楽翁公の伝は既に広く世間に知れ渡つて居ることであるから、今更めて述ぶるまでもないのであるが、茲に述べんとするは楽翁公の御自筆で、松平家の秘書となつて居る『撥雲筆録』といふものに依りて、聊か公の御幼時に於ける一端を窺ふと同時に、その御人格御精神等の非凡なる所以を紹介しやうと思ふのである、即ち
『六つの年に大病に罹りたり、生くべき程心許なかりけれど、高島朔庵法眼等多くの医師打集ひて医しぬ、九月の頃平癒す、七つの頃にやありけん、孝経を読み習ひ仮名な
んど習ひたり、八つ九つの頃、人々皆記憶もよく才もありとて褒めの〻しりければ、我心ながらさもあることよと思ひしぞはかなかれ。』
これは御利巧だ〳〵と皆が御世辞を言ふから、自分自身は悧巧な積りで居たのが恥かしいといふ、懐旧の情を叙べられたので、甚だ床しき述懐である。
『其後大学など読みならひたる頃、幾かへり教へられ侍りても得覚え侍らずして、さては人々の褒めの〻しりけるは諂らひ阿ねるにこそ、実はいと不才にして不記憶なりけりと、九つの頃ふと覚りぬ、之を思へば幼き時褒めの〻しるはいと悪しきことなるべし、十余りの頃より名を代々に高くし、日本唐土へも名声を鳴らさんと図りけるも、大志のやうなれども最と愚かなることにぞ侍りける。』
是に依つて見ると、十歳位の時から海外にまで聞える程の人物になりたいと思はれた、
実に非凡なことである、併し御自身では、それは大志のやうではあつたけれども、烏滸の次第であつたと謙遜して居られるのである。
『其頃より大字など多く写して人の需めに応じたりけり、皆々請需めしも諂ひの種に生ひ出でしことなれば、其需めに応じて書きける心いと浅かりけり。』
私共も時々字などを書かせられるが、或は楽翁公が茲に言はれたやうなことがあるかも知れない。
『十余り二つの頃、著述を好みて通俗の書など集め、大学の条下にある事々を書集めて人の教戒の便りにせまほしく思立ちて書きけれども、古きことも覚え侍らぬ上、通俗の書は偽り多しと聞きければ止めたり。』
もう十一二歳の頃から著述をして人の教にならうと思ふことを書き始められたのである
が、併し古いことは知らず、また通俗の書を参考にする、事実を失うて居ることがあるから、読者を誤らしめてはならぬと思返して止められたのである。
『今思へば真西山の大学術義の旨趣に類したる大旨なれば、蒐め侍らざりしぞ幸ひとも云ふべきにぞ、此頃より歌も詠みたれど、皆腰折の類にて覚えもし侍らず、又頼よる人もなければ、自からよみて反古にのみしたり、鈴鹿山の花の頃、旅人の行きかふ様画きたるを見て、
鈴鹿山旅路の宿は遠けれど振捨てがたき花の木の下
と詠みたるも、十余り一つの頃にありけん。』
十一歳の時に既に斯ういふ歌を詠まれたのは、文芸上に於ても天才であつたやうに思はれます。
『十余り二つの時、自教鑑と云ふ書を書きたり、大塚氏に添削を請ひたれば、其うちの書にしては見よきなり、今もあり、清書の頃、明和は七つとあれども五年の頃より作りたり、父上悦び給ひて史記を賜ふ、今も蔵書になしぬ、十余り一つ二つの頃より詩を作りけれど、平仄も揃ひかねて人にも言ひ難きなり、
雨後の詩に
虹晴清夕気 雨歇散秋陰
流水琴声響 遠山黛色深
又七夕の詩に
七夕雲霧散 織女渡銀河
秋風鵲橋上 今夜莫揚波
とよみたるも、多くの師の添削にあひたれば、斯かる言葉とはなりたりける。』
これで見ると楽翁公は性来非常に多能で、少年の時分から余程優れた御人のやうである、自教鑑といふは公の蔵書中に出て居るが、自分の身を修めるといふことを自ら戒めた書で、余り長篇ではないやうに記憶して居る、私も昔これを読んだことを覚えて居る[、]楽翁公は又甚だやさしい性質の御方であつたが、併し老中田沼玄蕃頭の政治をひどく憂へて、迚も是では徳川家は立行くことは出来ぬといふ位に憤慨して、是非この悪政を除くには田沼を殺す外はないから、身を捨て〻田沼を刺さうといふことを覚悟したと云ふことが、此書の中にも書いてある、元来至つて温和な思慮深い御人であつたが、或点には余程精神の鋭い所のあつた方のやうである、尚ほ続いて読んで行くと、癇癖の強い所があつて、それを侍臣が厳しく諫めたことが書いてある。
『明和八年予は十余り四ツになれり〔中畧〕予此頃より短気にして、僅かのことにも怒りふづくみ、或は人を𠮟怒し、又は肩はり筋いだして理をいひなんどしたり、みな〳〵なげかしとのみいひたり、大塚孝綽ことによくいさめたり、水野為長常にいさめて日々のよしあしをいひたり、聞けばいと感じけれど、ふづくみの情に堪がたきに至る、床に索道のかきし太公望の釣する画をかけて、怒の情おこれば独りそれに打向ひて、其情をしづめけれども堪かねたり、ひと日全く怒の情なくくらしたく思ひしかど、終に其頃はなかりき、此くても十八歳の頃より洗ひそ〻ぎしやうになりたるこそ稀有なれ、全く左右の直言ありし故なるべし。』
是に依りて見ると、此御方は天才を有つて居られて、而して或点には余程感情の強い性質を有つて居られたが、これと同時に大層精神修養に力を尽され、而して遂に楽翁公
の楽翁公たる人格を築き上げられたものと見えるのである。
人は万物の霊長であるといふことは、人皆自ら信じて居る所である、同じく霊長であるならば、人々相互の間に於ける何等の差異なかるべき筈なるに、世間多数の人を見れば、上を見るも方図がなく、下を見るも際限なしと云うて居る、現に我々の交際する人人は、上王公貴人より、下匹夫匹婦に至るまで、其の差異も亦甚しいのである、一郷一村に見るも、既に大分の差があり、一県一州に見れば、其の差は更に大きく、之を一国に見れば益々懸隔して、殆んど底止する所なきに至るのである。人既に其の智愚尊卑に於て斯様に差等を有するとすれば、其の価値を定むるも亦容易のことでは無い、況ん
や之に明確なる標準を附するに於てをやである、併し人は動物中の霊長として之を認むるならば、其間には自ら優劣のあるべき筈である、殊に人は棺を蓋うて後、論定まるといふ古言より見れば、何所かに標準を定め得る点があると思はれる。
人を見て万人一様なりとするには一理ある、万人皆相同じからずとするのも亦論拠がある、随つて人の真価を定むるにも、此の両者の論理を研究して適当の判断を下さねばならぬから、随分困難のことではあるが、其の標準を立つる前に、如何なる者を人といふか、先づ其れを定めてか〻らねばなるまいと思ふ、併しこれが中々の困難事で、人と禽獣とは何所が違ふかと言ふやうな問題も、昔は簡単に説明されたであらうが、学問の進歩に従つて、それすら益々複雑な説明を要するに至つたのである、昔欧州の或る国王が、人類天然の言語は如何なるものであるかを知りたいと思つて、二人の嬰児を一室に
収容し、人間の言語を少しも聞かせないやうにして、何等の教育も与へずに置き、成長の後、連れ出して見たが、二人とも少しも人間らしい言語を発することが出来ず、唯獣のやうな不明瞭な音を発するのみであつたと言ふ、是は事実か否かは知らないが、人間と禽獣との相違は、極めて僅少に過ぎぬといふことは、此の一話によつても解かるのである、四肢五体具足して人間の形を成して居るからとて、我々は是を以て直ちに人なりと言ふことは出来ぬのである、人の禽獣に異なる所は、徳を修め、智を啓き、世に有益なる貢献を為し得るに至つて、初めて其れが真人と認めらる〻のである、一言にして之を覆へば、万物の霊長たる能力ある者に就てのみ、初めて人たるの真価ありと言ひたいのである、従つて人の真価を極むる標準も、此の意味に就て論ぜんとするのである。
古来歴史中の人々、何者か能く人として価値ある生活をなしたであらう、往昔支那の
周時代にあつては、文武両王並び起つて殷王の無道を誅し、天下を統一して専ら徳政を施かれた、而して後世文武両王を以て道徳高き聖主と称して居る、して見れば文武両王の如きは、功名も富貴も共に得られた人と謂ふべきである、然るに文王武王周公孔子と並び称せられて居る夫子は如何である、亦聖人として崇められ、孔夫子に対して四配と言へる顔回、曾子、子思、孟子の如きも、聖人に亜ぐものとして推称せられて居るに関はらず、是等の人々は終生道の為に天下に遊説して、其の一生を捧げたものである、けれども戦国の際、一小国家すら自ら有することは出来なかつた、されど徳に於ては文武に譲らずして、其名も亦高いものであつたが、富貴といふ方面から之を物質的に評するならば、実に雲泥霄壌の差ありて比較にならないのである、故に若し富を標準として人の真価を論ずれば、孔子は確に下級生である、併し孔子自身は果して左様に下級生と感
じたであらうか、文王、武王、周公、孔子皆其の分に満足して其の生を終つたとするならば、富を以て人の真価の標準とし、孔子を以て人間の下級生なりと為すのは、適当なる評価と言ひ得るであらうか、是を以て人を評価するの困難を知るべきである、善く其人の以てする所を視、其の由る所を観て、而して後その人の行為が世道人心に如何なる効果ありしかを察せざれば、之を評定することは出来ぬと思ふ。
我国の歴史上の人物に就て見るも、また其の感なき能はざるものがある、藤原時平と菅原道真、楠正成と足利尊氏、何れを高価に評定し、何れを低価とすべきか、時平も尊氏も共に富に於ては成功者であつた、併し今日から見れば、時平の名は道真の誠忠を顕わす対象としてのみ評さる〻に過ぎない、之に反して道真の名は、児童走卒と雖も尚ほ能く之を記憶して居る、然らば就[孰]れを果して真価ある者と目すべきであらうか、尊氏
正成二氏に就て見るも同様である、蓋し人を評して優劣を論ずることは、世間の人の好む所であるが、能く其の真相を穿つの困難は是を以て知らる〻のであるから、人の真価といふものは容易に判定さるべきものでは無い、真に人を評論せんとならば、其の富貴功名に属する謂ゆる成敗を第二に置き、能く其人の世に尽したる精神と効果とに由つてすべきものである。
元気とは如何なるものかと云ふに、之を形に現はして説くことは甚だ難かしい、漢学から説けば、孟子の言ふ浩然之気に当るだらうと思ふ、世間ではよく青年の元気と言ふけれども、青年にばかり元気があつて、老人には無くて宜いといふのでない、元気は押
並べて、更に一歩進んでは男女共になければならぬと考へる、大隈侯の如き私よりは二つもお上であるけれども、其の元気は非常なるものである、孟子の浩然之気につきては、孟子が『其為気也、至大至剛、以直養而無害、則塞于天地之間』と、斯う言つて居る。此の『至大至剛、以直養』といふ言葉が甚だ面白い、世間では能く元気がないとか、元気を出したとか云ふ、ことに依ると、大分酩酊して途中を大声でも出して来ると、彼は元気が宜いと云ひ、黙つて居ると元気が悪いと云ふが、併し「ポリス」に捕つて恐れ入るといふやうな元気は、決して誇るべき者で無い、人と争つて自分が間違つて居つても強情を張り通す、是が元気が宜いと思つたら大間違である、それは即ち元気を誤解したのである、また気位が高いといふことも元気であらう、福沢先生の頻りに唱へて居つた独立自尊、此の自尊なども或る場合には元気とも言へやう、自ら助け、自ら守り、自ら治
め、自ら活きる、是等と同様な自尊なれば宜い、併し自治だの自活だのは、相当な働があるから宜いが、自尊といふことは誤解すると倨傲になる、或は不都合になる、総て悪徳になつて、一寸道を通りか〻つても、此方は自尊だから己は逃げないと云つて、自働車などに突当つては頓だ間違が起る、斯るものは元気ではなからうと思ふ、元気といふものは然ういふもので無い、即ち孟子の謂ゆる至大至剛、至つて大きく至つて強いもの、而して『以直養』、道理正しき即ち至誠を以て養つて、それが何時までも継続する、唯ちよつと一時酒飲み元気で、昨日あつたけれども、今日は疲れて仕舞つたと言ふ、そんな元気では駄目である、直しきを以て養つて餒うる所がなければ、『則塞于天地之間』是こそ本統の元気であると思ふ。
此の元気を完全に養ふたならば、今の学生が軟弱だ、淫靡だ、優柔だと言はれるやう
な謗りは、決して受ける気遣はなからうと思ふ、併し今日の儘では、多少悪くすると元気を損ずる場合がないとは言はれぬ、老人とても猶ほ然りであるが、特に最も任務の重い現在の青年は、此の元気を完全に蓄はへることを呉々も努めなくてはならぬ、程伊川の言葉であつたと思ふが、『哲人見機誠之思、志士厲行致之為』との句がある、或は文字が間違つてるかも知れぬが、これは私の注意した言葉で、今も感心するが、彼の明治時代の先輩は『哲人見機誠之思』といふことをした人である、大正時代の青年は何うしても『志士厲行致之為』といふ方であつて、総て巧みに之を纏むる時代であると思ふ、故に青年は十分元気旺盛にして、聖代に報答するの心掛が緊要であると思ふ。
井上侯が総大将を承つて采配を揮り、私や陸奥宗光、芳川顕正、それから明治五年に英国へ公債募集のため洋行するやうになつた、吉田清成なぞが専ら財政改革を行ふに腐心最中の明治四年頃のことであるが、或日の夕方、当時私の住居した神田猿楽町の茅屋へ、西郷公が突然と私を訪ねて来られた、その頃西郷さんは参議といふもので、廟堂では此上もない顕官である、私の如き官の低い大蔵大丞ぐらゐの小身者を訪問せられるなど、既に非凡の人でなければ出来ぬことで、誠に恐れ入つたものであるが、その用談向は、相馬藩の興国安民法に就て〻゙ あつた。
この興国安民法と申すは、二宮尊徳先生が相馬藩に聘せられた時に案出して遺され、それが相馬藩繁昌の基になつたといふ、財政やら産業やらに就ての方策である、井上侯始め私等が、財政改革を行ふに当り、この二宮先生の遺された興国安民法をも廃止しや
うとの議があつた。
是を聴きつけた相馬藩では、藩の消長に関する由々しき一大事だといふので、富田久助、志賀直道の両人を態々上京せしめ、両人は西郷参議に面接し、如何に財政改革を行はれるに当つても、同藩の興国安民法ばかりは御廃止にならぬやうにと、倶に頼み込んだものである、西郷は其の頼みを容れられたのだが、大久保さんや大隈さんに話した所で取上げられさうにもなく、井上侯なんか話でもしたら、井上侯はあの通りの方ゆゑ、到底受付けて呉れさうに思はれず、頭からガミ〳〵跳付けられるに極つてるので、私を説きさへすれば或は廃止にならぬやうに運ぶだらうとでも思はれたものか、富田志賀の両氏に対する一諾を重んじ、態々一小官たるに過ぎぬ私を茅屋に訪ねて来られたのであつた。
西郷公は私に向はれ、斯く〳〵爾か〴〵の次第故、折角の良法を廃絶さしてしまふのも惜いから、渋沢の取計ひで此の法の立ち行くやう、相馬藩の為に尽力して呉れぬか、と言はれたので、私は西郷公に向ひ『そんなら貴公は二宮の興国安民法とは何んなものか御承知であるか』と御訊すると、ソレハ一向に承知せぬとのこと、如何なものかも知らずに之を廃絶せしめぬやうとの御依頼は、甚だ以て腑に落ちぬわけであるが、御存知なしとあらば致し方が無い、私から御説明申し上げやうと、その頃既に私は興国安民法に就て充分取調べてあつたので、詳しく申し述べることにした。
二宮先生は相馬藩に招聘せらる〻や、先づ同藩の過去百八十年間に於ける詳細の歳入統計を作成し、この百八十年を六十宛に分けて天地人の三才とし、その中位の地に当る六十年間の平均歳入を同藩の平年歳入と見做し、更に又この百八十年を九十年宛に分け
て乾坤の二つとし、収入の少い方に当る坤の九十年間の平均歳入額を標準にして藩の歳出額を決定し、之により一切の藩費を支弁し、若し其年の歳入が幸にも坤の平均歳入予算以上の自然増収となり、剰余額を生じたる場合には、之を以て荒蕪地を開墾し、開墾して新に得たる新田畝は開墾の当事者に与へることにする法を定められたのである、之が相馬藩の謂ゆる興国安民法なるものであつた。
西郷公は私が斯く詳細に二宮先生の興国安民法に就て説明する所を聞かれて、『そんならそれは量入以為出の道にも適ひ誠に結構なことであるから、廃止せぬやうにしても可いでは無いか』とのことであつた。依て私は此所で平素自分の抱持する財政意見を言つて置くべき好機会だと思つたので、『如何にも仰せの通りである、二宮先生の遺された興国安民法を廃止せず、之を引続き実行すれば、それで相馬一藩は必ず立ち行くべく、
今後ともに益〻繁昌するのであらうが、国家の為に興国安民法を講ずるが相馬藩に於ける興国安民法の存廃を念とするよりも、更に一層の急務である。西郷参議に於かせられては、相馬一藩の興国安民法は大事であるによつて是非廃絶させぬやうにしたいが、国家の興国安民法は之を講ぜずに其儘に致し置いても差支無いとの御所存であるか、承りたい、苟も一国を双肩に荷はれて国政料理の大任に当らる〻参議の御身を以て、国家の小局部なる相馬一藩の興国安民法の為には御奔走あらせらる〻が、一国の興国安民法を如何にすべきかに就ての御賢慮なきは、近頃以て其意を得ぬ次第、本末顛倒の甚しきものであると、切論いたすと、西郷公は之に対し、別に何とも言はれず、黙々として茅屋を辞し還られてしまつた、兎に角、維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして、毫も虚飾の無かつた人物は西郷公で、実に敬仰に堪へぬ次第である。
修養は何所まで行らねばならぬかと云ふに、之は際限がないのである、けれども空理空論に走ることは最も注意せねばならぬ、修養は何も理論ではないので、実際に行ふべきことであるから、何所までも実際と密接の関係を保つて進まねばならぬ。
偖この実際と学理の調和といふことは、特に述べて置かねばならぬのである、要するに、理論と実際、学問と事業とが互に並行して発達せないと、国家が真に興隆せぬのである、如何程一方が発達しても、他の一方が之に伴はなければ、其国は世界の列強間に伍することは出来ぬと思はれる、事実ばかりで満足とは云はれず、又学理のみでは立つことが出来ないので、此の両者がよく調和し密着する時が、即ち国にすれば文明富強と
なり、人にすれば完全なる人格ある者となるのである。
右に対する例証は沢山にあるが、之を漢学に求めて見れば、孔孟の儒教は支那に於ては最も尊重されて、之を経学または実学と云つて、彼の詩人又は文章家が弄ぶ文学とは全く別物視してある、而して其れを最も能く研究し発達せしめたのが彼の支那宋末の朱子である、蓋し朱子は非常に博学で、且つ熱心に此学を説いたのである、所が、朱子の時分の支那の国運は如何であつたかと云ふに、丁度その頃は宋朝の末で、政事も頽廃し、兵力も微弱にして、少しも実学の効は無かつたのである、即ち学問は非常に発達しても、政務は非常に混乱した、詰り学問と実際とが全く隔絶して居たのである、つまり本家本元の経学が宋朝に至りて大に振興したにも係はらず、之を採つて実際に用ゐなかつたのである。
然るに日本に於ては其の空理空文の死学であつた宋朝の儒教を利用した為め、却つて実学の効験を発揮したのである、之を善く用ゐたのは徳川家康である、元亀天正の頃は日本を廿八天下と称して、国内麻の如くに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽して居つたのである、その中にて家康は大に達観して、到底武のみを以て治国平天下の策とすべきで無いといふことを悟り、大に心を文事に注いで、支那に於ては死学空文であつた朱子の儒学を採つたのである、当初先づ藤原惺窩を聘し、次で林羅山を用ゐて、切りに学問を実際に応用した、即ち理論と実際とを調和し接近せしめたのである、現に家康が遺訓の一として今日まで人口に膾炙する『人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、急ぐべからず、不自由を常と思へば不足なく、心に望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思へ、勝つ事ばかり知りてまくる事を知らざれ
ば、害その身に至る、おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるにまされり』に就て考へて見るに、皆経学中に求めたものである、多くは論語中の警句中より成立して居る、当時殺伐の人心を慰安して、よく三百年の太平を致した所以のものは、蓋し学問の活用、即ち実際と理論とを調和して、極めて密接ならしめたるに由ること〻思ふのである、而かも家康が此くまで朱子の儒学を採つて之を実際に応用したけれども、元禄享保の頃となつては、次第に種々の学派を生じ、空理を弄ぶやうになつて来て、有名なる儒者は多かつたけれども、之を実際と密着せしめたものは甚だ稀で、僅かに熊沢蕃山、野中兼山、新井白石、貝原益軒の数人に過ぎない、徳川の末の微々として振はなくなつて来たのも、矢張り此の調和を失した結果であらうと思ふのである。
以上は往時の事例であるが、今日でも両者の調和不調和が其の事物の盛衰を示して居
ることは、諸君のよく知られる所と思ふ、世界の二三等国に就て見ると明かである、又一等国中にも、現に両者が其の並行を失はんとしつ〻ある国もあるやうに思はれる。
翻つて帝国は如何と言へば、未だ決して十分なる調和を得て居るといふことは出来ない、のみならず、動ともすれば離隔せんとする傾向さへ見える、之を思へば実に国家の将来が案じられるのである。
故に修養を主とする者は、大に爰に鑑みる所があつて、決して奇矯に趨らず、中庸を失せず、常に穏健なる志操を保持して進まれんことを衷心より希望して止まぬのである、換言すれば、今日の修養は、力行勤勉を主として智徳の完全を得るのにある、即ち精神的方面に力を注ぐと共に、智識の発達に勉めねばならぬ、而して修養が、単に自分一個の為のみではなく、一邑一郷、大にしては国運の興隆に貢献するのでなければならぬ。
総じて世の中のことは心の儘にならぬが多い、独り形の上に表はれて居る事物ばかりでなく、心に属することも間々さういふことがある、例へば、一度斯うと心の中に堅く決心したことでも、何か不図したことから俄に変ずる、人から勧められて遂に其の気になると云つたやうな事もあるが、それが必ずしも悪意の誘惑でないまでも、心の遷転から起ることで、斯の如きは意志の弱いのであると謂はねばなるまい、自ら決心して動かぬと覚悟して居ながら、人の言葉によりて変ずるが如きは、固より意志の鍛錬の出来て居るものではない、兎角平生の心掛が大切である、平素その意中に『斯うせよ』とか『斯うせねばならぬ』とか、事物に対する心掛が的確に決つて居るならば、如何に他人が巧
妙に言葉を操つても、浮とそれに乗せられるやうなことはない訳だ、故に何人も問題の起らぬ時に於て其の心掛を錬つて置き、而して事に会し物に触れた時、それを順序よく進めるが肝要である。
然るに兎角人心は変態を生じ勝ちのもので、常時は『斯くあるべし』『斯くすべし』と堅く決心して居た者も、急転して知らず〳〵に自ら自己の本心を誘惑し、平素の心事と全く別処にこれを誘ふやうな結果を齎らすが如きは、常時に於ける精神修養に欠くる所があり、意志の鍛錬が足らぬより生ずることである、斯の如きは随分修養も積み鍛錬を経た者でも惑はされることのないとは言はれぬものだから、況んや社会的経験の少い青年時代などには、いやが上に注意を怠つてはならぬ、若し平生自己の主義主張として居たことが、事に当つて変化せねばならぬやうなことがあるならば、宜しく再三再四熟
慮するが宜い、事を急激に決せず、慎重の態度を以て能く思ひ深く考へるならば、自ら心眼の開くものもありて、遂に自己本心の住家に立ち帰ることが出来る、此の自省熟考を怠るのは、意志の鍛錬に取つて最も大敵であることを忘れてはならぬ。
以上は自己が意志の鍛錬に関する理論でもあり、又しかく感じた所であるが、序を以て余が実験談を此所に附加して置きたい、余は明治六年思ふ所ありて官を辞して以来、商工業といふものが自己の天職である、若し如何やうの変転が起つて来ても、政治界には断じて再び携はらぬと決心した、元来政治と実業とは互に交渉錯綜せるものであるから、達識非凡の人であつたら、此の二途に立つて其の中間を巧妙に歩めば頗る面白いのであるが、余の如き凡人が左様の仕方に出るときは、或はその歩を誤つて失敗に終ることがないとも限らない、故に余は初めから自己の力量の及ばぬ所として政治界を断念し
専ら実業界に身を投じようと覚悟した訳であつた、而して当時余が此の決心を断行するに方つても、自己の考案に待つ所の多かつたことは勿論のことで、時には知己朋友よりの助言勧告も或る程度まではこれを斥け、断々乎として一意実業界に向つて猛進を企てた、しかるに最初の決心が其れほど雄々しいものであつたにも拘はらず、さて実地に進行して見ると中々思惑通りには行かないもので、爾来四十余年間、屡〻初一念を動されようとしては危く踏み止り、漸くにして今日あるを得た訳である、今から回顧すれば最初の決心当時に想像したよりも、此間の苦心と変化とは遥かに多かつたと思はれる。
若し余の意志が薄弱であつて、夫等幾多の変化や誘惑に遭遇した場合に浮々と一歩を蹈み誤つたならば、今日或は取返しのつかぬ結果に到着して居たかも知れぬ、例へば、過去四十年間に起つた小変動の中、其の東すべきを西するやうな事があつたならば、事
件の大小は別として、初一念は此所に挫折する事になる、仮りに一つでも挫折されて方向が錯綜することになれば、最早自己の決心は傷けられた事になるので、それから先は五十歩百歩、もう何をしても構ふものかと云ふ気になるのが人情だから、止め度がなくなつて仕舞ふ、彼の大堤も蟻穴より崩る〻の喩の如く、左様なつては右に行くものも中途から引返して左へ行くやうなことになり、遂には一生を破壊了はねばならぬ、しかるに余は幸にも左様な場合に処する毎に熟慮考察し、危く心が動きかけたことがあつても、中途から取返して本心に立ち戻つたので、四十余年間先づ無事に過して来ることを得た、これに由つてこれを観るに、意志の鍛錬の六ケ敷きことは今更驚嘆の外はないが、併し夫等の経験から修得した教訓の価値も、また決して少いものでは無いと思ふ、而して得た所の教訓を約言すれば、大略次の如きものがある、即ち一些事の微に至るま
でもこれを閑却するは宜しくない、自己の意志に反することなら事の細大を問ふまでもなく、断然之を跳付けて了はねば可かない、最初は些細の事と侮つてやつた事が、遂には其れが原因となつて総崩れとなるやうな結果を生み出すものであるから、何事に対しても能く考へて行らねばならぬ。
乃木大将の殉死に就て世間の論ずる所を観るに、或説の如きは、殉死に就ては多少非難なきに非ざれど、乃木大将にして始めて可なり、他人之に倣ふべきに非ずと論ずるもあり、又は絶対に感歎すべき武士的行為にして、実に世の中を聳動せしめたる天晴の最期とて、限りなき崇敬の心を以て論評するもありて、殆んど当時の新聞雑誌が其事に就
て塡められた程であるから、大将の行為は現社会に大なる影響を与へたと言ひ得るだらうと思ふ。
私の観る所も略ぼ後者と同様なれども、乃木大将が末期に於ける教訓が尊いといふよりは、寧ろ生前の行為こそ真に崇敬すべきものありと思ふ、換言すれば、大正元年九月十三日までの乃木大将の行為が純潔で優秀であるから、其の一死が青天の霹靂の如く世間に厳しい感想を与へたのである、大将の殉死が如何なる動機から起つたに致せ、唯その一死だけが斯の如く世間に劇しい影響を与へたのでは無からう、故に私は前に述べた点に就て少しく意見を敷衍して見ようと思ふ、但し私は乃木大将とは親しみが厚くなかつたから、其の性行を審かに知らぬけれども、殉死後各方面の評論から観察すると、実に忠誠無二の人である、廉潔の人である、其の一心は唯奉公の念に満たされた人であ
る、而して事に処して常に精神を是に集注して苟くもせぬ人であるといふことは、総ての行為に於て察知し得らる〻のである。
殊に軍務的行動に就ては、何物をも犠牲にして君の為め国の為めに尽すといふ精神に富まれたことは、現に二人の令息が日露戦役にて前後討死された時にも、将軍は君国の為に堅忍其の情を撓めて、涙一滴も人に見せなかつた一事に徴しても明かである。
全体将軍は青年の頃より、軍人としては事毎に長上の命令に服従して、水火の中をも辞せぬといふ堅実なる服従気性を持つて居られたと同時に、事の是非善悪に就ての議論には、些かも権勢に屈せぬといふ凜乎たる意考を持つて居られたやうに見受けられる、それかあらぬか、或る場合に先輩の意見に忤つて休職になつた抔といふことは、蓋し其の鞏固の意志に原因せしものと想像される、左らば至つて褊狭な過激な唯感情的の人か
と思ふと、其間に靄然たる君子の風ありて、或は諧謔を以て、或は温乎たる言動を以て、人を懐けられ、自己が率ゐた兵隊抔に対しても其れこそ心から其人の痛苦を恕察し、又その戦死に就ては、故郷の父母妻子に対して深く哀情を添へて居られた、昔時軍人の美談として世に伝へられて居る呉起が、其の部下の兵士の創の膿を吸うて癒してやつた時に、其の武士は大に喜びて、この創が癒えたらば将軍の為に戦場で命を棄てねばならぬと云つて感じた、すると其母の言ふには、人情左もあるべき事であるが、汝の兄も其通りにして終に討死したとて歎いたといふ話がある、呉起が兵士の膿を吸ふたのは衷心から出たのか、或は一の術数でありはせぬかと、其の母は疑うて歎いたのではあるまいかと思ふ、然るに乃木将軍に至つては、全く天真爛漫たる衷情から兵士を犒らはれたのである、単に軍隊に居られる時のみ然るに非ずして、学習院に院長として居られた時にも、
掬するばかりの情愛が総ての方面に現はれて居る、左らば其の平生は如何にやといふと、独り武ばかりを誇りとする人に非ずして、文雅にも富まれて居る、如何に忠誠の人でも唯武骨一片で、花を見ても面白くない月を見ても感じないといふ人は困る、『強いばかりが武夫か』といふことは物の本にもあり、彼の薩摩守忠度が、討死の際に和歌の詠艸を懐中せられたとか、或は八幡太郎義家が、勿来関の詠歌の如き一の美談としてある、昔時の武士が武勇と文雅とを兼ね備へたのは、実に奥床しい感がする、然るに乃木将軍は詩歌の道にも長けて、而かも高尚な意味を平易の言葉で述べることが誠に巧みであつた、彼の二百三高地に於ける絶句の如き、或は又故郷に帰つて故老に会ふのが心苦しいといふ詩の如き、又は辞世の歌の如き、孰れも真情流露、少しも巧みを弄せず極く滑かに詠まれて居る。
斯の如く奉公の念に強い所から、不幸にも先帝の崩御に際して、最早此世に生き甲斐がないと思はれたのであらう、固より将来の軍事に就ても、学習院の事務に就ても、また当時英吉利の皇族に対する接伴のことも、種々関心の事はありしならむも、併し軽重之に代へ難いといふ所から、忍び難きを忍びて殉死と決して、さてこそ其事が発露したればこそ、将軍の心事が世間に顕はれて、実に世界を聳動したのである、故に私は思ふ、唯その一命を棄てたのが偉いのでは無くして、六十余歳までの総ての行動、総ての思想が偉かつたといふことを頌讃せねば為らぬ。
兎角世の中の青年は、人の結末だけを見て之を欽羨し、其の結末を得る原因が何れほどであつたかと云ふことに見到らぬ弊が多くてならぬ、或人は栄達したとか、或人は富を得たとか云つて羨望するけれども、其の栄達若しくは其の富を得るまでの勤勉は容易
ならぬ、智識は勿論、力行とか忍耐とか、常人の及ばざる刻苦経営の結果であるに相違ない、其の智識其の力行、其の忍耐といふものに想ひ到らないで、只その結果だけを見て之を羨望するのは甚だ謂れないことである、乃木大将に対するも、唯その壮烈の一死のみを感歎して、其の人格と操行とに想到せぬのは、恰かも人の富貴栄達を見て、徒らに其の結果を羨望すると同様になりはせぬか、故に私は将軍に対して、殉死其物を軽視するといふ意味ではないけれども、斯の如く天下を感動せしめたる所以のものは、壮烈無比なる殉死にありと謂はんよりは、寧ろ将軍の平生の心事、平生の行状が之をして然らしめたものなりと解釈するのである。
東照公に驚くべきは、神道仏教儒教等に大層力を入れられたことである、之に向つて種々の調査をなされて、其の隆興を計つたことは容易でない、是れも歴史家に相当の批評もありませうが、私は特に文政を修められたについて深く敬服する、仏教には梵舜といふ人がありますが、之は余り立派な学者では無かつた為に、東照公も感心なさらぬで後に南光坊天海によつて仏教をお取調べになり、儒教では藤原惺窩を第一に聘し、尋いで其の弟子の林道春を御儒家として立派に其家を立てた、且つ此の儒教を尊んだことは頗る重かつたやうであつた、殊に東照公は論語中庸をよくお読みなすつたことは歴史に明記してありますからして、諸君も御記憶でありませうが、神君の遺訓と称して平仮名交りの文章がある、即ち『人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、急ぐべからず‥‥云々』私は斯様に能く覚えて居ります、此の遺訓は全く論語から出て居ります、東
照公が論語をよくお読みなすつた証拠であります、『士不可以不弘毅、任重而道遠、仁以為己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎。』これは曾子といふ人の語で、論語の泰伯篇にあります、『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し』と全く同意味であります、また末段の『及ばざるは過ぎたるよりまされり』は、孔子の言から出たのです、而して孔子は『過ぎたるは猶ほ及ばざるが如し』と言ふたを、公は『勝れり』と強くしたのです、是等の批評はこれだけで止めますが、兎に角この御遺訓が論語より出たといふことは、諸君にも明瞭にお解りでありませう、その他にも此の道徳については余程お心を用ゐられたものと見える、元亀天正の頃はあの通り乱世が打続いて、世の中に文学趣味などは殆んど無くなり、仁義道徳の何者か分らぬといふ時に、誰が申上げたともなく、夙く既に文学を盛にしなければならぬといふことに就て御心を労され、而かもそれが根
本的文学であつて、切に仁義道徳を重んずる主義を以て全然朱子学を用ゐられたやうに思ひます、爾来追々と経学にも各派が生じて参りましたが、林家では徹頭徹尾朱子学を主として居る、東照公の是等の御用意は如何なる御手際であるか、私は敬服に余りありといふ外ない、更に又注目すべきは仏教であります、仏教に就ても余程御注意が深く御穿鑿が届いたやうであります、初め三河の大樹寺に帰依して、大樹寺の僧侶と御親交があつたやうであります、而して大樹寺は浄土宗であります、尋いで芝の増上寺の住職をも召され、駿河にお移りになつてからは金地院の崇伝承兌抔を御用になり、後には東叡山を開いたる南光坊天海即ち慈眼大師号を受けた人である、此の天海は実に僧侶中の英雄である、英雄と言うては少し形容に過ぎるけれども、僧侶中の傑出した人であつた、殊に精力絶倫で、而かも百二十六まで生きたといふ人でありますから、大隈侯の予定よ
り一年余計に生存した、東照公は深く此天海に御帰依になつて、屡次その説をお聴きなされたやうに見受けられます、此頃も南光坊天海の伝記を調べつ〻居りますが、駿河に於て公は数次その法談をお聴きなされた、長い年月の間にはどれほどであつたか分明ならぬが、天海の伝記に書いてありました所では、或年の九十日の間に六七十回の法談があつたと云うてあります、縦ひ御隠居であつても、江戸から始終文書が往復する、京都からの往復も同様であらうから、中々閑散で能楽とか茶事三昧に日を暮されたのでは無からう、而して寸暇あれば其間に法談に御出座なすつたのであらうと思ひます、徳川実記には詳しく書いてありませぬが、南光坊天海が常に顧問となつて色々の御話を申上げたといふことである。
修養といふことに就て、私は或者より攻撃を受けたことがある。其説は大体二つの意味に分れて居たのである、其の一つは、修養は人の性の天真爛漫を傷けるから宜くないと言ふので、他の一つは、修養は人を卑屈にすると言ふのであつた、依つて是等の異見に対して答へて置いたことを左に述べて見ようと思ふのである。
先づ修養は、人の本然の性の発達を阻害するから宜くないといふは、修養と修飾とを取り違へて考へて居るものと思ふ、修養とは身を修め徳を養ふといふことにて、練習も研究も克己も忍耐も都て意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づくやうに力めるといふことで、それが為に人性の自然を矯めるといふことは無いのである、つま
り人は十分に修養したならば、一日々々と過を去り善に遷りて聖人に近づくのである、若しも修養した為に、天真爛漫を傷けると言ふならば、聖人君子は完全に発達した者でないといふことになる、又修養の為に偽君子となり、卑屈に陥るならば、其の修養は誤れる修養であつて、吾々の常に言ふ修養ではないと思ふ、人は天真爛漫が善いといふことは私も最も賛成する所であるが、人の七情即ち喜怒哀楽愛悪慾の発動が、いつ如何なる場合にも差支ないとは言はれぬ、聖人君子も発して節に中るのである、故に修養は人の心を卑屈にし天真を害するものと見るは大なる誤りであると断言するのである。
修養は人を卑屈にすると謂は、礼節敬虔などを無視するより来る妄説と思ふ、凡そ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らる〻ので、決して愚昧卑屈で其の域に達するものではない、大学の致知格物も、王陽明の致良知も、矢張り修養である、修養は土人形を
造るやうなものではない、反つて己の良知を増し、己れの霊光を発揚するのである、修養を積めば積むほど、其人は事に当り物に接して善悪が明瞭になつて来るから、取捨去就に際して惑はず、而かも其の裁決が流る〻如くなつて来るのである、故に修養が人を卑屈愚昧にすると言ふは大なる誤解で、極言すれば、修養は人の智を増すに於て必要だと云ふことになるのである、是を以て修養は智識を軽んぜよといふのではない、唯今日の教育は、余りに智を得るのみに趨つて、精神を練磨することに乏しいから、それを補ふための修養である、修養と修学を相容れぬ如くに思ふのは大なる誤りである。
蓋し修養といふことは広い意味であつて、精神も智識も身体も行状も向上するやうに練磨することで、青年も老人も等しく修めねばならぬ、斯くて息むことなければ、遂には聖人の域にも達することが出来るのである。
以上は私が二つの反対説即ち修養無用論者に対して反駁したる大要であるが、青年諸氏も亦この考で大に修養せられんことを切望するのである。
現代青年に取つて最も切実に必要を感じつつあるものは人格の修養である、維新以前までは、社会に道徳的の教育が比較的盛んな状態であつたが、西洋文化の輸入するに連れて思想界に少からざる変革を来し、今日の有様では殆ど道徳は混沌時代となつた、即ち儒教は古いとして退けられたから、現時の青年には之が十分咀嚼されて居らず、というて耶蘇教が一般の道徳律になつて居る訳では尚更なし、明治時代の新道徳が別に成立したのでもないから、思想界は全くの動揺期で、国民は孰れに帰嚮してよいか、殆んど
判断にさへ苦しんで居る位である、従つて一般青年の間に人格の修養といふことは幾ど閑却されて居るかの感なきを得ないが、これは実に憂ふべき趨向である、世界列強国が孰れも宗教を有して道徳律の樹立されて居るのに比し、独り我国のみが此の有様では、大国民として甚だ恥かしい次第ではないか、試みに社会の現象を見よ、人は往々にして利己主義の極端に馳せ、利の為には何事も忍んで為すの傾があり、今では国家を富強にせんとするよりも、寧ろ自己を富裕にせんとする方が主となつて居る、富むことも固より大切なことで、何も好んで簞食瓢飲陋巷に在つて其の楽を改めぬといふことを最上策とするには及ばない、孔子が『賢なる哉回や』と、顔淵の清貧に安んじて居るのを褒められた言葉は、要するに『不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し』といふ言葉の裏面を曰はれたまで〻、富は必ずしも悪いと貶めたものではない、併しながら唯一
身さへ富めば足るとして、更に国家社会を眼中に置かぬといふは慨すべき極である、説は富の講釈に入つたが、何にせよ社会人心の帰向が左様いふ風になつたのは、概して社会一般人士の間に人格の修養が欠けて居るからである、国民の帰依すべき道徳律が確立して居り、人はこれに信仰を持つて社会に立つといふ有様であるならば、人格は自ら養成されるから、社会は滔々として我利のみ是れ図るといふやうなことはない訳である、故に余は青年に向つて只管人格を修養せんことを勧める、青年たるものは真摯にして率直、しかも精気内に溢れ活力外に揚る底のもので、謂ゆる威武も屈する能はざる程の人格を養成し、他日自己を富裕にすると共に、国家の富強をも謀ることを努めねばならぬ、信仰の一定せられざる社会に処する青年は、危険が甚だしいだけに自己もそれだけに自重してやらねばならぬのである。
さて、人格の修養をする方法工夫は種々あらう、或は仏教に信仰を求めるも宜しからう、或は「クリスト」教に信念を得るも一方法であらうが、余は青年時代から儒道に志し、而して孔孟の教は余が一生を貫いての指導者であつた〻゙ けに、矢張り忠信孝悌の道を重んずることを以て大なる権威ある人格養成法だと信じて居る、これを要するに忠信孝悌の道を重んずるといふことは全く仁を為すの基で、処世上一日も欠くべからざる要件である、既に忠信孝悌の道に根本的修養を心掛けた以上は、更に進んで智能啓発の工夫をしなければならぬ、智能の啓発が不十分であると、兎角世に処して用を成すに方り完全なることは期し難い、従つて忠信孝悌の道を円満に成就するといふことも出来なくなつて来る、如何となれば、智能が完全なる発達を遂げて居ればこそ、物に応じ事に接して是非の判別が出来、利用厚生の道も立つので、茲に始めて根本的の道義観念と一致し、処世上何
等の誤謬も仕損じもなく、能く成功の人として終局を全うすることを得るからである、人生終局の目的たる成功に対しても、近時多種[多]様に之を論ずる人があつて、目的を達するに於ては手段を択ばずなぞと、成功といふ意義を誤解し、何をしても富を積み地位を得られさへすれば、其れが成功であると心得て居る者もあるが、余は其様な説に左袒することが出来ない、高尚なる人格を以て正義正道を行ひ、然る後に得た所の富、地位でなければ、完全な成功とは謂はれないのである。
明治三十六年桑港に於て学童問題といふものが突発した、それから後も次第に日米間の国交が薄くなるやうな傾向を生じたといふのは、日本人が薄くするのでは無くし
て、亜米利加の或る方面の人が、段々に日本を嫌ふといふ有様を生じた、偖さういふ有様を生ずると、恰かも明治三十五年に桑港の金門公園に於て見た所の『日本人泳ぐべからず』の事柄が段々盛んに進んで来るやうになつた、亜米利加に対して特殊の印象を有つてる私、殊に実業界の一人として、又日本全体の実業界に対して深く心神を労して居る身であるから、国交上に大なる憂を抱いた、其後桑港に居る日本人間に在米日本人会なるものを組織した、其の会長の手島謹爾[牛島謹爾]氏が、特に渡辺金蔵といふ人を日本に送られて、私に請求せらる〻には、「カリフオルニヤ」州に於て亜米利加人が兎角日本人を嫌ふといふ感情を改善せしむる為に、在米日本人会を企てたのである、就ては本国(日本)に於ても其の意味を理解して、大に賛同して呉れるやうにと云ふことであつた、私は其の企図の至極機宜に適するものと思つて、我々も充分に助力するから、在米諸君
も大に力めるやうにしたら宜からうと言つて、渡辺金蔵氏に私が明治三十五年に金門公園に於て感ぜしことを話して、会長たる手島[牛島]氏を初め、其他の会員にも能く注意して呉れといふことを伝言した、それが明治四十一年であつたと思ふ。
その歳の秋、亜米利加から太平洋沿岸の商業会議所の議員が、多数日本へ来遊することになつた、それは我が東京商業会議所及び各地の商業会議所が同じ位置なるを以て、太平洋沿岸の商業会議所の諸君に、団体を組んで日本に旅行して呉れといふ事を勧誘したに因るものであるが、一は日米両国間の国交親善に努むる為め、総ての誤解を除却したいといふ意味を以て成立つたものである、其時に日本に来遊せられたのは、桑港に於てはエフ、ダブリユー、ドールマン、「シヤトル」ではジエー、デイ、ローマン或は「ポートランド」のオー、エム、クラーク等の人々で、私は種々の会合に於て是等の諸君に会談し
て、日米の関係に就て従来の沿革を詳述し、諸君の力で誤解を解くやうにして戴きたいと希望し、また一方には日本から米国に移住してる人々に就ては、欧米の習慣に慣れぬ為に公徳が修まらぬとか、或は風采が鄙劣だとか、或は同化しないとか云ふやうな欠点があれば、其の欠点は相共に矯正して、勉めて直させるやうにして、米国人に嫌はれぬ所の人間たらしむることを心掛けるのが肝要である、今日の場合、人種とか宗教とかの相違から、日本人を嫌ふといふやうなことは、文明なる亜米利加人としてよもあるまいと思ふ、若し之れありとすれば、それは亜米利加人の誤謬である、のみならず、亜米利加の当初の趣意に悖る訳である、我が日本を世界に紹介して呉れたのは亜米利加である、日本は其れを徳として今日まで国交の親善を勉めて居るのに、其の亜米利加が人種的の僻見、宗教差異の偏頗心から、日本人を嫌つて差別的待遇をすると云ふのは、亜米
利加としてなすべきことで無い、果して然らば亜米利加は、初めは正義にして後には暴戻と曰はねばならぬ、といふことを懇々と述べたに付て、当時来遊せられた商業会議所の諸君も、誠に道理だと言うて深く喜んで呉れた。