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現代教育の得失

 昔の青年と今の青年とは、昔の社会と今の社会と異なるが如くに異なつて居る、余が二十四五歳の頃、即ち明治維新前の青年と現代の青年とは、其の境遇、其の教育を全然異にして居るが為めに、何れが優り何れが劣つて居るといふことは、一口には言ひ現はせない、而かも一部の人士は、昔の青年は意気もあり、抱負もありて、今の青年より遥かに偉かつた、今の青年は軽浮で元気がないと云ふが、一概にさうばかりも言へまいと思ふ、何となれば、昔の少数の偉い青年と現今の一般青年とを比較し来りて、彼れ是れ言ふことは少しく誤つて居る、今の青年の中にも偉い者もあれば、昔の青年にも偉くない者もあつた、維新前の士農工商の階級は極めて厳格であつた、武士の中にも上士と下士といふが如き階級があり、百姓町人の間にも、代々土地の素封家で庄屋を勤めて居るやうな家柄と、普通の百姓町人とは、自ら其の気風教育に異なる所があつた、斯の如き有様であつたから、昔の青年といつても、武士と上流の百姓町人と、一般の百姓町人とは、其の教育も異つて居たのである。

 昔の武士及び上流の百姓町人は、其の青年時代に多く漢学教育を受けたもので、初めは小学とか孝経とか近思録とか、更に進んでは論語、大学、孟子等を修め、一方身体の鍛錬と共に武士的精神を鼓吹したものである、而して一般の町人百姓は如何なる教育を受けたかと云へば、極めて卑近な実語教とか庭訓往来とか又加減乗除の九々等を学んだに過ぎない、従つて高尚な漢学教育を受けた武士は、理想も高く見識もあつたものであるが、百姓町人は通俗な手習に過ぎなかつたので、概して無学者が多かつたのである、然るに今は四民平等となり、貴賤貧富の差別なく、悉く教育を受くること〻なり、乃ち岩崎三井の息子も九尺二間の長屋の息子も、皆同一の教育を受くるといふ有様であるから、其の多数の青年中の品性の劣等な、学問の出来ない青年のあるのは、蓋し止むを得ないことである、故に今の一般の青年と昔の少数なる武士階級の青年とを比較して彼れ是れと非難するは、当を得ないことである。

 現今でも高等教育を受けた青年の中には、昔の青年に比較して毫も遜色のない者が幾らもある、昔は少数でも宜いから、偉い者を出すといふ天才教育であつたが、今は多数の者を平均して啓発するといふ常識的教育となつて居るのである、昔の青年は良師を撰ぶといふことに非常に苦心したもので、有名な熊沢蕃山の如きは中江藤樹の許へ行つて其の門人たらんことを請ひ願つたが許されず、三日間其の軒端を去らなかつたので、藤樹も其の熱誠に感じて、遂に門人にしたといふ程である、其他新井白石の木下順庵に於ける、林道春の藤原惺窩に於けるが如きは、皆その良師を択んで学を修め、徳を磨いたのである。

 然るに現代青年の師弟関係は、全く乱れて仕舞つて、美はしい師弟の情誼に乏しいのは寒心の至りである、今の青年は自分の師匠を尊敬して居らぬ、学校の生徒の如きは、其の教師を観ること、恰かも落語師か講談師かの如く、講義が下手だとか、解釈が拙劣であるとか、生徒として有るまじきことを口にして居る、これは一面より観れば、学科の制度が昔と異なり、多くの教師に接する為であらうが、総て今の師弟の関係は乱れて居る、同時に教師も亦その子弟を愛して居らぬといふ嫌ひもあるのである。

 要するに、青年は良師に接して自己の品性を陶冶しなければならない、昔の学問と今の学問とを比較して見ると、昔は心の学問を専一にしたが、現今は智識を得ることにのみ力を注いで居る、昔は読む書籍その者が悉く精神修養を説いてゐるから、自然と之を実践するやうになつたのである、修身斉家と言ひ、治国平天下と言ひ、人道の大義を教へたも[の]である。

 論語にも『其為人也孝弟、而好犯上者鮮矣、不好犯上、而好作乱者、未之有也』といひ、『事君能致其身』といひて、忠孝主義を述べ、且つ仁義礼智信の教訓を敷衍しては、また同情心、廉恥心を喚起させるやうにし、又礼節を重んずるやうにし、或は勤倹生活の貴ぶべきことを教へたものであるから、昔の青年は自然と身を修むると共に、常に天下国家の事を憂い、朴実にして廉恥を重んじ、信義を貴ぶといふ気風が盛であつた、之に反して、現今の教育は智育を重んずるの結果、既に小学校の時代から多くの学科を学び、更に中学大学に進んで益〻多くの智識を積むけれども、精神の修養を等閑に附して心の学問に力を尽さないから、青年の品性は大に憂ふべきものがある。

 一体現代の青年は学問を修める目的を誤つて居る、論語にも『古之学者為己、今之学者為人』と云つて嘆じてあるが、移して以て今の時代に当て箝めることが出来る、今の青年は唯学問の為に学問をして居るのである、初より確然たる目的なく漠然と学問する結果、実際社会に出てから、我は何の為に学びしやといふが如き疑惑に襲はれる青年が往々にしてある、学問すれば誰でも皆偉い者になれる、といふ一種の迷信の為に、自己の境遇生活状態をも顧みないで、分不相応の学問をする結果、後悔するが如きことがあるのである、故に一般の青年は、自己の資力に応じて小学校を卒業すると、それぞれの専門教育に投じて実際的技術を修むべきである、また高等の教育を受くる者も、尚だ中学時代に於て、将来は如何なる専門学科を修むべきかといふ、確然たる目的を定むることが必要である、浅薄なる虚栄心の為めに修学の法を誤らば、是れ実に青年の一身を誤るのみならず、国家元気の衰退を招く基となるのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.353-359

参考記事:青年に与ふ(『竜門雑誌』第319号(竜門社, 1914.12)p.11-13)

サイト掲載日:2024年03月29日