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◎商業に国境なし

 明治三十六年桑港に於て学童問題といふものが突発した、それから後も次第に日米間の国交が薄くなるやうな傾向を生じたといふのは、日本人が薄くするのでは無くして、亜米利加の或る方面の人が、段々に日本を嫌ふといふ有様を生じた、偖さういふ有様を生ずると、恰かも明治三十五年に桑港の金門公園に於て見た所の『日本人泳ぐべからず』の事柄が段々盛んに進んで来るやうになつた、亜米利加に対して特殊の印象を有つてる私、殊に実業界の一人として、又日本全体の実業界に対して深く心神を労して居る身であるから、国交上に大なる憂を抱いた、其後桑港に居る日本人間に在米日本人会なるものを組織した、其の会長の手島謹爾[牛島謹爾]氏が、特に渡辺金蔵といふ人を日本に送られて、私に請求せらる〻には、「カリフオルニヤ」州に於て亜米利加人が兎角日本人を嫌ふといふ感情を改善せしむる為に、在米日本人会を企てたのである、就ては本国(日本)に於ても其の意味を理解して、大に賛同して呉れるやうにと云ふことであつた、私は其の企図の至極機宜に適するものと思つて、我々も充分に助力するから、在米諸君も大に力めるやうにしたら宜からうと言つて、渡辺金蔵氏に私が明治三十五年に金門公園に於て感ぜしことを話して、会長たる手島[牛島]氏を初め、其他の会員にも能く注意して呉れといふことを伝言した、それが明治四十一年であつたと思ふ。

 その歳の秋、亜米利加から太平洋沿岸の商業会議所の議員が、多数日本へ来遊することになつた、それは我が東京商業会議所及び各地の商業会議所が同じ位置なるを以て、太平洋沿岸の商業会議所の諸君に、団体を組んで日本に旅行して呉れといふ事を勧誘したに因るものであるが、一は日米両国間の国交親善に努むる為め、総ての誤解を除却したいといふ意味を以て成立つたものである、其時に日本に来遊せられたのは、桑港に於てはエフ、ダブリユー、ドールマン、「シヤトル」ではジエー、デイ、ローマン或は「ポートランド」のオー、エム、クラーク等の人々で、私は種々の会合に於て是等の諸君に会談して、日米の関係に就て従来の沿革を詳述し、諸君の力で誤解を解くやうにして戴きたいと希望し、また一方には日本から米国に移住してる人々に就ては、欧米の習慣に慣れぬ為に公徳が修まらぬとか、或は風采が鄙劣だとか、或は同化しないとか云ふやうな欠点があれば、其の欠点は相共に矯正して、勉めて直させるやうにして、米国人に嫌はれぬ所の人間たらしむることを心掛けるのが肝要である、今日の場合、人種とか宗教とかの相違から、日本人を嫌ふといふやうなことは、文明なる亜米利加人としてよもあるまいと思ふ、若し之れありとすれば、それは亜米利加人の誤謬である、のみならず、亜米利加の当初の趣意に悖る訳である、我が日本を世界に紹介して呉れたのは亜米利加である、日本は其れを徳として今日まで国交の親善を勉めて居るのに、其の亜米利加が人種的の僻見、宗教差異の偏頗心から、日本人を嫌つて差別的待遇をすると云ふのは、亜米利加としてなすべきことで無い、果して然らば亜米利加は、初めは正義にして後には暴戻と曰はねばならぬ、といふことを懇々と述べたに付て、当時来遊せられた商業会議所の諸君も、誠に道理だと言うて深く喜んで呉れた。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.277-281

出典:日米国交と予の関係(『竜門雑誌』第310号(竜門社, 1914.03)p.17-25)

サイト掲載日:2024年11月01日