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果して誰の責任ぞ

 世人動もすれば維新以後に於ける商業道徳は、文化の進歩に伴はずして却つて衰へたと云ふ、併しながら余は何故に道徳が退歩、若くは頽廃したか、其の理由を知るに苦しむ者である、之を昔日の商工業者に比すれば、今日の商工業者と其の孰れが道徳観念に富み、孰れが信用を重んずるであらうか、余は今日を以て遥かに昔日に優るものと断言するに憚からぬ、けれども今日他の事物の進歩した割合に道徳が進んで居らぬとは、既に前説の如くであるから、余は必ずしも世人の説を駁する訳ではない、唯吾人の此間に処するものは、斯の如き世評の生ずる理由を詮索し、一日も早く道徳をして物質的文明と比肩せしめ得るの程度に向上させなくてはならぬ、それは前に述べたるが如き方法の下に道徳を講ずるのが先決問題であらう、併しそれとても特別の工夫方法を要する訳でなく、唯日常の経営に於て左様心掛けて居れば足るのであるから、左まで六ケ敷いものではない。

 維新以来物質的文明が急激なる発達をなしたるに反し、道徳の進歩がそれに伴はなかつたので、世人は此の不釣合の現象に著しく注目して、商業道徳退歩といふのであるとして見れば、仁義道徳の修養に心を用ゐ、物質的進歩と互角の地位に進ませるが目下の急務には相違ないが、一面から考察して見ると、単に外国の風習ばかりを見て、直ちにこれを我国に応用せんとすれば、或は不可能を免れぬこともある、国異なれば道義の観念も亦自ら異るものであるから、仔細に其の社会の組織風習に鑑み、祖先以来の素養慣習に稽へ、其の国、其の社会に適応する所の道徳観念の養成を努めなければならぬものである、一例を挙ぐれば『父召せば諾なし、君命じて召せば駕を待たずして行く』とは、即ち日本人が君父に対する道徳観念である、父召せば声に応じて起ち、君命じて召すことあれば、場合を問はずして直ちに自ら赴くとは、古来日本人士の間に自然的に養成されたる一種の習慣性である、然るに之を個人本位の西洋主義に比較すれば、其の軒輊は非常なもので、西洋人の最も尊重する個人の約束も、君父の前には犠牲として敢て顧みぬも宜いといふことになる、日本人は忠君愛国の念に富んだ国民であると称揚さるる傍から、個人間の約束を尊重せぬとの誹謗を受くるのも、要するに其の国固有の習慣性が然らしめたので、我と彼では其の重んずる所のものに差違がある、然るに其の因つて来る所以を究めずして、徒らに皮相の観察を下し、一概に日本人の契約観念は不確実である、商業道徳は劣等であると非難するは、余りに無理であるといふより外は無い。

 斯く論ずればとて、余が日本の商業道徳の現在に満足せぬことは勿論である、兎に角近頃の商工業者の間に、或は道徳観念が薄いとか、或は自己本位に過ぎるとかいふ評を加へられることは、当業者の相互に警戒せねばならぬことではあるまいか。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.336-339

参考記事:日本の商業道徳(『青淵百話』(同文館, 1912.06)p.179-195)

サイト掲載日:2024年03月29日