺を聯想するのみであつて、更に世界の何物たるを知らなかつたのである、されば五大洲の存在などいふことに至りては、夢想だも及ばなかつたのである、現に余の幼時に聞ける童話中にも、其の左右の翼を拡げるときは長さ三千里にも達するといふ大鵬でさへも、尚ほ

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且つ世界の涯際を見ることが出来ないのであると説いた程であつた。

 さて其の如く世界は広大無辺のものなれば、迚も我々の人智では容易に之を究むることの出来るもので無いとして居たのである、然るに文明の進歩と共に交通機関が発達して来た為に、地球の面積は漸次に減縮せられ、最近の半世紀間に於ては、殆んど隔世の感がある、顧みれば千八百六十七年、那波翁第三世が在位の時に当り、仏国巴里に世界大博覧会の開かる〻に際し、我が徳川幕府よりは将軍の親弟徳川民部大輔を特命使節として差遣せられ、余は随行員の一人として渡欧したのであるが、当時一行の者は横浜より仏国郵船に乗り印度洋及び紅海を経て蘇士の地峡に到りしに、仏国人レセツプ氏の経営に係る同所開鑿の一大工事は、既に着手せられて居たけれども、未だ成就しなかつたが為め、一行は船を棄て〻地峡に上り、鉄道に依りて埃及を横断し、「カイロー」を経て

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「アレキサンドリヤ」に出で、再び乗船して地中海を航し、横浜出帆以来五十五日にして、初めて仏国の「マルセーユ」に到着したのであつた、斯くて翌年の冬期に帰朝する時に其所を過ぎたが、尚ほ運河の工事は竣成の運びに至らなかつた。

 其の後(千八百二十九[千八百六十九]年十一月)該運河が開通して、諸国の艦船が通航を許さる〻や、欧亜の交通に一生面を開き、両者間の貿易に、航海に、軍事に、外交に一大変革を来したのである。

 これと同時に各国艦船は、爾来益々其の形態を大にして其の速力を加へたから、太西洋は言を竢たず、太平洋の面積も亦漸く減縮せられた事さへあるに、更に進んで西伯利亜横断鉄道が竣工したので、欧亜の交通、東西の聯絡上に一新紀元を開き、四海比隣の実が漸くにして挙らんとして居る。

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 然るに爰に遺憾なりしは、米大陸が其の半腹に帯の如き一地峡の存するに由り、地勢は為に蜿蜒長蛇の如く南北に走りて、徒らに太西太平両海洋の聯絡を遮断することであつた、而して此の障壁を除却することに就ては、レセツプ氏以下何れも多大の辛酸を甞められたのであるけれども、不幸にして比々失敗し去つたのであつた、併し其儘に終ることはあるまいと思つて居ると、我が東隣友邦の雄大なる経営に依りて、遂に巴奈馬地峡開鑿の一大工事が竣成し、南北の水は乃ち相通じ、東西の半球は全く比隣と化し去らんとしつ〻ある、東洋の諺に命長ければ恥多しと云ふけれども、輓近五十年間に於ける世界交通の発達と、海運の面積の減縮とは斯の如く顕著なるものがあつて、前後殆んど別乾坤の観あるを思へば、身、昭代に生れたる余慶として、長寿の寧ろ幸福なりしを喜ぶのである。

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 度々識者が力説する通り、我が国民の思想には忌むべき弊習がある、それは即ち外国品偏重の悪風である、外国品だからとて別段排斥する必要がないやうに、之を偏重するの余り内地品を卑下する理由もない筈である、然るに舶来品といへば総て優秀なものばかりとの観念が、深く国民の上下に普及して居るのは誠に慨嘆に堪へない、尤も日本の文明は最近の発達で、而かも欧米諸国からの移植に負ふ所が頗る多いために、曾ては欧化主義の流行に苦しみ、今も猶ほその余弊として、此の舶来品愛重の勢をなして居ること〻思はれる、けれども維新以来早くも半世紀にならうとする今日、且つ又東洋の盟主、世界の一等国を以て任じて居る今日の日本国たるもの、何時まで欧米心酔の夢を見て居

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るのであらう、何時まで自国軽蔑の不見識を敢てする積りであらう、実に意気地のない話である、外国の「レツテル」が貼つてあるから此の石鹸は宜いぞと威かされたり、外国品だから此の「ウヰスキー」を飲まなければ、時勢後れの人間に見られると怖れるやうで、それで独立国の権威と大国民の襟度が如何して保たれて行かれよう、私は実に国民の大自覚を望むのである、我々は今日唯今、心酔の時代と袂別せねばならぬ、模倣の時代から去つて、自発自得の域に入らねばならぬ。

 有無相通は経済の原則とはいふもの〻、私は徒らに排外思想を鼓吹するものではない[、]物に一得一失は動もすれば伴ふもので、先年戊申詔書を降された時も、これを極端非理な消極主義に穿き違へた人々が多く、当路者が御大旨の徹底に悩まされたことがある、此の国産奨励の宣伝をも極端な消極主義、排外主義と取られては、独り発起人等の迷惑

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なるのみならず、延いては国家の大損失を招く虞がある、有無相通ずとは数千年前から道破された経済上の原則で、此の大原則に反して経済の発展は企図せられる筈がない、一県にして佐渡からは金を産し、越後からは米を産する、一国にすれば、台湾からは砂糖が出るし、関東地方からは生糸が出る、更に国際間に拡大して見ると、亜米利加の小麦、印度の棉花の如く、それ〴〵地勢に依つて其の産物を異にするのであるから、我々は彼の小麦粉を食し、彼の棉花を購ひ、そして我は生糸、綿糸を売つて行くべきである、この点は特に注意して、我国に適する物を作り、適せない物を仕入れることを過らぬやうにせねばならぬ。

 次に我々は奨励会の事業を選択して置く必要がある、奨励は其の声ばかりでも効益は少ないが、折角会組織にしたのであるから、是非目的を貫徹する為に実際の事業に着

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手し、範を天下に示すべきである、目下の所では会報を発行する以外、具体的に決定したものはないが、規則書にもある通り、今後は国産の調査研究、共進会の開催、講話会の開催、商品陳列場の完備、一般の質疑応答、輸出奨励策等を実施して行くのである、特に研究所の設立、産業上の注意、市場又は製品の紹介、試験分析、証明の依頼に応ずることなどは裨益する所大なるものがあらうと思ふ、而して事業の成否は一に係つて各人の双肩にあるのだから、御互にこの会の発展と利用とに力を注がねばならぬ。

 最後に当局者に一言して置きたい事は、奨励は大に之を努めねばならぬが、不自然不相応の奨励を行へば終に無理が出来る、親切なやり方も却つて不親切な結果となり、保護した積りが干渉束縛となる、殊に商品の試験及び紹介をする際には、私利私情を離れて一に邦家の為を念ひ、公平と親切とを忘れざらん事を切望して置く、更に又日本品使

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用の機運が動いたのを奇貨として、詰らぬ物を粗製濫造し、忠良なる国民を欺瞞し、一時の私腹を肥さんと試むる商売人もあらう、此の如きも亦国産の発達を阻害すること尠少でないから、相警めて斯る不逞漢の輩出を防がねばならぬのである。

 我々が始終――殊に私などは、其れに就ては恥入つて、諸君にも始終迷惑をかけるが、此物の切盛のつかぬ為に、無駄な時間を費す、之がどうも事物の進むほど注意せねば為らぬこと〻思ふ、従つて之が極端に行くと、能率が大変に悪くなる、能率の悪いといふことは職工か何かにある語ですが、職工ばかりでは無い、通常の事務を処する人でも、チヤンと時の極りが充分附いて、此の時間に是れだけの事をするといふことを遅滞

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なく完全に遂げて行くことが出来ると、謂は〻゙ 人を多分に使はぬでも、仕事は沢山に出来て来る、即ち能率が宜くなる、事務に於ても尚ほ然りと思ふ、自身にさう思ふが、さらば日本の諸君が、私ばかりが悪くて他の方は寔に其の権衡を得て、一日何時間働く、其の働く時間は仕事に従事をして居る分量が、寔に完全に、時計の刻むが如くやれ得るかと云ふと、決して爾うでない、或は使はぬでも宜い人を大に使ひ、一度で済むことを三度も人を走らせたり、さうして用は左まで〻ない、費府でワナメーカーが私を接待して呉れた、其の時間の遣ひ方などを見て、あ〻感心なものだ、成程斯うやると寔に少い時間にチヤンと多くの事が出来て、其日の仕事が完全に届くと思うて、頗る敬服したのである、既にテーラーといふ人が斯ういふ手数を省くことに就て大に説をなして、或る雑誌に池田藤四郎といふ人が之を書いてある、能率を増進するといふ論であるが、私は
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初め工場の職工か何かに就て言つたものとばかり思うて居た所が左様でない、もう日々お互の間に始終ある、ワナメーカーが私を待遇した有様を見ると、何も別に変つたことでもないが、丁度「ピツツブルグ」の汽車が五時四十分に費府に着く、着いたならば自働車を出して置く、六時までに私の店に来られるから、「ホテル」に寄らずに直ぐ来て呉れ、斯ういふ案内であつた、そこで指図通り費府に着くと宿にも寄らず、直ぐ自働車で行くと、六時二分か三分に着いた、先生は店に待つて居つて、直に私を案内して、先づ店の有様を一通り見せた、寔に目を驚かすやうな大きな店で、入口には大きな両国の国旗を建て、立派な華電灯を盛んに点じて、而かも其日に来た多数の客が未だ帰らずに待つて居つたから、何か大なる劇場の「ハネ」にでも出会つたやうな塩梅に群集をなして居る、其所を主人が案内して連れて歩く、先づ下の方の陳列場をズツと通りながら観
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て、それから「エレベーター」で二階へ上ると、先づ第一に見せたのは料理場、すつかり掃除して綺麗になつて居たが、是は上等の客の仕出をする所、其次は普通の客の仕出をする所、「コツク」の有様は斯うである、其次には秘密室といつて、何か店のことに就て秘密な協議をする所であるが、四五千人の会議が出来るといふ程の広さである、それから教育をする場所、店の人に極く当用の教育を与へる所、是等の諸所を見せた時間が軈て一時間位、それが済んで七時頃に私が「ホテル」に帰る時に、ワナメーカーが明朝は八時四十五分にお前を訪ねる、それなら朝餐は済むだらう、――済みます、丁度翌朝の八時四十五分にキチンと来た、是から大分長い話をして、正午頃まで話をして宜いか、宜しいと云ふからして、頻りに日曜学校に力を入れた理由は斯様である、一体お前の出身はどういふ人であると云ふやうなことから、段々談話が込入つて、つひ其為に一時間
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も彼は余計予期したよりも長き話をしたかと思ふ、昼餐になるから私は帰る、二時に来るから、夫迄に支度をして待つて〻呉れ、それから又二時にキチンと来て、今度は日曜学校の会堂に案内される、其の会堂は当人の建てたものか否か知らないが、中々立派な会堂で、総体では二千人も入るといふ、大勢の会員が居る、何時も此通りで、別に貴方が来たから多くの人を集めたのではないと云つて居た、牧師が聖書を講演し、それから讃美歌がある、それが終るとワナメーカーが私を紹介的の演説をした、それから私にも日曜学校に就て感じたことを言へといふことで、私も演説をした、更にそれに向つてワナメーカーが――此時には私も少し弱りました――是非孔子教を止めて基督教に宗旨変をせよと直接談判を大勢の前で迫られた、是には私も返答に苦んだ、それが終ると直ぐ隣りの婦人の聖書研究会に行つて演説し、次で一二丁隔つた所の労働的種類の人が集つ
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て、聖書を研究する所に行き、彼は東洋から斯ういふ老人が来たから、是非握手したら宜からうと云つたので、四百人も居た残らずに、而かも向ふは労働者であるから、強く握られるので手が痛くなる位であつた、やがて五時半頃になつた、六時に立つて田舎へ行かねばならぬ約束があるので、一緒に旅宿の前まで来て別れる時に、是非もう一遍会ひたいが、何とか途は無からうかといふ話、――紐育には何日行く、三十日に行つて来月四日まで滞在して居る、然らば私は二日に紐育に行く用事がある、其時もう一遍会はう、何時か、午後の三時には立つて此地に帰らねばならぬ、然らば二時から三時までの間に紐育の貴方の店に行かうと約束し、二日の二時半、三時少し前位、少し遅くなつて遣損つては大に困ると思ひ、大急き[ぎ]で行くと、直ぐさまお前よく来て呉れた、是で満足だ、私も満足である、実はお前に御馳走は出来ぬから書物を進げたいと云つて、リンコ
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ルンの伝記、ゼネラル、グランドの伝記その他のものを与へ、且つ簡単に両氏の崇高なる人格を語り、自分もグランド将軍歓迎委員長であつたことなどを語り合ひて別れたが、其の切盛に一も無駄がない、話も亦適切である、私は実に敬服した、時間を無駄に使はぬこと斯の如くなれば、例の能率が如何にも増進するであらう、別に物を拵へる訳ではないが、詰り我々が時間を空費してるのは、丁度物を製作する場合に手を空くしてると同じことであるから、是はお互に注意して人間を無駄に使はぬは勿論のこと、我れ自身をどうぞ無駄に使はぬやうに心懸けたいと思ふ。

 世人動もすれば維新以後に於ける商業道徳は、文化の進歩に伴はずして却つて衰へた

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と云ふ、併しながら余は何故に道徳が退歩、若くは頽廃したか、其の理由を知るに苦しむ者である、之を昔日の商工業者に比すれば、今日の商工業者と其の孰れが道徳観念に富み、孰れが信用を重んずるであらうか、余は今日を以て遥かに昔日に優るものと断言するに憚からぬ、けれども今日他の事物の進歩した割合に道徳が進んで居らぬとは、既に前説の如くであるから、余は必ずしも世人の説を駁する訳ではない、唯吾人の此間に処するものは、斯の如き世評の生ずる理由を詮索し、一日も早く道徳をして物質的文明と比肩せしめ得るの程度に向上させなくてはならぬ、それは前に述べたるが如き方法の下に道徳を講ずるのが先決問題であらう、併しそれとても特別の工夫方法を要する訳でなく、唯日常の経営に於て左様心掛けて居れば足るのであるから、左まで六ケ敷いものではない。

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 維新以来物質的文明が急激なる発達をなしたるに反し、道徳の進歩がそれに伴はなかつたので、世人は此の不釣合の現象に著しく注目して、商業道徳退歩といふのであるとして見れば、仁義道徳の修養に心を用ゐ、物質的進歩と互角の地位に進ませるが目下の急務には相違ないが、一面から考察して見ると、単に外国の風習ばかりを見て、直ちにこれを我国に応用せんとすれば、或は不可能を免れぬこともある、国異なれば道義の観念も亦自ら異るものであるから、仔細に其の社会の組織風習に鑑み、祖先以来の素養慣習に稽へ、其の国、其の社会に適応する所の道徳観念の養成を努めなければならぬものである、一例を挙ぐれば、『父召せば諾なし、君命じて召せば駕を待たずして行く』とは、即ち日本人が君父に対する道徳観念である、父召せば声に応じて起ち、君命じて召すことあれば、場合を問はずして直ちに自ら赴くとは、古来日本人士の間に自然的に養
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成されたる一種の習慣性である、然るに之を個人本位の西洋主義に比較すれば、其の軒輊は非常なもので、西洋人の最も尊重する個人の約束も、君父の前には犠牲として敢て顧みぬも宜いといふことになる、日本人は忠君愛国の念に富んだ国民であると称揚さるる傍から、個人間の約束を尊重せぬとの誹謗を受くるのも、要するに其の国固有の習慣性が然らしめたので、我と彼では其の重んずる所のものに差違がある、然るに其の因つて来る所以を究めずして、徒らに皮相の観察を下し、一概に日本人の契約観念は不確実である、商業道徳は劣等であると非難するは、余りに無理であるといふより外は無い。

 斯く論ずればとて、余が日本の商業道徳の現在に満足せぬことは勿論である、兎に角近頃の商工業者の間に、或は道徳観念が薄いとか、或は自己本位に過ぎるとかいふ評を加へられることは、当業者の相互に警戒せねばならぬことではあるまいか。

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 日本魂、武士道を以て誇りとする我国の商工業者に道義的観念の乏しいと云ふことは、実に悲むべきことであるが、抑も其の由つて来るところを繹ぬれば、従来因襲する教育の弊であると思ふ、予は歴史家にあらず又学者にあらざれば、遠く其の根源を究むることは出来ないけれども、彼の『民可使由之、不可使知之』といふ、朱子派の儒教主義は、近く維新前まで文教の大権を掌握せる林家の学に依て其の色彩を濃厚にし、被治者階級に属する農工商の生産界は、道徳の天則外に放置せらる〻と共に、己れ亦自から道義に束縛せらる〻の必要なしと感ずるに至つた。

 此の学派の師宗朱子その人が、唯大学者といふまでにて、実践躬行、口に道徳を説き、

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身に仁義を行ふ底の人物でなかつたから、林家の学風も、儒者は聖人の学説を講述する者、俗人は之を実地に行ふべきものとし、説く者と行ふ者との区別を生じ、之が結果として、孔孟の謂ゆる民即ち被治者階級に属する者は、唯だ命惟れ奉じて、一村一町の公役行事を怠らざれば足るといふ卑屈根性を馴致し、道徳仁義は治者の為すべきこと、百姓は政府より預りたる田畑を耕し、町人は算盤の目をせ〻つてさへ居れば能事了るといふ考へが、習ひ性をなして国家を愛するとか、道徳を重んずるとかいふ観念は全く欠乏したのである。

 鮑魚の市に入るものは自ら其の臭を知らずといへば、斯る数百年の悪風に養はれ、謂ゆる糞厮の臭きを忘れたるものを薫化し、陶冶し、天晴有道の君子的人物となすは、固より容易のことでは無いのに、欧米の新文明の輸入は、此の道義的観念の欠乏に乗じ、

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翕然として功利の科学に向はしめ、愈〻其の悪風を助長すること〻なつた。

 欧米にも倫理の学は盛である、品性修養の声も甚だ高い、併し其の出発点が宗教によりて、我国の民性と容易に一致し難き所があるより最も広く歓迎せられ、最も大なる勢力となつたのは、此の道徳的の観念では無くして、利を増し産を興すに覿面の効果ある科学的智識、即ち功利の学説である、富貴は人類の性慾とも称すべきであるに、初めより道義的観念の欠乏せる者に向つて、教ふるに功利の学説を以てし、薪に油を注いで其の性慾を煽るに於ては、其の結果は蓋し知るべしではないか。

 往時の下級生産者より出でて、天晴身を立て家を興し、一躍具瞻の地位に進みたる人も固より尠くないが、是等の人々は果して道徳仁義に終始し、正路に歩し、公道を進み、俯仰天地に怍るなきの心事を以て、能く今日に至つた者であらうか、関係の会社銀行

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等の事業を盛大ならしむべく、昼夜不断の努力を尽すは、実業家として洵に立派のことである、其の株主に忠なる者と称するも不可なしであるけれども、若し会社銀行の為に尽す精神が、由つて以て自ら利せんとする謂ゆる利己の一念に止まりて、株主の配当を多くするは、自家の金庫を重からしむる為めなりとせば、若し会社銀行を破産せしめ、株主に欠損を与ふるを以て自己の利益が多いといふ場合に際会したならば、或は之を忍ぶやも測られない、孟子の謂ゆる『奪はずんば饜かず』とは即ち是である。

 又富豪巨商に仕へて、一意主家の為に尽瘁する者の如きも、唯その事蹟より見れば、克く仕ふる所に忠なる者といふことは出来るが、其の忠義的行為が、全く自家損得の打算より発し、主家を富ましむるは自ら富む所以、番頭手代と見下げらる〻は面白からざるも、実際の収入は遥かに尋常事業家に優るものあれば、我は名を捨て得を取るなりと

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の心事より出でたるものなるときは、其の忠義振りも、帰する所は利益問題の四字に止まり、同じく道徳の天則外にあるものと云うて差支あるまい。

 然るに世人は此種の人物を成功者として尊敬し羨望し、青年後進の徒も亦これを目標として、何とかして其塁を摩せんとするに腐心する所より、悪風滔々として底止するところを知らざる勢となつて居る、斯く云へば、我が商業者の総ては皆不信背徳の醜漢のやうであるが、孟子も『人の性は善なり』と言へる如く、善悪の心は人皆之れあれば、中には君子的人物であつて、深く商業道徳の頽廃を慨し、之が救済に努力し居る者も尠くないが、何にせよ既往数百年来の弊習を遺伝し、功利の学説によりて悪き方面の智巧を加へたる者を、一朝有道の君子たらしむるは容易に望み得らるべきでは無い、去迚それを此儘に放任するは、根なき枝に葉を繁らし、幹なき樹に花を開かしめんとするもの

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にて、国本培養も商権拡張も、到底得て望むべきに非ざれば、商業道徳の骨髄にして、国家的、寧ろ世界的に直接至大の影響ある、信の威力を闡揚し、我が商業家の総てをして、信は万事の本にして、一信能く万事に敵するの力あることを理解せしめ、以て経済界の根幹を堅固にするは、緊要中の緊要事である。

 由来競争は何物にも伴ふもので、その最も激烈を極むるものは競馬とか競漕とかいふ場合である、其の他朝起るにも競争がある、読書するにも競争がある、また徳の高い人が徳の低い人から尊重されるにも、それ〴〵競争がある、けれども是等後の方のものに於ては、余り激烈なものは認めない、然るに競馬競漕となると、命を懸けても構はない

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といふ程になる、自己の財産を増すに就ても是と同様で、激烈なる競争の念を起し、彼よりも我に財産の多からんことを欲する、其極、道義の観念も打忘れて、謂ゆる目的の為には手段を択ばぬといふやうにもなる、即ち同僚を誤り、他人を毀ち、或は大に自己を腐敗する、古語に『富をなせば仁ならず』といふのも、畢竟さういふ所から出た言葉であらう、アリストートルは『総ての商売は罪悪なり』と言つて居るさうであるが、それは未だ人文の開けぬ時代のことで、如何に大哲学者の申分とあつても、真面目には受取れない、併し孟子も『富をなせば仁ならず、仁をなせば富まず』と言つて居るから、等しく味はふべき言葉である。

 蓋ふに此の如く道理を誤るやうになつたのは、一般の習慣の然らしめた結果といはなければならぬ、元和元年に大阪方が亡び、徳川家康が天下を統一し、武を偃せて復た之

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を須ゐない時代となつて以来、政治の方針は一に孔子教より出て居つたやうである、その以前、支那或は西洋に相当の接触もしたのであるが、偶〻「ゼシユイツト」教徒が、日本に対して恐るべき企を持つて居るかに見えたことがあつた、或は宗教によつて国を取るのを其の趣意として居るなどといふ書面が和蘭から来たといふやうなことから、海外との接触を全く絶つて、僅か、長崎の一局部に於てのみ之を許し、内は全く武力を以て之を守り治めた、而して其の武力を以て治める人の遵奉したのは実に孔子教であつた、修身、斉家、治国、平天下の調子で治めるといふのが幕府の方針であつた、故に武士たる者は謂ゆる仁義孝悌忠信の道を修めた、さうして仁義道徳を以て人を治める者は、生産利殖などに関係する者でない、即ち『仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず』を事実に於て行つたのである、人を治める方は消費者であるから生産には従事しない、生産
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利殖のことをするのは、人を治め、人を教ふる者の職分に反するものとして、謂ゆる武士は喰はねど高楊枝といふ風を保つた、人を治める者は人に養はる〻ものなり、故に人の食を喰むものは人の事に死し、人の楽を楽む者は人の憂を憂ふといふが彼等の本分と考へられて居た、生産利殖は仁義道徳に関係のない人の携はるものとされて居たから、恰かも総て商業は罪悪なりと言はれた昔時と同様の状態であつた、是が殆んど三百年間の風を成した、其れも初めは極く簡単な方法で宜かつたが、次第に智識は減じ気力は衰へ、形式のみ繁多になり、遂に武士の精神廃り、商人は卑屈になつて、虚偽横行の世の中となつたのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.308-348

サイト掲載日:2024年11月01日