テキストで読む
余は動もすれば世人より誤解されて、渋沢は清濁併せ呑むの主義であるとか、正邪善悪の差別を構はぬ男であるとか評される、先頃も或者が来て真向から余に詰問し、『足下は日頃論語を以て処世上の根本主義とせられ、又論語主義を以て自ら行はれつ〻あるにも拘はらず、足下が世話される人の中には、全く足下の主義と反し、寧ろ非論語主義の者もあり、社会より指弾さる〻人物をも、足下は平然として之を近づけ、虚然として世評に関せざるが如き態度を取らる〻が、斯の如きは足下が高潔なる人格を傷くるものではあるまいか、其の真意が聞きたい』とのことであつた。
成るほど爾う言はれて見ると、此評も或は然らんと、自ら思ひ当ることがないでもない、併しながら余は別に自己の主義とする所があつて、凡そ世事に処するに方つては、一身を立つると同時に社会の事に勤め、能ふ限り善事を殖し、世の進歩を図りたいとの意念を抱持して居る、従つて単に自己の富とか、地位とか、子孫の繁栄とかいふものは第二に置き、専ら国家社会の為に尽さんことを主意とするものである、されば人の為に謀つて善を為すことに心掛け、即ち人の能を助けて、其れを適所に用ゐたいとの念慮が多いのである、此の心掛が抑も世人から誤解を招くに至つた所以ではあるまいか。
余が実業界の人となつて以来、接触する人も年々その数を増し、而して夫等の人々が余の行ふ所に見傚ひて、各々長ずる所に由りて事業を精励すれば、仮令其人自身は自己の利益のみを図るの目的に出るとしても、従事する業務が正しくありさへすれば、其の結果は国家社会の為になるから、余は常に之に同情し、其の目的を達しさせてやりたいと思うて居る、是は単に直接利益を計る商工業者に対しての場合のみならず、文筆に携はる人に対しても、矢張り同一主義の下に接して来た、例へば新聞雑誌等に従事して居る者が来て余に説を請ふ時にも、余が説を掲載して幾分なりとも其価値を高め得るものとすれば、自説は仮令価あるものでないと思うても、請ふ人の真実心より出たものならば之を斥けない、夫等の人々の希望を容れてやるのは、独り希望する人の為のみならず、社会の利益の一部分ともならうかと考へるので、非常に多忙の時間を割いて其の要求に応ずる次第である、自己の懐抱する主義が斯うであるから、面会を求めて来る人には必ず会うて談話する、知人と然らざるとの別なく、自分に差支なければ、必ず面会して先方の注意と希望を聞くことにして居る、それであるから来訪者の希望が道理に協つて居ること〻思ふ場合ならば、相手の何人たるを問はず、其人の希望を叶へてやる。
然るに余が此の門戸開放主義につけ込んで、非理を要求して来る人があつて困る、例へば、見ず知らずの人から生活上の経費を貸して呉れと申込まれたり、或は親が身代不如意のため、自分は中途から学資を絶たれて困るから、今後何年間学資の補助を仰ぎたいとか、または斯く〳〵の新発明をしたから、此の事業を成立させるまで助勢を乞ふとか、甚しきに至つては、是れ〳〵の商売を始めたいから資本を入れて呉れとか、殆んど此種の手紙が月々何十通となく舞ひ込んで来る、余は其の表面に自己の宛名がある以上、必ず其れを読むの義務があると思ふので、左様いふ手紙の来る毎に、屹度目を通すことにして居る、又自ら余が家に来りて此種の希望を述べる者もあるので、余は夫等の人々にも面会するが、併し是等の希望や要求といふものには道理のないのが多いから、手紙の方は悉く自身では断り切れぬけれども、特に出向いて来た人に対しては、其の非理なる所以を説いて断るやうにして居る、余が此の行為を他人から見たならば、何もさういふ手紙を一々見たり、さういふ人に悉く会ふ必要はないと云ふであらう、けれども若し夫等に対して面会を謝絶したり、手紙を見なかつたりすることは、余が平素の主義に反する行為となる、それゆゑ自ら雑務が多くなつて、寸暇もなくなる故困るとは知りながらも、主義の為に余計な手数をもかける訳である。
而して夫等の人の言つて来た事柄でも、又は知己から頼まれたことでも、道理に協つて居ることであれば、余は其人のため、二つには国家社会の為に自力の及ぶ程度に於て力を仮してやる、つまり道理ある所には自ら進んで世話をしてやる気になるのであるが、爾ういふことも後日になつて見ると、あの人は善くなかつた、あの事柄は見違へたといふことが無いではない、併し悪人必ずしも悪に終るものでなく、善人必ずしも善を遂げるものとも限らぬから、悪人を悪人として憎まず、出来るものなら其人を善に導いてやりたいと考へ、最初より悪人たることを知りつ〻世話し[て]やることもある。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.105-110
出典:清濁併せ呑まざるの弁(『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.118-125)
サイト掲載日:2024年11月01日