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実業と云ふものは如何に考へて宜いものか、勿論世の中の商売、工業が利殖を図るものに相違ない、若し商工業にして物を増殖するの効能がなかつたならば、即ち商工業は無意味になる、商工業は何たる公益もないものになる、去りながら其の利殖を図るものも、若し悉く己れさへ利すれば、他はどうでも宜からうと云ふことを以て利殖を図つて行つたならば、其の事物は如何に相成るか、六ケ敷いことを云ふやうであるけれども、若し果して前陳の如き有様であつたならば、彼の孟子の言ふ、『何ぞ必ずしも利を曰はん、又仁義あるのみ』云々、『上下交々利を征りて国危し』云々、『苟くも義を後にして利を先にすることをせば、奪はずんば饜かず』となるのである、それ故に真正の利殖は仁義道徳に基かなければ、決して永続するものでないと私は考へる、此く言へば、兎角利殖を薄うして人慾を去るとか、普通外に立つと云ふやうな考へに悪くすると走るのである、其の思ひやりを強く、世の中の得を思ふことは宜しいが、己れ自身の利慾に依つて働くは俗である、仁義道徳に欠けると、世の中の仕事といふものは、段々衰微して仕舞ふのである。
学者めいたことを言ふやうであるが、支那の学問に、殊に千年ばかり昔になるが、宋時代の学者が最も今のやうな径路を経て居る、仁義道徳といふことを唱へるに付きては、斯かる順序から此く進歩するものであると云ふ考へを打棄て〻、総て空理空論に走るから、利慾を去つたら宜しいが、其の極其の人も衰へ、従つて国家も衰弱に陥つた、其の末は遂に元に攻められ、更に禍乱が続いて、とう〳〵元と云ふ夷に一統されて仕舞つたのは宋末の惨状である、唯兎角は空理空論なる仁義といふものは、国の元気を沮喪し、物の生産力を薄くし、遂に其の極国を滅亡する、故に仁義道徳も悪くすると、亡国になると云ふことを考へなければならぬ、左れば利殖を主義とするか、己れさへ利すれば宜しい、人は構はぬといふ方の主義に基いて遣つて行くか、今いふ隣国の或る一部分、元の当時の有様はそれである、人は構はぬ己れさへ宜ければ良い、国家は構はぬ、自己さへ宜ければ良い、其の極国家は如何なる権利を失ひ、如何なる名声を落すとも、個人の発達を考へて国家を顧みる人は、殆んど稀だといふ有様である、宋の時代には前述の道徳仁義に付て国を亡ぼしたし、今日は又利己主義に於て身を危うすると云はねばならぬのである、是は独り吾が隣国ばかりでない、他の国々も皆同一であつて、詰り利を図ると云ふこと〻、仁義道徳たる所の道理を重んずるといふ事は、並び立つて相異ならん程度に於て始めて国家は健全に発達し、個人は各〻其の宜しきを得て富んで行くと云ふものになるのである。
試みに例へば石油であるとか、若くは製粉であるとか、或は人造肥料であると云ふやうな業務に付て考へて見ても、若し利益を進めるといふ観念がなくて、成行き次第でどうでも宜いと云ふやうな風に遣つたならば、決して事業が発達するものでは無い、富の増進するものでないことは明かである、仮りに若し其の仕事が自己の利害に関係せず、人毎に儲かつても己れの仕合せにならぬ、損しても不仕合せにならぬと云ふことであつたならば、其の事業は完全に進まぬけれども、己れの仕事であれば、此の物を進めたい[、]此の仕事を発達せしむると云ふことは争ふべからざる事実である、去れば若しさういふ観念から他の事を凌いで、或は世の中の大勢を知らず、或は事情を察せずに、吾さへ善ければ宜いと云ふことであつたならば、如何になるか、必ず共に其の不幸を蒙つて、己れ一人を利さうと思つた、其の己れも亦不幸を蒙むるといふことになるのである、殊に極く昔の事物の進歩せぬ時代は、或は「マグレ」幸と云ふことがあつたけれども、世の進むに従つて総ての事物が、どうしても規則的にやつて行かなければならぬ時代に於て、己れ自身さへ都合が宜いと云ふならば、例へば鉄道の改札場を通らうと云ふに、狭い場所を己れさへ先へ通らうと皆思つたならば、誰も通ることが出来ぬ有様になつて、共に困難に陥る、近い例を云ふと、己れをのみと云ふ考へが、己れ自身の利をも進めることが出来ぬといふは、此の一事に徴しても分るだらうと思ふのである、是に於て私が常に希望する所は、物を進めたい増したいと云ふ慾望といふものは、常に人間の心に持たねばならぬ、而して其の慾望は道理に依つて活動するやうにしたい、此の道理といふのは仁義徳相並んで行く道理である、其の道理と慾望とは相密著して行かなければ、此の道理も前にいふ支那の衰微に陥つたやうな風に走らないとは云へない、又後にいふ慾望は如何に進んで行つても、道理に違背する以上は、何時までも奪はずんば饜かずといふ不幸を見るに至るであらうと思ふのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.139-144
出典:実業報知新聞五週年式塲に於て(『竜門雑誌』第306号(竜門社, 1913.11)p.19-23)
サイト掲載日:2024年11月01日