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由来習慣とは人の平生に於ける所作が重なりて一つの固有性となるものであるから、それが自ら心にも働きにも影響を及ぼし、悪いことの習慣を多く持つものは悪人となり、良いことの習慣を多くつけて居る人は善人となると言つたやうに、遂には其人の人格にも関係して来るものである、故に何人も平素心して良習慣を養ふことは、人として世に処する上に大切なことであらう。
また習慣は唯一人の身体にのみ附随して居るもので無く、他人に感染するもので、動もすれば人は他人の習慣を摸倣したがる、此の他に広まらんとする力は、単に善事の習慣ばかりでなく、悪事の習慣も同様であるから、大に警戒を要する次第である、言語動作の如きは、甲の習慣が乙に伝はり、乙の習慣が丙に伝はるやうな例は決して珍らしくない、著しい例証を挙ぐれば、近来新聞紙上に折々新文字が見える、一日甲の新聞に其の文字が登載されたかと思ふと、それが忽ち乙丙丁の新聞に伝載され、遂には社会一般の言語として誰しも怪しまぬことになる、彼の『ハイカラ』とか『成金』とかいふ言葉は即ち其の一例である、婦女子の言葉なども矢張左様で、近頃の女学生が頻りに『よくツてよ』とか『さうだわ』とかいふ類の言語を用ゐるのも、或種の習慣が伝播したものと云つて差支ない、また昔日は無かつた『実業』といふ文字の如きも、今日は最早習慣となり、実業といへば直ちに商工業のことを思はせるやうになつて来た、彼の『壮士』といふ文字なども、字面から見れば壮年の人でなければならぬ筈であるのに、今日では老人を指しても壮士といひ、誰一人それを怪むものなきに至つて居る、以て習慣が如何に感染性と伝播力とを持つて居るかを察知するに足るであらう、而して此の事実より推測する時は、一人の習慣は終に天下の習慣となり兼ねまじき勢であるから、習慣に対しては深い注意を払ふと共に、亦自重して貰はねばならぬのである。
殊に習慣は少年時代が大切であらうと思ふ、記憶の方から云うても、少年時代の若い頭脳に記憶したことは、老後に至つても多く頭脳の中に明確に存して居る、余の如きも如何なる時の事をよく記憶して居るかと云へば、矢張少年時代のことで、経書でも歴史でも、少年の時に読んだことを最もよく覚えて居る、昨今いくら読んでも、其の方は読む先から皆忘れて仕舞ふ、さういふ訳であるから習慣も少年時代が最も大切で、一度習慣となつたなら、其れは固有性となつて終生変ることはない、のみならず、幼少の頃から青年期を通じては、非常に習慣の着き易い時である、それ故に此の時期を外さず良習慣をつけ、それをして固性とするやうにしたいものである、余は青年時代に家出して天下を流浪し、比較的放縦な生活をしたことが習慣となつて、後年まで悪習慣が直らなくて困つたが、日々悪い習慣を直したいとの一念から、大部分はこれを矯正することが出来た積りである、悪いと知りつ〻改められぬのは、つまり克己心の足らぬのである、余の経験によれば、習慣は老人になつても矢張重んぜねばならぬと考へる、それは青年時代の悪習慣も、老後の今日に至つて努力すれば改められるものであるから、今日の如く日に新なる世に処しては、尚更この心を持つて自重して行かねばならぬのである。
兎角習慣は不用意の間に出来上るものであるから、大事に際しては其れを改めることが出来るのである、例へば、朝寝をする習慣の人が、常時はどうしても早起が出来ないけれども、戦争とか火事とかいふ場合に当りては、如何に寝坊でも必ず早起が出来るといふことから観ても、さう思はれるのである、然らば何故にさうなるかと云ふに、習慣は些細のことであるとして軽蔑し易いもので、日常それが吾儘に伴うて居るからである[、]左れば男女となく老若となく、心を留めて良習慣を養ふやうにしなければならぬのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.110-114
出典:習慣性に就いて(『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.475-480)
サイト掲載日:2024年11月01日