テキストで読む

◎競争の善意と悪意

 御互実業者側、殊に輸出貿易に従事する諸君に向つて商業道徳といふと、商業にのみ道徳があるやうに聞ゆるが、道徳といふものは世の中の人道であるから、単に商業家にのみ望むべきもので無い、商業の道徳は斯くある、武士の道徳は斯うである、政治家の道徳は斯様であると、何か官服の制度見たやうに、線が三つあるとか四つあるとかいふ如き変つたものではない、人道であるから総ての人が守るべきもので、孔子の教で云ふならば『孝悌は仁を為すの本』といふやうに、初め孝悌から践み出して、それから大きく仁義にもなり、忠恕にもなる、之を総称して道徳といふやうに為つて来るのであらう、さういふ広い人道的の道徳でなくして、商売上殊に輸出営業などに付て注意を望むのは、競争に属する道徳である、是は特に申合せて、其の間の約束を道徳的に堅固にしたいと、余は希望して止まぬのである、総て物を励むには競ふといふことが必要であつて、競ふから励みが生ずるのである、謂ゆる競争なるものは、勉強又は進歩の母といふは事実である、けれども此の競争に善意と悪意との二種類があるやうである、一歩進んで言ふならば、毎日人よりも朝早く起き、善い工夫をなし、智恵と勉強とを以て他人に打克つといふは、是れ即ち善競争である、併しながら他人が事を企つて世間の評判が善いから、之を真似て掠めてやらうとの考で、側の方から之を侵すといふのであつたら、それは悪競争である、簡単には斯く善悪二つに言ひ得るけれども、抑も事業は百端で、従つて競争も亦限りなく分れて来る、而して若し此の競争の性質が善でなかつた場合は、己れ自身には事によりて利益ある場合もあらうけれども、多くは人を妨げるのみならす[ず]、己れ自身にも損失を受くる、単に自他の関係のみに止まらずして、其の弊害や殆んど国家にまで及ぶ、乃ち日本の商人は困つたものだと外国人に軽蔑されるやうに為つて来るだらうと思ふ、是に至ると其の弊や実に大である、此所に御会合の方々には斯ることは断じてあるまいが、若しもありてはと、婆心を述るのである、併し世間押並べて此の弊害が多いと聞いて居る、殊に雑貨輸出の商売などに付て、悪い意味なる競争、即ち道徳に欠くる所ある事柄が、人を害し己を損じ、併せて国の品位を悪くする、商工業者の位地を高めやうと相互に努めつ〻、反対に低めるといふ事になるのである。

 然らば如何なる具合に経営したら宜いかと言ふならば、須らく事実に依らねば言明は出来兼るが、余が思ふには善意なる競争を努めて、悪意なる競争は切に避けるのである、此の悪意なる競争を避けるといふことは、詰り相互の間に商業道徳を重んずるといふ強い観念を以て固まつて居つたならば、勉強するからとて悪意の競争にまで陥るといふことはなく、或る度合に於て斯うしては為らぬといふ寸法は、敢て『バイブル』を読まぬでも、論語を暗んじぬでも必ず分るであらうと思ふ、元来此の道徳といふものを余りむづかしく考へて、東洋道徳でいふならば、四角の文字を並べ立てると、遂に道徳が御茶の湯の儀式見たやうになつて、一種の唱へ言葉になつて、道徳を説く人と道徳を行ふ人とが別物になつて仕舞ふ、是は甚だ面白くない。

 全体道徳は日常にあるべきことで、チヨツと時を約束して間違はぬやうにするのも道徳である、人に対して譲るべきものは相当に譲るも道徳である、又或る場合には、人よりは先にして人に安心を与へてやるといふのも道徳である、事に臨んでは義俠心も持たなければならぬ、是も一種の道徳である、チヨツと品物を売るに付ても、道徳は其の間に含んで居る、故に道徳といふものは、朝に晩に始終附いて居るものである、然るに道徳を大層むづかしいものにして、隅の方に道徳を片附けて置いて、さて今日からは道徳を行ふのだ、此の時間が道徳の時間だといふやうな憶劫なものではない、若し商工業などに付ての競争上の道徳といふものであつたら、前来繰返せし通り、善意競争と悪意競争、妨害的に人の利益を奪ふといふ競争であれば、之を悪意の競争といふのである、然らずして品物を精撰した上にも精撰して、他の利益範囲に喰ひ込むやうなことはしない、これは善意の競争である、つまり是等の分界は何人でも自己の良心に徴して判明し得ること〻思ふ。

 之を要するに、何業に拘はらず、自己の商売に勉強は飽くまでせねばならぬ、また注意も飽くまでせねばならぬ、進歩は飽くまでせねばならぬのであるが、それと同時に悪競争をしては為らぬといふことを、強く深く心に留めて置かねば為らぬのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.297-302

出典:我邦の現状に鑑み政府当局者及実業家諸君に望む(『竜門雑誌』第302号(竜門社, 1913.07)p.13-20)

サイト掲載日:2024年11月01日