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私共の組織して居る帰一協会といふのがある、帰一といふのは外でもない、世界の各種の宗教的観念、信仰等は、遂に一に帰する期のないものであらうか、神といひ、仏といひ、耶蘇といひ、人間の履むべき道理を説くものである、東洋哲学でも西洋哲学でも、自然些細な事物の差はあるけれども、その帰趣は一途のやうに思はれる、『言忠信、行篤敬なれば、蛮狛[貊]と雖も行はれん』といひ、反対に『言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里と雖も行はれんや』と云つて居るのは、これは千古の格言である、若し人に忠信を欠き行が篤敬でなかつたならば、親戚故旧たりとも其人を嫌がるに違ひない、西洋の道徳も矢張り同じやうな意味のことを説いて居る、但だ西洋の流義は積極に説き、東洋の流義は幾分か消極に説いてある、例へば、孔子教では『己の欲せざる所、人に施す勿れ』と説いてあるのに、耶蘇の方では『己の欲する所、これを人に施せ』と、反対に説いてあるやうなもので、幾分かの相違はあるけれども、悪いことをするな、善いことをせよと云ふ、言ひ現はし方の差異で、一方は右から説き、一方は左から説き、而して帰する所は一である、斯様に程合のもので、深く研究を進めるならば、各々宗派を分ち、門戸を異にして、甚しきは相凌ぐといふやうなことは、実は馬鹿らしい事であらうと考へる、凡てに於て帰一が出来るか否かは判らぬけれども、或る程度の帰一を期し得るものなれば、左様あらしめたいといふ考へで、組織せられたのが即ち帰一協会である。
組織以来最早数年を経過して居る、之が会員は日本人ばかりでなく、欧米人も多少は居て、而して或る問題に就てお互に研究し合つて居る、私は即ち仁義道徳と生産殖利といふことは、一致すべきものであり、一致させたいものであることに就て、自分は四十年来その事を唱道し実践して居る、併しながら道理は左様であるけれども、之に反する事実が屡次世間に現はれるのは、真に情ない次第である。
自分の説に対して平和協会のボール氏とか、井上博士、塩沢博士、中島力蔵博士、菊地大麓男などは、全然帰一とまでは行かないにしても、必ず或る程度までは帰一し得らるべきものである、世の中の物事が、時としては横道に外れるやうなこともあるが、其れはその事物が悪いので、その為に真理は少しも晦まされるものでは無い、昔は斯うであつたとか、斯ういふ理論もあるとか曰はれて、仁義道徳を生産殖利とは必ず一致すべきもの、又一致せなければ真正の富を造り成し、之を永久に捕捉することの出来ないものであると云ふことは、大抵の議論が帰著しようと思ふと言つて居られる、若し果して斯ういふ論旨が十分に徹底して、世の中に鼓吹せられ、生産殖利は必ず仁義道徳に依らねばならぬ、と言ふ観念が打成されたならば、仁義道徳に欠ける行為は自ら止むに至るであらう、例へば、御用物品の買上に従ふ職司の人も、賄賂は仁義道徳に背くと心付けば、迚も賄賂を収め得るものでない、御用商人の側から云うても、仁義道徳に背戻すると思へは[ば]、賄賂を行うことは出来まい。
此の関係を押し進めて政治にせよ、法律にせよ、軍事にせよ、有らゆる事柄を此の仁義道徳に一致させなければ不可ない、一方は仁義道徳に従つて正しき商売の道を履んでも、一方が賄賂を要請するといふやうな片足では不可ない、世の中のことは殆んど車を廻すやうなもので、お互に仁義道徳を守つて行かなければ、必ず何所に扞格を生ずるのであるから、一切の事柄をして仁義道徳に合致せしむるやう、相互に努めなければならぬ、此の主義を十分に拡大して広く社会に行ふならば、賄賂などといふやうな、忌はしいことは自ら止むに至るであらう。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.201-205
出典:海軍収賄事件に就て(『竜門雑誌』第311号(竜門社, 1914.04)p.21-26)
サイト掲載日:2024年11月01日