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現代青年に取つて最も切実に必要を感じつつあるものは人格の修養である、維新以前までは、社会に道徳的の教育が比較的盛んな状態であつたが、西洋文化の輸入するに連れて思想界に少からざる変革を来し、今日の有様では殆ど道徳は混沌時代となつた、即ち儒教は古いとして退けられたから、現時の青年には之が十分咀嚼されて居らず、というて耶蘇教が一般の道徳律になつて居る訳では尚更なし、明治時代の新道徳が別に成立したのでもないから、思想界は全くの動揺期で、国民は孰れに帰嚮してよいか、殆んど判断にさへ苦しんで居る位である、従つて一般青年の間に人格の修養といふことは幾ど閑却されて居るかの感なきを得ないが、これは実に憂ふべき趨向である、世界列強国が孰れも宗教を有して道徳律の樹立されて居るのに比し、独り我国のみが此の有様では、大国民として甚だ恥かしい次第ではないか、試みに社会の現象を見よ、人は往々にして利己主義の極端に馳せ、利の為には何事も忍んで為すの傾があり、今では国家を富強にせんとするよりも、寧ろ自己を富裕にせんとする方が主となつて居る、富むことも固より大切なことで、何も好んで簞食瓢飲陋巷に在つて其の楽を改めぬといふことを最上策とするには及ばない、孔子が『賢なる哉回や』と、顔淵の清貧に安んじて居るのを褒められた言葉は、要するに『不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し』といふ言葉の裏面を曰はれたまで〻、富は必ずしも悪いと貶めたものではない、併しながら唯一身さへ富めば足るとして、更に国家社会を眼中に置かぬといふは慨すべき極である、説は富の講釈に入つたが、何にせよ社会人心の帰向が左様いふ風になつたのは、概して社会一般人士の間に人格の修養が欠けて居るからである、国民の帰依すべき道徳律が確立して居り、人はこれに信仰を持つて社会に立つといふ有様であるならば、人格は自ら養成されるから、社会は滔々として我利のみ是れ図るといふやうなことはない訳である、故に余は青年に向つて只管人格を修養せんことを勧める、青年たるものは真摯にして率直、しかも精気内に溢れ活力外に揚る底のもので、謂ゆる威武も屈する能はざる程の人格を養成し、他日自己を富裕にすると共に、国家の富強をも謀ることを努めねばならぬ、信仰の一定せられざる社会に処する青年は、危険が甚だしいだけに自己もそれだけに自重してやらねばならぬのである。
さて、人格の修養をする方法工夫は種々あらう、或は仏教に信仰を求めるも宜しからう、或は「クリスト」教に信念を得るも一方法であらうが、余は青年時代から儒道に志し、而して孔孟の教は余が一生を貫いての指導者であつた〻゙ けに、矢張り忠信孝悌の道を重んずることを以て大なる権威ある人格養成法だと信じて居る、これを要するに忠信孝悌の道を重んずるといふことは全く仁を為すの基で、処世上一日も欠くべからざる要件である、既に忠信孝悌の道に根本的修養を心掛けた以上は、更に進んで智能啓発の工夫をしなければならぬ、智能の啓発が不十分であると、兎角世に処して用を成すに方り完全なることは期し難い、従つて忠信孝悌の道を円満に成就するといふことも出来なくなつて来る、如何となれば、智能が完全なる発達を遂げて居ればこそ、物に応じ事に接して是非の判別が出来、利用厚生の道も立つので、茲に始めて根本的の道義観念と一致し、処世上何等の誤謬も仕損じもなく、能く成功の人として終局を全うすることを得るからである、人生終局の目的たる成功に対しても、近時多種[多]様に之を論ずる人があつて、目的を達するに於ては手段を択ばずなぞと、成功といふ意義を誤解し、何をしても富を積み地位を得られさへすれば、其れが成功であると心得て居る者もあるが、余は其様な説に左袒することが出来ない、高尚なる人格を以て正義正道を行ひ、然る後に得た所の富、地位でなければ、完全な成功とは謂はれないのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.273-277
出典:始めて世に立つ青年の心得(『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.330-337)
サイト掲載日:2024年11月01日