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材能の適不適を察し、適材を適所に置くといふことは、多少なりとも人を使ふ者の、常に口に是を言ふ所であつて、而して又常に心に是を難ずる所である。更に又惟ふに、適材を適所に置くといふことの蔭には、往々にして権謀の加味されて居る場合がある、自己の権勢を張らうとするには、何よりも適材を適所に配備し、一歩は一歩より、一段は一段より、漸次に自己の勢力を扶植し、漸次に自己の立脚地を蹈固めて行かなければならぬ、斯様に工夫するものは、遂に能く一派の権勢を築き上げて、政治界に処しても、事業界に処しても、乃至何等の社会に処しても、儼然として覇者の威を振ふことが出来るのである、併し左様な行き方は、断じて私の学ぶ所では無い。
我国の古今を通じて、徳川家康といふ人ほど巧みに適材を適所に配備して、自家の権勢を張るに便じた権謀家は見当らない、居城江戸の警備として、関東は大方譜代恩顧の郎党を以て取固め、箱根の関所を控へて大久保相模守を小田原に備へ、謂ゆる三家は、水戸家を以て東国の門戸を抑え、尾州家を以て東海の要衝を扼し、紀州家を以て畿内の背後を警め、井伊掃部頭を彦根に置いて平安王城を圧したなんど、人物の配備は実に其妙を極めたのである、其他越後の榊原、会津の保科、出羽の酒井、伊賀の藤堂にしても、且は中国九州は勿論、日本国中到らぬ隈なく、要所には必ず自家恩顧の郎党を配備し、これはと思ふ大名は、手も足も出ぬやうに取詰め、見事に徳川三百年の社稷を築き上げたのである、斯くして得たる家康の覇道は、我が国体に適ふものであつたか否かは、私が更めて批評するまでもないが、兎も角も適材を適所に置くといふ手腕に於ては、古今家康に企及し得るもの、我が国史には其の匹儔を覓め難いのである。
私は適材を適所に配備する工夫に於て家康の故智にあやかりたいものと、断えず苦心して居るのであるが、其の目的に於ては全く家康に倣ふ所がない、渋沢は何所までも渋沢の心を以て、我と相共にする人物に対するのである、是を道具に使つて自家の勢力を築かうの、何うのといふ私心は毛頭も蓄はへて居らぬ、唯私の素志は適所に適材を得ることに存するのである、適材の適所に処して、而して何等かの成績を挙げることは、これ其人の国家社会に貢献する本来の道であつて、やがて又それが渋沢の国家社会に貢献する道となるのである、私は此の信念の下に人物を待つのである、権謀的色彩を以て其人を汚辱し、自家薬籠の丸子として、其人を封じこめて了ふやうな、罪な業は決して致さぬ、活動の天地は自由なものでなければならぬ、渋沢の下に居りて舞台が狭いのならば、即座に渋沢と袂を分ち、自由自在に海濶な大舞台に乗り出して、思ふさま手一杯の働き振を見せて下さることを私は衷心から希ふて居る、我に一日の長あるが為に、人の自ら卑うして私の許に働いて呉れるにしても、人の一日の及ばざるの故を以て、私は其人を卑しめたくない、人は平等でなければならぬ、節制あり礼譲ある平等でなければならぬ、私を徳とする人もあらうが、私も人を徳として居る、畢竟世の中は相持ちと極めて居るから我も驕らず、彼も侮らず、互に相許して毫末も乖離する所のなきやうに私は勤めて居る。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.26-30
出典:予は覇者の道を踏まず(『竜門雑誌』第293号(竜門社, 1912.10)p.35-37)
サイト掲載日:2024年11月01日