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◎人生は努力にあり

 予は本年(大正二年)最早七十四歳の老人である、それゆゑ数年来成るべく雑務を避ける方針を取つて居るが、但し全然閑散の身となることが出来ず、まだ自分の立てた銀行だけは依然、其の世話をして居るといふ次第で、老ても矢張り活動して居るのである、凡て人は老年となく青年となく、勉強の心を失つて終へば、其人は到底進歩発達するものではない、同時に夫等の不勉強なる国民によつて営まる〻国家は、到底繁栄発達するものではない、予は平生自ら勉強家の積りで居るが、実際一日と雖も職務を怠るといふことをせぬ、毎朝七時少し前に起床して、来訪者に面会するやうに努めて居る、如何に多数でも時間の許す限り、大抵は面会することにして居る。

 予の如き七十歳以上の老境に入つても、尚且つ此の如く怠ることをせぬのであるから、若い人々は大に勉強して貰はねばならぬ、怠惰は何所までも怠惰に終るものであつて、決して怠惰から好結果が生れることは断じてない、乃ち坐つて居れば立ち働くより楽なやうであるが、久しきに亘ると膝が痛んで来る、それで寝転ぶと楽であらうと思ふが、これも久しきに亘ると腰が痛み出す、怠惰の結果は矢張り怠惰で、それが益々甚しくなる位が落である、故に人は良き習慣を造らねばならぬ、即ち勤務努力の習慣を得るやうにせねばならぬ。

 世人は能く知力を進めねばならぬとか、時勢を解せねばならぬとか云ふが、成る程これは必要なことで、時を知り事を撰む上には、智力を進めること、即ち学問を修むる必要がある、とは言ふもの〻、智力如何に十分であつても、之を働らかさねば何の役にも立たない、そこで之を働かせるといふことは、即ち勉強して之を行ふことであつて、此の勉強が伴はぬと、百千の智も何等活用をなさぬ、而して其の勉強も、只一時の勉強では十分でない、終身勉強して始めて満足するものである、凡そ勉強心の強い国ほど国力が発展して居る、之に反して、怠惰国ほど其国は衰弱して居る、現に我が隣国支那などは、謂ゆる不勉強の好適例である、故に一人勉強して一郷その美風に薫じ、一郷勉強して一国その美風に化し、一国勉強して天下靡然として之に倣ふといふやうに、各自は啻に一人の為のみでなく、一郷一国乃至天下の為に、十分勉強の心懸が大切である。

 人の世に成功するの要素として、智の必要なること、即ち学問の必要なることは勿論であるが、それのみを以て直ちに成功し得るものと思ふは大なる誤解である、論語に『子路曰く、民人あり、社稷あり、何ぞ必ずしも書を読みて、然る後に学ぶと為ん』とある、これは孔子の門人の子路の言である、すると孔子は『是の故に夫の佞者を悪む』と答へられた、此意は『口ばかりで、事実行はれなくては駄目である』といふことである、予は此の子路の言を善しと思つて居る、左れば机上の読書のみを学問と思ふのは甚だ不可のことである。

 要するに、事は平生にある、之を例すると医師と病人との関係の如きものである、平常衛生のことに注意を怠つて居て、イザ病気といふ時に医家の門に駈けつけるといふやうなもので、医者は病人を治すが職務であるから、何時でも治して呉れると思うては大違ひである、医家は必ず平常の衛生を勧めるに相違ない、故に予は凡ての人に、不断の勉強を望むと同時に、事物に対する平生の注意を怠らぬやうに心掛くることを説きたいと思ふのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.131-135

出典:人生努力の習慣(『竜門雑誌』第298号(竜門社, 1913.03)p.24-26)

サイト掲載日:2024年11月01日