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人事を尽して天命を待て

 天の果して如何なるものであらうかと云ふことに就ては、私の関係して居る帰一協会などの会合でも屡次議論の起るところであるが、或る一部の宗教家中には、天を一種の霊的動物であるかの如くに解釈し、之を人格ある霊体とし、恰かも人間が手足を動かして、或は人に幸福を授けたり不幸を下したりするのみならず、祈祷したり御縋り申したりすれば、天は之に左右せられて、命を二三にせらる〻かの如くに考へて居らる〻方もある、併し天は是等の宗教家方の考へらる〻如く、人格や人体を具へたり、祈願の有無に依つて、幸不幸の別を人の運命の上につける如きものでは無い、天の命は人の之を知りもせず覚りもせぬ間に、自然に行はれてゆくものである、素より天は手品師の如き不可思議の奇蹟なぞを行ふものでは無い。

 此れが天命であるか彼れが天命であるとか云ふのは、畢竟人間が自分でそれ〴〵勝手に極めることであつて、天の毫も関知する所ではないのである、故に人間が天命を畏れて、人力の如何ともする能はざる、或る大なる力の存在を認め、人力を尽しさへすれば、無理なことでも不自然なことでも、何でも必ず貫徹するものと思はず、恭、敬、信を以て天に対し、明治天皇の教育勅語のうちに、謂ゆる古今に通じて謬らず、中外に施して悖らぬ、坦々として長安に通ずる大道をのみ歩み、人力に勝ち誇つて無理をしたり、不自然の行為をしたりするのを慎むといふことは、誠に結構の至りであるが、天或は神或は仏を人格人体あり、感情に左右せらる〻ものであるかの如くに解釈するのは、甚だ間違つた観念であらうかと思ふのである。

 天命は人間が之を意識しても将た意識しなくつても、四季が順当に行はれて行くやうに、百事百物の間に行はれてゆくものたるを覚り、之に対する恭、敬、信を以てせねばならぬものだ、と信じさへすれば、『人事を尽して天命を待つ』なる語のうちに含まる〻真正の意義も、初めて完全に解し得らる〻やうになるものかと思ふ、されば実際世に処して行く上に於て、如何に天を解してゆくべきものかといふ問題になれば、孔夫子の解せられて居つた程度に之を解して、人格ある霊的動物なりともせず、天地と社会との間に行はる〻因果応報の理法を偶然の出来事なりともせず、之を天命なりとして恭、敬、信の念を以て対するのが、最も穏当なる考へ方であらうかと思ふのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.392-394

参考記事:実験論語処世談(一二)(『竜門雑誌』第336号(竜門社, 1916.05)p.11-29)

サイト掲載日:2024年03月29日