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金は尊いものであるとか、又は貴ばねばならぬものであるとか云ふことに関しては、古来随分多くの格言もあり、俚諺もある、或人の詩に『世人交りを結ぶに黄金を以てす、黄金多からざれば交り深からず』とある一句などは、黄金は友情といふ形而上の精神までも支配するの力あるものとも取れる、精神を尊んで物質を卑める東洋古来の風習では、黄金によつて友情をまで左右されるのは、人情の堕落思ひやられて甚だ寒心の至りであるが、併し斯ういふことが我々の日常よく出会ふ問題である、例へば親睦会などいふと必ず相集まつて飲食する、これは飲食も友愛の情を幇助するからである、又久し振りに来訪して呉れる友人に、酒食を供することも出来ないやうでは、締交の端緒も開き難い、而して是等のことには皆黄金が関係する。
俚諺に『銭ほど阿弥陀は光る』と言うて、十銭投げれば十銭だけ光る、二十銭投げれば二十銭だけ光ると計算して居る、又『地獄の沙汰も金次第』といふに至りては、頗る評し得て皮肉の感がないでもないが、亦以て金の効能の如何に大きいものであるかを表したものと見ることが出来る、一例を挙げると、東京停車場へ往つて汽車の切符を買ふとするに、如何なる富豪でも、赤切符を買へば三等にしか乗れない、又如何に貧人でも、一等切符を買へば一等に乗れる、これは全く金の効能である、兎に角金には或る偉大なる力あることを拒む訳にはならぬ、如何に多く財を費しても、唐辛を甘くするこ[と]は出来ないけれども、無限の砂糖を以て其の辛味を消すことは出来る、又平生苦り切つて八ケ間敷言つて居る人でも、金の為には直ぐ甘くなるのは世間普通のことで、政治界などに能く見る例である。
斯く論じ来れば、金は実に威力あるものなれども、併しながら金は固より無心である、善用さる〻と悪用されるとは、其の使用者の心にあるから、金は持つべきものであるか、持つべからざるものであるかは、卒爾に断定することは出来ない、金はそれ自身に善悪を判別するの力はない、善人が之を持てば善くなる、悪人が之を持てば悪くなる、つまり所有者の人格如何によつて善ともなり悪ともなる、此事に関しては、余は常々人に語つて居るが、昭憲皇太后の、
仇ともなるは黄金なりけり
然るに世間の人々は、兎角この金を悪用したがるものである、されば古人も之を戒めて『小人罪なし、宝を抱くこれ罪』とか、『君子財多ければ其の徳を損し、小人財多ければ其過を増す』などと言つてある、論語を読んで見ても、『富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し』といひ、又は『富にして求むべくんば執鞭の士と雖も、吾れまた之を為さん』と言ひ、大学には『徳は本なり、財は末なり』と曰つてある、今か〻る訓言を一々此所に引用したならば、殆んど枚挙に遑なしであらうが、これは決して金を軽視しても宜いと云ふ意味ではない、苟くも世の中に立つて完全の人たらんとするには、先づ金に対する覚悟がなくてはならぬ、而して斯る訓言に徴しても、社会に於ける金の効力は如何に思察すべきものであるか、頗る考慮を要するのである、蓋し余り之を重んじ過ぎるのも誤りなら、又これを軽んじ過ぎるのも宜しくない、即ち『国、道ありて貧且つ賤しきは恥なり、国、道なくして富且つ貴きは恥なり』と言うて、孔子も決して貧乏を奨励はなさらなかつた、唯『その道を以てせざれば、これを得るとも処らざるなり』である。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.144-148
出典:金の威力(『竜門雑誌』第332号(竜門社, 1916.01)p.31-34)
サイト掲載日:2024年11月01日