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文明と野蛮といふ文字は相対的で、如何なる現象を野蛮といひ、如何なる現象を文明といふか、其の限界は随分六ケ敷いけれども、要するに比較的のものであるから、或る文明は更に進んだ文明から見ると、矢張り野蛮たるを免れないと同時に、或る野蛮は其れより一層甚しい野蛮に対すると文明と言へる訳になるけれども、今日之を論ずるに当りては、唯一の空理にあらずして実現されて居る所のものを例とするより外はない、但し一郷、一都市に就ても文化の程度を異にするけれども、先づ一国を標準とするのが文明野蛮といふ文字に相応しいと思ふ、私は世界各国の歴史、若くは現状を詳細に調べて居らぬから、細密なるお話は出来ぬけれども、英吉利とか仏蘭西とか独逸とか亜米利加とかいふ国々は、今日世界の文明国と云うて差支ないであらう、其の文明なるものは何であるかと云ふに、国体が明確になつて居て、制度が儼然と定つて、而して其の一国を成すに必要なる総ての設備が整うて、勿論諸法律も完備し、教育制度も行き届いて居る。
斯の如く百揆皆整うて居るからと云うて、未だ文明国とは言へない、其の設備の整うて居る上に、一国を十分に維持し活動すべき実力がなくてはならぬ、此の実力といふことに就ては兵力にも論及せねばならぬが、警察の制度も、地方自治の団体も、皆その力の一部分である、斯の如きものが十分に具備して居る上に、彼此おの〳〵克く其の権衡を得て相調和し相聯絡して、一方に重きを措き過ぎるとか、若くは統一を欠くとかいふことの無いのが即ち文明と言ひ得るだらう、換言すれば、一国の設備が如何に能く整うて居ても、之を処理する人の智識能力が其れに伴はなければ、真正なる文明国とは謂はれない、但し前に述べたる如き、完全なる設備の整うて居る国で、之を運用する人は不完全であるといふことは、先づ少い道理であるが、或る場合には表面の体裁は完全に見ゆるが、根本が堅実でない場合もあり得ることで、謂ゆる優孟の衣冠で、立派な着物も其の人柄に似合はぬといふやうな事がないとは言はれぬ、故に真正の文明といふことは総ての制度文物の具備と、其れから一般国民の人格と智能とによりて始めて言ひ得るだらうと思ふ、斯く観察すれは[ば]、最早貧富といふことは論ぜぬでも、文明といふ中には自ら富の力が加はつて居ると見て宜しいけれども、形式と実力とは必ずしも一致するものに非ずして、形式が文明であつても実力は貧弱、是は甚だ不権衡の言ではあるけれども、必ず無いとは言はれない、故に曰く、真正の文明は強力と富実とを兼ね備ふるものでなければならぬ。
さて一国の進歩は孰れに傾くかといふに、古来各国の実例を観るに、多く文化の進歩が先にして、実力が後より追随するやうに思はれる、殊に国によりては兵力が先づ前駆して、富力といふものは殊更に遅れ馳せになるといふことは、多く見る例である、我が帝国の現状も矢張りさういふ有様と謂わねばなるまいかと思ふ、其の国体が万国に冠絶して、而して百般の施設も、維新以後輔弼の賢臣が打寄つて漸次に建設せられたのであるから、洵に申分はないと思つて居る、只それに伴ふ富実の力が同じく完備して居るかといふと、悲いかな歳月尚ほ浅しと言はねばならぬ、富実の根本たるべき実業の養成は、短日月にして満足し得るものではない、為に前に申す国体とか制度とかいふものが完備せるに比較すれば、富力は頗る欠如して居る、但し其の富を増殖することのみに国民挙つて努力するならば、帝国小なりと雖も種々なる方法もあるだらう、けれども富むより先に使用せねばならぬといふ必要がある、文明の治具を張るために、富実の力を減損するは今日の大なる憂である、凡そ国を成すは唯富みさへすれば宜いといふ訳に行かぬ、文明の治具を張るために、富力の一部を犠牲に供するといふことは止むを得ぬであらう[、]換言すれば、一国の体面を保つ為め、一国の将来の繁盛を図る為め陸海軍の力を張らねばならぬ、内治にも外交にも、種々の国費を支出せねばならぬ、即ち一国の治具の為には、其の財源を多少減損するといふことは、勢ひ免れぬことであるけれども、其れが劇しく一方に偏すると、終に文明貧弱にならぬとは謂へぬ、若しも文明貧弱に陥つたら、百般の治具は皆虚形となり、遠からずして文明は野蛮と変化する、此く考へると、文明をして真の文明たらしむるには、其の内容をして富実、強力、此の二者の権衡を得せしめねばならぬ、我が帝国に於て今日最も患ふる所は、文明の治具を張るために、富実の根本を減損して顧みぬ弊である、これは上下一致、文武協力して其の権衡を失はぬやう勉励せねばならぬと思ふ。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.214-220
出典:文明と貧富(『竜門雑誌』第294号(竜門社, 1912.11)p.11-12)
サイト掲載日:2024年11月01日