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◎東照公の修養

 東照公に驚くべきは、神道仏教儒教等に大層力を入れられたことである、之に向つて種々の調査をなされて、其の隆興を計つたことは容易でない、是れも歴史家に相当の批評もありませうが、私は特に文政を修められたについて深く敬服する、仏教には梵舜といふ人がありますが、之は余り立派な学者では無かつた為に、東照公も感心なさらぬで後に南光坊天海によつて仏教をお取調べになり、儒教では藤原惺窩を第一に聘し、尋いで其の弟子の林道春を御儒家として立派に其家を立てた、且つ此の儒教を尊んだことは頗る重かつたやうであつた、殊に東照公は論語中庸をよくお読みなすつたことは歴史に明記してありますからして、諸君も御記憶でありませうが、神君の遺訓と称して平仮名交りの文章がある、即ち『人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し、急ぐべからず‥‥云々』私は斯様に能く覚えて居ります、此の遺訓は全く論語から出て居ります、東照公が論語をよくお読みなすつた証拠であります、『士不可以不弘毅、任重而道遠、仁以為己任、不亦重乎、死而後已、不亦遠乎。』これは曾子といふ人の語で、論語の泰伯篇にあります、『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し』と全く同意味であります、また末段の『及ばざるは過ぎたるよりまされり』は、孔子の言から出たのです、而して孔子は『過ぎたるは猶ほ及ばざるが如し』と言ふたを、公は『勝れり』と強くしたのです、是等の批評はこれだけで止めますが、兎に角この御遺訓が論語より出たといふことは、諸君にも明瞭にお解りでありませう、その他にも此の道徳については余程お心を用ゐられたものと見える、元亀天正の頃はあの通り乱世が打続いて、世の中に文学趣味などは殆んど無くなり、仁義道徳の何者か分らぬといふ時に、誰が申上げたともなく、夙く既に文学を盛にしなければならぬといふことに就て御心を労され、而かもそれが根本的文学であつて、切に仁義道徳を重んずる主義を以て全然朱子学を用ゐられたやうに思ひます、爾来追々と経学にも各派が生じて参りましたが、林家では徹頭徹尾朱子学を主として居る、東照公の是等の御用意は如何なる御手際であるか、私は敬服に余りありといふ外ない、更に又注目すべきは仏教であります、仏教に就ても余程御注意が深く御穿鑿が届いたやうであります、初め三河の大樹寺に帰依して、大樹寺の僧侶と御親交があつたやうであります、而して大樹寺は浄土宗であります、尋いで芝の増上寺の住職をも召され、駿河にお移りになつてからは金地院の崇伝承兌抔を御用になり、後には東叡山を開いたる南光坊天海即ち慈眼大師号を受けた人である、此の天海は実に僧侶中の英雄である、英雄と言うては少し形容に過ぎるけれども、僧侶中の傑出した人であつた、殊に精力絶倫で、而かも百二十六まで生きたといふ人でありますから、大隈侯の予定より一年余計に生存した、東照公は深く此天海に御帰依になつて、屡次その説をお聴きなされたやうに見受けられます、此頃も南光坊天海の伝記を調べつ〻居りますが、駿河に於て公は数次その法談をお聴きなされた、長い年月の間にはどれほどであつたか分明ならぬが、天海の伝記に書いてありました所では、或年の九十日の間に六七十回の法談があつたと云うてあります、縦ひ御隠居であつても、江戸から始終文書が往復する、京都からの往復も同様であらうから、中々閑散で能楽とか茶事三昧に日を暮されたのでは無からう、而して寸暇あれば其間に法談に御出座なすつたのであらうと思ひます、徳川実記には詳しく書いてありませぬが、南光坊天海が常に顧問となつて色々の御話を申上げたといふことである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.265-269

出典:東照公と前将軍(『竜門雑誌』第333号(竜門社, 1916.02)p.21-42)

サイト掲載日:2024年11月01日