曾て交換教授として米国より来朝せられたメービー博士が、任満ちて帰国せらる〻に際し、赤誠を傾けて私に語られた種々なる談話の中に、下の如き評語がある、即ちメービー氏の言ふには、私は初めて貴国に来たのであるから、総てのものが珍らしく感じた、如何にも新進の国と見受け得る所は、上級の人も下層の人も、総て勉強して居ると云ふことは、著しく眼に著く、惰けて居る者が甚だ少ない、而して其の勉強が、さも希望を持ちつ〻愉快に勉強するやうに見受けられる、希望を持つといふは、何所までも到達せ
しむるといふ敢為の気象が尽く備はつて居る、殆んど総ての人が喜びを以て、彼岸に達するといふ念慮を持つて居られるやうに見受けるのは、更に進むべき資質を持つた国民と申上げて宜からうと思ふ、それらは善い方を賞讃し上げるけれども、唯善いことのみを申して、悪い批評を言はねば、或は諛言を呈する嫌があるから、極く腹蔵のない所を無遠慮に申すとて、私の接触したのが、官辺とか会社とか又は学校などであつたから、余計にさういふ事が眼に着いたのかも知れぬけれども、兎角形式を重んずるといふ弊があつて、事実よりは形式に重きを置くと云ふことが強く見える、亜米利加は最も形式を構はぬ流儀であるから、其の眼から特に際立つて見えるのかも知れぬけれども、少しく形式に拘泥する弊害が強くなつて居りはせぬか、一体の国民性が其れであるとすれば、是は余程御注意せねばならぬこと〻思ふ、又何処の国でも、同じ説が一般に伝はるとい
ふ訳にはいかぬ、一人が右といへば一人は左といふ、進歩党があれば保守党がある、政党でも時として相反目する者が生ずるけれども、それが欧羅巴或は亜米利加であれば、余程淡泊で且つ高尚だ、然るに日本のは淡泊でもなければ高尚でもない、悪く申すと甚だ下品で且つ執拗である、何でもない事柄までも極く口穢く言ひ募るやうに見える、是は自分の見た時節の悪かつた為に、政治界に於て、殊にさういふ現象が見えたのでありませう、――而して彼は之を解釈して、日本は封建制度が長く継続して、小さい藩々まで相反目して、右が強くなれば左から打ち倒さうとする、左が盛になれば右が攻撃する、之が終に習慣性となつたであらうと、彼はさうまでは言ひませぬけれども、元亀天正以来の有様が遂に三百諸侯となつたのだから、相凌ぎ相悪むといふ弊が兎角に残つて居つて、温和の性質が乏しいのではないが、之が段々長じて行くと、勢ひ党派の軋轢が激し
くなりはしないかといふ意味であつた、――私も、此の封建制度の余弊といふことは或は然らんと思ふ、既に近い例が、水戸などが大人物の出た藩でありながら、却つて其の為に軋轢を生じて衰微した、若し藤田東湖、戸田銀次郎の如き、或は会沢恒蔵の如き、又其の藩主に烈公の如き偉人が無かつたならば、斯ばかり争もなく衰微もせなんだであらう、と論ぜねばならぬから、私はメービー氏の説に大に耳を傾けたのである。
それから又我が国民性の感情の強いといふことに付ても、余り讃辞を呈さなかつた、日本人は細事にも忽ちに激する、而して又直ちに忘れる、詰り感情が急激であつて、反対に又健忘性である、是は一等国だ大国民だと自慢なさる人柄としては、頗る不適当である、もう少し堪忍の心を持つやうに修養せねば可けますまい、と云ふ意味であつた。
更に畏れ多いことであるけれども、国体論にまで立入つて、彼は其の忠言を進めて、
実に日本は聞きしに勝つたる忠君の心の深きことは、亜米利加人などには迚も夢想も出来ない、実に羨ましいこと〻敬服する、斯る国は決して他に看ることは出来ぬであらう、予てさう思つては居たが、実地を目撃して真に感佩に堪へぬ、去りながら私として無遠慮に言はしむるならば、此の有様を永久に持続するには、将来君権をして成るべく民政に接触せしめぬやうにするのが肝要ではあるまいかと言はれた、是等は我々が其の当否を言ふべきことではない、併し此の抽象的の評言は、一概に斥くべきものでは無からうと思ふので、如何にも親切のお言葉は私だけに承つた、と斯う答へて置いた、此他にも尚ほ談話の廉々はあつたが、最終に其の滞在中の優遇を謝して、此の半年の間真率に自分の思ふことを述べて、各学校で学生若くは其他の人々に、親切にせられたことを深く喜ぶと言つて居られた。
亜米利加の学者の一人が、日本を斯く観察したからと言うて、それが大に我国を益するものでも無からうけれども、前にも申す如く、公平なる外国人の批評に鑑みて能くこれに注意し、謂ゆる大国民たる襟度を進めて行かねばならぬ、さう云ふ批評によりて段段に反省し、終に真正なる大国民となる、それと反対に困つた人民だ、斯る不都合がある、といふ批評が重なれば、人が交際せぬ相手にならぬと云ふことになるかも知れぬ、されば一人の評語がどうでも宜いと云うては居られぬ、恰も『君子の道は妄語せざるより始まる』と司馬温公が誡められた如くに、仮初にも無意識に妄語を発するやうになつたならば、君子として人に尊敬されるやうにならぬ、して見ると一回の行為が一生の毀誉をなすと同じやうに、一人の感想が一国の名声に関すると考へる、メービー氏が左様に感じて帰国したといふことは、些細なことであるけれども、やはり小事と見ぬ方が宜
からうと思ふのである。
是に付て考へて見ても、お互に平素飽くまで刻苦励精して、今日までに進んだ国運をして、どうぞ弥増に拡張させたいと思ふが、それに付て一言したいことは、近頃は青年青年と云つて、青年説が大変に多い、青年が大事だ、青年に注意しなければならぬと云ふは、私も同意するが、私は自分の位置から言ふと、青年も大事であるけれども、老年も亦大切であると思ふ、青年とばかり言うて、老人はどうでも宜いと言ふのは考へ違ではないか、曾て他の会合の時にも言つたが、自分は文明の老人たることを希望する、果して自分が文明の老人か野蛮の老人か、世評はどうであるか知らぬが、自分では文明の老人の積りであるが、諸君が見たら或は野蛮の老人かも知れぬ、併し能々考察すると、私の青年の時分に比較して見ると、青年の事務に就く年齢が頗る遅いと思ふ、例へば朝の
日の出方が余程遅くなつて居る、さうして早く老衰して引込むと、其の活動の時間が大層少くなつてしまふ、試みに一人の学生が三十歳まで学問のために時を費すならば、少くも七十位までは働かねばならぬ、若し五十や五十五で老衰するとすれば、僅に二十年か二十五年しか働く時はない、但し非凡なる人は、百年の仕事を十年の間に為るかも知れぬが、多数の人に望むには、さういふ例外を以てする訳にはいかない、況んや社会の事物が益々複雑して来る場合に於てをや、但し各種の学芸技術が追々進化して来るから、幸に博士方の新発明で、年取つても一向に衰弱せぬとか、或は若い間にも満足なる智恵を持つといふやうな馬車より自働車、自働車より飛行機で世界を狭くするやうに、人間の活動を今日よりも大に強めて、生れ児が直ちに用立つ人となつて、さうして死ぬまで活動するといふ工夫が付けば、是は何よりである、どうぞ田中館先生などに其の御発
明を願ひたいものである、其れまでの間は年寄がやはり十分に働くことを心懸ける外なからうと思ふのである、而して文明の老人たるには、身体は縦ひ衰弱するとしても、精神が衰弱せぬやうにしたい、精神を衰弱せぬやうにするは学問に依る外はない、常に学問を進めて時代に後れぬ人であつたならば、私は何時までも精神に老衰といふことは無からうと思ふ、是の故に私は単に肉塊の存在たるは人として甚だ嫌ふので、身体の世に在る限りは、どうぞ精神をも存在せしめたいと思ふのである。
徳川時代の末路でも、因襲の然らしむる所、一般の商工業者に対する教育と武士教育とは全く区別されて居つたのである、而して武士は皆修身斉家を本として、唯自己一身
を修めるのみでは無く、他をも治めるといふ主義で、凡て経世済民を主眼として居つた、農工の教育は、他人を治め国家を如何するかといふやうな考を持たせる教育ではなく、至つて卑近な教育であつた、当時の人は武士的教育を受ける人は洵に少いので、総て教育は謂ゆる寺子屋式のもので、寺の和尚さんか、又は富豪の老人などが教育して呉れたものである、農工商は殆んど国内だけのもので、海外などには毫も関係がなかつたものであるから、農工商の人には低級な教育で足りたのである、而して主なる商品は幕府及び藩が運送、販売等の機軸を握つて居つたので、農工商民の関係する所は実に狭いものであつた、当時の謂ゆる平民は一種の道具であつた、甚しいのは武士は無礼打、切捨御免といふ惨酷な野蛮極まる行為を平気でやつて居つたものである。
此の有様が追々嘉永安政頃には、自然に一般の空気に変遷を起して、経世済民の学問
を受けた武士は、尊王攘夷を唱へて遂に維新の大改革を成したのである。
私は維新後、間もなく大蔵省の役人となつたが、此の当時は日本には物質的科学的教育は殆んど無いと云つても可い位であつた、武士的教育には種々高尚なものがあつたが、農工商には殆んど学問はなかつた、のみならず、普通の教育のことを論じても低級で、多くは政治教育といふ風で、海外交通が開けても、それに対する智識といふものが無かつたのである、如何に国を富まさうと思つても、それに対する智識などは更にない、一つ橋の高等商業学校は明治七年に出来たものであるが、幾度か廃校せられんとしたのである、これは乃ち当時の人が、商人などに高い智識などは要らないと思つて居つた為である、私などは海外に交通するには、何うしても科学的智識が必要であるといふことを、声を嗄らして叫んだが、幸にも追々その機運が起つて、明治十七八年には斯うした傾向
が盛んになつて、間もなく才学倶に備はつた人が輩出するに至つたのである、それから以後今日まで僅か三四十年の短い年月に、日本も外国には劣らないくらゐ物質的文明が進歩したが、その間にまた大なる弊害を生じたのである、徳川三百年間を太平ならしめた武断政治も、弊害を他に及ぼしたことは明かであるが、又この時代に教育された武士の中には、高尚遠大な性行の人も少くはなかつたのであるが、今日の人には其れがない、富は積み重なつても、哀しいかな武士道とか、或は仁義道徳といふものが、地を払つて居るといつて可いと思ふ、即ち精神教育が全く衰へて来ると思ふのである。
我々も明治六年頃から物質的文明に微弱ながらも全力を注ぎ、今日では幸にも有力な実業家を全国到る処に見るやうになり、国の富も非常に増したけれども、爰[奚]んぞ知らん、人格は維新前よりは退歩したと思ふ、否、退歩どころではない、消滅せぬかと心配して
居るのである、故に物質的文明が進んだ結果は、精神の進歩を害したと思ふのである。
私は常に精神の向上を富と共に進めることが必要であると信じて居る、人は此点から考へて強い信仰を持たねばならぬ、私は農家に生れたから教育も低くかつたが、幸にも漢学を修めることが出来たので、これより一種の信仰を得たのである、私は極楽も地獄も心に掛けない、た〻゙ 現在に於て正しいことを行つたならば、人として立派なものであると信じて居るのである。
維新といふことは、湯の盤の銘に曰ふ『苟に日に新なり、日に日に新にして、又日に新なり』といふ意味であるから、潑溂たる気力を発揮するときは、自然に生れたる新気
力を生じ、進鋭の活動が出来るのである、大正維新といふも畢竟この意味で、大に覚悟を定めて、上下一致の活動を現はしたいものであるが、一般が保守退嬰の風に傾いて居る際であるから、一層の奮励努力を要するので、是を明治維新の人物の活動に比較して大に猛省せねばならぬ、明治維新以来の事業中には、失敗に帰したものも有つたが、多数の事業は非常なる元気と精力とを以て、駸々として発展し来つたので、他に種々な原因があつたにしろ、元気と精力の偉大なるものである。
青年時代は血気時代であるから、其の血気を善用して後日の幸福の基となることであれば、飽くまで之を発揮して、兎角保守に流れ、因循に陥り易い老人をして、危険を感ぜしむる位に活動して貰ひたいのである、青年時代に正義の為め失敗を恐れて居るやうでは、到底見込のない者で、自分が正義と信ずる限りは、飽くまで進取的に剛健なる行
為を取つて貰ひたい、正義の観念を以て進み、岩をも徹す鉄石心を傾倒すれば、成らざる事なしといふ意気込で進まねばならぬ、この志さへあれば、如何なる困難をも突破し得るので、縦ひ失敗することがあつても、其れは自己の注意の足らぬので、衷心毫も疚しい所がなければ、却つて多大の教訓を与へられ、一層剛健なる志を養ひ、倍々自信を生じ、勇気を生じて猛進することが出来、次第に壮年に進むにつれて有為なる人物となり、個人としても将た国家の一柱石としても信頼し得る人物となるのである。
他日国家を双肩に荷うて立つべき青年に於ては、此際大に覚悟をなして、将来は日に月に激甚となるべき競争場裏に飛込まねばならず、今日の状態で経過すれば、国家の前途に対し、大に憂ふべき結果を生ぜぬとも限らぬのであることを思ひ、後来悔ゆるが如き愚をせぬやうに望むのである、明治維新の頃、万事創造の時代とも言ふべき不秩序を
極めた時よりは、今日の状態は著しく発達して其の面影を一変し、社会百般の秩序も整備し、学問も普及して、事を為すに便宜も多いのであるから、周到なる細心と大胆なる行動とを以て活力を発揮したならば、大事業を経営するに極めて愉快を感ずるであらう、只か〻る秩序立ち、一般に教育が普及した時代ゆゑ、普通より少しぐらゐ進歩し、僅かに卓越した意気込を以て事に当つては、とても大勢を動かすことは出来ない、多少教育の弊害も生じ易い事情もあるのであるから、大勇猛心を発揮して活気を縦横に溢れしめ、区々たる情弊を打破して、向上の道を猛進せねばならぬ。
乱世の豪傑が礼に嫻はず、兎角家道の斉はぬ例は、単に明治維新の際に於ける今日の
謂ゆる元老ばかりでは無い、何れの時代に於ても、乱世には皆爾うしたものである、私なぞも家道が斉つてると口はばつたく申上げて誇り得ぬ一人であるが、かの稀世の英雄豊太閤などが、矢張礼に嫻はず、家道の斉はなかつた随一人である、素より賞むべきではないが、乱世に生ひ立つたものには、どうも斯んな事も致し方のない次第で、余り酷には責むべきでも無からうと思ふ、然し豊太閤に若し最も大きな短所があつたとすれば、それは家道の斉はなかつた事と、機略があつても経略が無かつた事とである、若し夫れ豊太閤の長所はと云へば、申すまでもなく、その勉強、その勇気、その機智、その気槩である。
此く列挙した秀吉の長所の中でも、長所中の長所とも目すべきものは、その勉強である、私は秀吉の此の勉強に衷心より敬服し、青年子弟諸君にも、是非秀吉の此の勉強を
学んで貰ひたく思ふのである、事の成るは成るの日に成るに非ずして、その由来する所や必ず遠く、秀吉が稀世の英雄に仕上がつたのは、一にその勉強にある。
秀吉が木下藤吉と称して信長に仕へ、草履取をして居つた頃、冬になれば藤吉の持つてた草履は、常に之を懐中に入れて暖めて置いたので、何時でも温かつたといふが、斯んな細かな事にまで亘る注意は余程の勉強でないと、到底行届かぬものである、また信長が朝早く外出でもしやうとする時に、まだ供揃ひの衆が揃ふ時刻で無くつても、藤吉ばかりは何時でも信長の声に応じて御供をするのが例であつたと伝へられて居るが、これなぞも秀吉の非凡なる勉強家たりしを語るものである。
天正十年織田信長が明智光秀に弑せられた時に、秀吉は備中にあつて毛利輝元を攻めて居つたのであるが、変を聞くや直ちに毛利氏と和し、弓銃各五百、旗三十と一隊の騎
士とを輝元の手許より借り受け、兵を率ゐて中国より引返し、京都を去る僅に数里の山崎で光秀の軍と戦ひ、遂に之を破つて光秀を誅し、其首を本能寺に梟すまでに、秀吉の費した日数は、信長が本能寺に弑せられてより僅に十三日、只今の言葉で申せば二週間以内のことである、鉄道もなく車も無い、交通の不便この上なき其頃の世の中に、京都に事変のあつたのが、一旦中国に伝へられた上で和議を纒め、兵器から兵卒まで借入れて京都へ引返すまでに、事変後僅に二週間を出でなかつたと云ふのは、全く秀吉が尋常ならぬ勉強家であつた証拠である、勉強がなければ如何に機智があつても、如何に主君の仇を報ずる熱心があつても、斯くまで万事を手早く運んで行けるものでは無い、備中から摂津の尼ケ崎まで、昼夜兼行で進んで来たのであると云ふが、定めし爾うであつたらうと思ふ。
翌天正十一年が直ぐ賤ケ岳の戦争になつて、柴田勝家を滅ぼし、遂に天下を一統して、天正の十三年に秀吉も目出度関白の位を拝するやうになつたのであるが、秀吉が斯く天下を一統するまでに要した時間は、本能寺の変あつて以来、僅に満三年である、秀吉には素より天稟の勝れた他に異るところもあつたに相違ないが、秀吉の勉強が全く之を然らしめたものである。
是より先き、秀吉が信長に仕へてから間もなく、清洲の城壁を僅に二日間に修築して信長を驚かしたといふ事も伝へられて居るが、是れとても一概に稗史小説の無稽譚として観るべきでない、秀吉ほどの勉強を以てすれば、これぐらゐの事は必ず出来たと思ふ。
青年のうちには、大に仕事したいが頼みに行く人がないとか、援て呉れる人がないとか、見て呉れる人がないとか嘆つ者がある、なるほど如何なる俊傑でも、其の才気胆略を見出す先輩なり世間なりがなかつたら、其の手腕を施すによしないことだ、そこで有力な先輩に知己を持つとか、親類に有力な人があるとかいふ青年は、その器量を認められる機会が多いから、比較的僥倖かも知れぬけれども、其れは普通以下の人の話で、若しその人に手腕があり、優れたる頭脳があれば、仮令早くから有力な知己親類がなくても、世間が閑却しては居ない、由来現今の世の中には人が多い、官途にも会社にも乃至銀行にも、頗る人が余つてる位だ、併し先輩が是ならといふて安心して任せられる人物は少ない、だから何所でも優良なる人物なら幾らでも欲しがつて居る、此くお膳立をして待つてるのだが、之を食べるか否かは箸を取る人の如何にあるので、御馳走の献立を
した上に、それを養つてやるほど先輩や世の中といふものは暇でない、彼の木下藤吉郎は匹夫から起つて、関白といふ大きな御馳走を食べた、けれど彼は信長に養つて貰つたのでは無い、自分で箸を取つて食べたのである、何か一と仕事しやうとする者は、自分で箸を取らなければ駄目である。
誰が仕事を与へるにしても、経験のない若い人に、初めから重い仕事を授けるものでは無い、藤吉郎の大人物を以てしても、初めて信長に仕へた時は、草履取といふ詰らぬ仕事をさせられた、乃公は高等の教育を受けたのに、小僧同様に算盤を弾かせたり、帳面をつけさせたりするのは馬鹿々々しい、先輩なんていふものは人物経済を知らぬものだ抔と、不平をいふ人もあるが、是は頗る尤ものやうだが而かも尤もでない、成程一廉の人物に詰らぬ仕事をさせるのは、人物経済上から見て頗る不利益の話だが、先輩が此
の不利益を敢てする意思には、其所に大なる理由がある、決して馬鹿にした仕向けではない、その理由は暫らく先輩の意中に任せて、青年は唯その与へられた仕事を専念に行つて往かなければならぬ。
其の与へられた仕事に不平を鳴らして、往つて了ふ人は勿論駄目だが、つまらぬ仕事だと軽蔑して、力を入れぬ人も亦駄目だ、凡そどんな些細な仕事でも、其れは大きな仕事の一小部分で、是が満足に出来なければ、遂に結末がつかぬ事になる、時計の小さい針や、小さい輪が怠けて働かなかつたら、大きな針が止まらなければ為らぬやうに、何百万円の銀行でも、厘銭の計算が違ふと、其日の帳尻がつかぬものだ、若い中には気が大きくて、小さい事を見ると、何のこれしきなと軽蔑する癖があるが、それが其時限りで済むものならまだしも、後日の大問題を惹起することが無いとも限られぬ、よし後
日の大問題にならぬまでも、小事を粗末にするやうな粗大な人では、所詮大事を成功させることは出来ない、水戸の光圀公が壁書の中に『小なることは分別せよ、大なることは驚くべからず』と認めて置かれたが、独り商業といはず軍略といはず、何事にも此の考へでなくてはならぬ。
古語に『千里の道も跬歩よりす』と言つてある、仮令自分はモツと大きな事をする人間だと自信して居ても、其の大きな事は片々たる小さな事の集積したものであるから、何んな場合をも軽蔑することなく、勤勉に忠実に誠意を籠めて其の一事を完全に仕遂げやうと仕なければならぬ、秀吉が信長から重用された経験も正に是であつた、草履取の仕事を大切に勤め、一部の兵を托された時は一部将の任を完全にして居たから、其所に信長が感心して、遂に破格の抜擢を受け、柴田や丹羽と肩を並べる身分に成つたのであ
る、故に受附なり帳附なり、与へられた仕事に其時の全生命をかけて真面目にやり得ぬ者は、謂ゆる功名利達の運を開くことは出来ない。
生れながらの聖人なら知らぬこと、我々凡人は志を立てるに当つても、兎角迷ひ易いのが常である、或は眼前社会の風潮に動かされ、或は一時周囲の事情に制せられて、自分の本領でもない方面へ浮々と乗出す者が多いやうであるけれども、これでは真に志を立てた者とは謂はれない、殊に今日の如く世の中が秩序立つて来ては、一度立てた志を中途から他に転ずる抔のことがあつては非常の不利益が伴ふから、立志の当初最も慎重に意を用ふるの必要がある、其の工夫としては先づ自己の頭脳を冷静にし、然る後自
分の長所とするところ、短所とするところを精細に比較考察し、其の最も長ずる所に向うて志を定めるが可い、又それと同時に、自分の境遇が其の志を遂ぐることを許すや否やを深く考慮することも必要で、例へば、身体も強壮、頭脳も明晰であるから、学問で一生を送りたいとの志を立て〻も、これに資力が伴はなければ、思ふやうに遣り遂げることは困難であると云ふやうなこともあるから、是ならば孰れから見ても、一生を貫いて遣ることが出来るといふ確かな見込みの立つた所で、初めて其の方針を確定するが可い、然るに左程までの熟慮考察を経ずして、一寸した世間の景気に乗じ、浮と志を立て〻駈出すやうな者もよくあるけれども、これでは到底末の遂げられるものではないと思ふ。
既に根幹となるべき志が立つたならば、今度は其の枝葉となるべき小さな立志に就
て、日々工夫することが必要である、何人でも時々事物に接して起る希望があらうが、それに対し何うかして其の希望を遂げたいといふ観念を抱くのも一種の立志で、余が謂ゆる小さな立志とは即ちそれである、一例を挙げて説明すれば、某氏は或る行によつて世間から尊敬されるやうになつたが、自分もどうかしてあういふ風になりたいとの希望を起すが如き、是も亦一の小立志である、然らば此の小立志に対しては如何なる工夫を廻らすべきかと云ふに、先づ其の要件は、何所までも一生を通じての大なる立志に戻らぬ範囲に於て工夫することが肝要である、又小なる立志は其の性質上常に変動遷移するものであるから、此の変動や遷移に因つて大なる立志を動かすことのないやうにするだけの用意が必要である、詰り大なる立志と小さい立志と矛盾するやうなことがあつてはならぬ、此の両者は常に調和し一致するを要するものである。
以上述る所は主として立志の工夫であるが、古人は如何に立志をしたものであるか、参考として孔子の立志に就て研究して見よう。
自分が平素処世上の規矩として居る論語を通じて孔子の立志を窺ふに、『十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑はず、五十にして天命を知る云云』とある所より推測すれば、孔子は十五歳の時既に志を立てられたものと思はれる、併しながら其の『学に志す』と曰はれたのは、学問を以て一生を過す積りであるといふ志を固く定めたものか如何か、これは稍疑問とする所で、唯是から大に学問しなければならぬといふ位に考へたものではなからうか、更に進んで『三十にして立つ』と曰はれたのは、此時既に世に立つて行けるだけの人物となり、修身斉家治国平天下の技倆ありと自信する境地に達せられたのであらう、尚ほ『四十にして惑はず』とあるより想像すれば、
一度立てた志を持ちて世に処するに方り、外界の刺戟位では決して其の志は動かされぬといふ境域に入つて、何所までも自信ある行動が執れるやうになつたと謂ふのであらうから、茲に到つて立志が漸く実を結び、且つ固まつて仕舞つたと謂ふことが出来るだらう、して見れば孔子の立志は十五歳から三十歳の間にあつたやうに思はれる、学に志すと曰はれた頃は、未だ幾分志が動揺して居たらしいが、三十歳に至つて稍決心の程が見え、四十歳に及んで始めて立志が完成されたやうである。
是を要するに、立志は人生てふ建築の骨子で、小立志は其の修飾であるから、最初に夫等の組合せを確と考へてか〻らなければ、後日に至つて折角の建築が半途で毀れるやうなことにならぬとも限らぬ、斯の如く立志は人生に取つて大切の出発点であるから、何人も軽々に看過することは出来ぬのである、立志の要は能く己を知り、身の程を考へ
それに応じて適当なる方針を決定する以外にないのである、誰も能く其の程を計つて進むやうに心掛くるならば、人生の行路に於て間違の起る筈は万々ないこと〻信ずる。
私も絶対に争ひをせぬ人間であるかのやうに解せらる〻人も、世間に少なからぬやうに見受けるが、私は勿論、好んで他人と争ふことこそせざれ、全く争ひをせぬといふではない、苟くも正しい道を飽くまで進んで行かうとすれば、絶対に争ひを避けることは出来ぬものである、絶対に争ひを避けて世の中を渡らうとすれば、善が悪に勝たれるやうなことになり、正義が行はれぬやうになつて了ふ、私は不肖ながら、正しい道に立つて尚ほ悪と争はず、之に道を譲るほどに、謂ゆる円満な腑甲斐のない人間でない積りで
ある、人間には如何に円くとも、何所かに角が無ければならぬもので、古歌にもある如く、余り円いと却つて転び易いことになる。
私は世間で覧らる〻程に、決して謂ゆる円満の人間ではない、一見謂ゆる円満のやうでも、実際は何所かに謂ゆる円満でない所があらうと思ふ、若い時分には固より爾うであつたが、七十の坂を越した今日と雖も、私の信ずる所を動かし之を覆へさうとする者が現はるれば、私は断々乎として其人と争ふことを辞せぬのである、私が信じて自ら正しいとする所は、如何なる場合に於ても決して他に譲ることをせぬ、此所が私の謂ゆる円満でない所だと思ふ、人には老いたると若いとの別なく、誰にでも是れだけの不円満な所が是非あつて欲しいものである、然らざれば人の一生も全く生甲斐のない無意味なものになつて了ふ、如何に人の品性は円満に発達せねばならぬものであるからとて、余
りに円満になり過ぎると、過ぎたるは猶ほ及ばざるが如しと、論語の先進篇にも孔夫子が説かれて居る通りで、人として全く品位のないものになる。
私が絶対に謂ゆる円満な人間でない、相応に角もあり、円満ならざる甚だ不円満な所もある人物たることを証明するに足る……証明といふ語を用ゐるも少し異様だが……実際を一寸談して見やうかと思ふ、私は勿論、少壮の頃より腕力に訴へて他人と争ふ如きことをした覚えはない、併し若い時分には今日と違つて、容貌などにも余程強情らしい所もあつたもので、随つて他人の眼からは今日よりも容易に争ひをしさうに見えたものかも知れぬ、尤も私の争は、若い時分から、総て議論の上、権利の上での争ひで腕力に流れた経験は未だ曾て一度もない。
明治四年私が恰度三十三歳で大蔵省に奉職し、総務局長を勤めて居た頃であつたが、
大蔵省の出納制度に一大改革を施し改正法なるものを布いて、西洋式の簿記法を採用し伝票によつて金銭を出納することにした、所が、当時の出納局長であつた人が‥‥その姓名は且らく預り置くが‥‥この改正法に反対の意見を持つて居たのである、伝票制度の実施に当つて偶〻過失のあることを私が発見したので、当事者に対して之を責めてやると、元来私が発案実施した改正法に反対の意見を持つて居た出納局長といふ男が、傲岸な権幕で、一日私の執務して居た総務局長室に押しかけて来たのである。
その出納局長が怒気を含んだ権幕で私に詰め寄るのを見て、私は静に其男の曰はんとする所を聴きとる積りで居ると、その男は伝票制度の実施に当つて手違ひをしたこと抔に就ては、一言の謝罪もせず、切りに私が改正法を布いて欧洲式の簿記法を採用したことに就てのみ、彼是と不平を並べるのであつた、一体貴公が亜米利加に心酔して、一
から十まで彼国の真似ばかりしたがり、改正法なんかといふものを発案して簿記法によつて出納を行はせやうとするから、斯んな過失が出来るのである、責任は過失をした当事者よりも、改正法を発案した貴公の方にある、簿記法などを採用して呉れさへせねば、我儕も斯んな過失をして、貴公などに責付けられずに済んだのである、などと言語道断の暴言を恣にし、些かたりとも自分等の非を省みる様な模様がないので、私も其の非理屈には稍驚いたが尚ほ憤らず、出納の正確を期せんとするには、是非とも欧洲式簿記法により、伝票を使用する必要あることを諄々と説いて聞かせたのである、併しその出納局長なる男は、毫も私の言に耳を仮さぬのみか、二言三言言ひ争つた末、満面は恰かも朱を注げる如く紅くなつて、直ちに拳固を揮上げ、私を目蒐けて打つて掛つて来たのである。
その男は小背の私に比べれば、身長の高い方であつたが、怒気心頭に発し、足がふらついて居た上に余り強さうにも見えず、私は兎に角、青年時代に於て相当に武芸も仕込まれ身を鍛へて居つたことでもあるから、強ち膂力が無いといふ訳でもなかつた、苟めにも暴行に訴へて無礼をしたら、一ト捻りに捻つてやるのは何でもないことだとは思つたが、その男が椅子から立ち上つて、拳を握り腕をあげ、阿修羅の如くになつて猛けり狂ひ私に詰めかけて来るのを見るや、私も直ぐ椅子を離れてヒラリ身を換はし、全く神色自若として二三歩ばかり椅子を前に控へて後部に退き、その男が拳の持つて行き所に困り、マゴ〳〵して𨻶を生じたのを見て取るや、𨻶さず泰然たる態度で、『此所は御役所でござるぞ、何んと心得召さる、車夫馬丁の真似をすることは許しませんぞ、御慎みなさい』と一喝したものだから、その出納局長もハツト悪いことをした、田夫野人の真
似をしたといふことに気がついたものか、折角握り挙げた拳を引つ込めて、そのま〻スゴスゴと私の居つた総務局長室を出て行つて仕舞つたのである。
其後その男の進退に関し種々と申出る者もあり、又官庁内で上官に対し暴力を揮はんとしたは怪しからん抔と騒ぎ立てる者もあつたが、私は当人さへ非を覚り悔悟したなら、依然在職させて置く積りの所が、当の私より省中の者が憤慨して、右の事情を詳細太政官に内申に及んだので、太政官でも打放つて置く訳に行かず、その男を免職せらるるに至つたのは、私が今猶ほ甚だ気の毒に思ふのである。
学問と社会とは左程大なる相違のあるものではないが、学生時代の予想が余りに過大
であるから、面倒なる活社会の状態を実見して、意外の感を催すものである、今日の社会は昔とは異なりて、種々複雑となつて居るから、学問に於ても多くの科目に分れて政治、経済、法律、文学、又は農とか商とか工とかいふが如く区別され、而かも其の各分科の中に於ても、工科の中に電気、蒸気、造船、建築、採鉱、冶金などの各分科があり、比較的単純に見える文学でも、哲学とか歴史とか種々に分かれて、教育に従事するもの、小説を作るもの、各〻其の希望に従つて甚だ複雑多岐である、故に実際の社会に於て各自の活動する筋道も、学校に在りし時、机上に於て見た如く分明でないから、兎もすれば迷ひ易く誤り勝になる、学生は常に是等の点に注意して、大体に眼を著け大局を誤らずして、自己の立脚地を見定めねばならぬ、即ち自己の立場と他人の立場とを、相対的に見ることを忘れてはならぬ。
元来人情の通弊として、兎角に功を急ぎ大局を忘れて、勢ひ事物に拘泥し、僅かな成功に満足するかと思へば、左程でもない失敗に落胆する者が多い、学校卒業生が社会の実務を軽視し、実際上の問題を誤解するのも、多くは此の為である、是非とも此の誤れる考は改めねばならぬが、其の参考として学問と社会との関係を考察すべき例を挙げると、恰かも地図を見る時と実地を歩行する時との如きものである、地図を披いて眼を注げば、世界も只一目の下に在る、一国一郷は指顧の間にある如くに見える、参謀本部の製図は随分詳密なもので、小川小邱から土地の高低傾斜までも明かに分るやうに出来て居るが、其れでも実際と比較して見ると、予想外のことが多い、其れを深く考慮せず、充分に熟知した積りで、愈々実地に踏み出して見ると、茫漠として大に迷ふ、山は高く谷は深し、森林は連なり、河は広く流る〻といふ間に、道を尋ねて進むと、高岳に出会
ひ、何程登つても頂上に達し得ぬ、或は大河に遮られて途方に暮れることもあらうし、道路が迂回して容易に進まれぬこともある、或は深い谷に入つて何時出ることが出来るかと思ふこともある、到る処に困難なる場所を発見する、若し此際十分の信念がなく、大局を観るの明がないなら、失望落胆して勇気は出でず、自暴自棄に陥つて、野山の差別なく狂ひ廻る如き事となつて、遂には不幸なる終りを見るであらう。
此の一例は、学問と社会との関係の上に応用して考へて見ると、直ちに了解し得る事と思ふが、兎に角、社会の事物の複雑なることを、前以て充分に会得して、如何に用意して居ても、実際には意外なことが多いものであるから、学生は平常一層の注意を払つて研究して置かねばならぬのである。
活力旺盛となつて、心身潑溂となれば、自然に大活動を生ずる、大活動をなすに就て其の方法を誤れば、甚しい過失を生ずる人となる、そこで平生注意を払つて、如何に猛進すべきかを考へて置かねばならぬ、猛進する力が正義の観念を以て鼓舞されると、非常に勢を助長するものであるが、其の正義を断行する勇気は如何にして養ふかと言へば、平生より注意して、先づ肉体上の鍛錬をせねばならぬ、即ち武術の練磨、下腹部の鍛錬は自然身体を健康にすると共に、著しく精神を陶冶し、心身の一致したる行動に熟し、自信を生じ、自ら勇猛心を向上せしむるものである、下腹部の鍛錬は、今日腹式呼吸法とか、静座法とか、息心調和法とか称して盛んに流行して居るが、総て人の常として脳
へ充血し易く、自然神経過敏となつて、物事に動じ易くなるものであるが、下腹部に力を籠める習慣を生ずれば、心寛く体胖かなる人となりて、沈著の風を生じ、勇気ある人となるのである、故に古来の武術家の性格が一般に沈著にして、而かも敏活であるのは、武術の試合が下腹部を鍛錬するものであると共に、一方全力を傾倒して活動する習慣より、自在に一身を動かすやうに為つたからであると思ふ。
勇気の修養には肉体上の修養と共に、内省的の修養に注意せねばならぬ、読書の上に於て、古来勇者の言行に私淑して感化を受くるもよし、また長上の感化を受け、説話を聴いて、深く身に体し行ふ習慣を養成し、一歩々々剛健なる精神を向上せしめ、正義に関する趣味と自信とを養つて、欣び望んで義に進むまでに到れば、勇気は自ら生じて来るであらう、唯注意すべきことは、呉れ〴〵も青年時代の血気に逸り、前後の分別を
誤つて血気を悪用し、勇気を誤り用ゐて暴慢なる行動を執るやうなことがあつてはならぬ、品性の劣等なるものは勇気にあらずして、自然野卑狂暴となり、却つて社会に害毒を流し、遂には一身を滅亡するに到るものであるから、此点はよく〳〵注意し、平生の修養を怠つてはならぬ。
要するに、我国今日の状態は、姑息なる考を以て、従来の事業を謹直に継承して足れりとすべき時代ではない、尚だ創設の時代であつて、先進国の発展に企及し、更に凌駕せねばならぬのであるから、一般に一大覚悟を以て、万難を排し勇往猛進すべき時である、其れには不断心身の健全なる発達を促し、潑溂たる活動をなし得る活力を旺盛ならしむる心掛を忘れてはならぬ、青年に対して殊に此の点を望んで止まぬ次第である。
余は十七歳の時武士になりたいとの志を立てた、と言ふものは其頃の実業家は一途に百姓町人と卑下されて、世の中からは殆んど人間以下の取扱を受け、謂ゆる歯牙にも掛けられぬといふ有様であつた、而して家柄といふものが無闇に重んぜられ、武門に生れさへすれば智能のない人間でも、社会の上位を占めて恣に権勢を張ることが出来たのであるが、余は抑もこれが甚だ癪に障り、同く人間と生れ出た甲斐には、何が何でも武士にならなくては駄目であると考へた、其頃余は少しく漢学を修めて居たのであつたが、日本外史などを読むにつけ、政権が朝廷から武門に移つた径路を審かにするやうになつてからは、其所に慷慨の気といふやうな分子も生じて、百姓町人として終るの
が如何にも情なく感ぜられ、愈〻武士にならうといふ念を一層強めた、而して其の目的も武士になつて見たいといふ位の単純のものでは無かつた、武士となると同時に、当時の政体を何うにか動かすことは出来ないものであらうか、今日の言葉を借りて云へば、政治家として国政に参与して見たいといふ大望を抱いたのであつたが、抑もこれが郷里を離れて四方を流浪するといふ間違を仕出来した原因であつた、斯くて後年大蔵省に出仕するまでの十数年間といふものは、余が今日の位置から見れば、殆んど無意味に空費したやうなものであつたから、今この事を追憶するだに尚ほ痛恨に堪へぬ次第である。
自白すれば、余の志は青年期に於て屡次動いた、最後に実業界に身を立てやうと志したのが漸く明治四五年の頃のことで、今日より追想すれば此時が余に取つて真の立志であつたと思ふ、元来自己の性質才能から考へて見ても、政界に身を投じやう抔とは、
寧ろ短所に向つて突進するやうなものだと、此時漸く気がついたのであつたが、それと同時に感じたことは、欧米諸邦が当時の如き隆昌を致したのは、全く商工業の発達して居る所以である、日本も現状のま〻を維持するだけでは、何時の世か彼等と比肩し得るの時代が来やう、国家の為に商工業の発達を図りたい、といふ考が起つて、爰に始めて実業界の人とならうとの決心が着いたのであつた、而して此時の立志が後の四十余年を一貫して変ぜずに来たのであるから、余に取つての真の立志は此時であつたのだ。
蓋ふにそれ以前の立志は、自分の才能に不相応な、身の程を知らぬ立志であつたから、屡次変動を余儀なくされたに相違ない、それと同時に其後の立志が、四十余年を通じて不変のものであつた所から見れば、是れこそ真に自分の素質にも協ひ、才能にも応じた立志であつたことが窺ひ知られるのである、併しながら若し自分に己を知るの明があつ
て、十五六歳の頃から本当の志が立ち、初めから商工業に向つて行つて居たならば、後年実業界に蹈込んだ三十歳頃までには、十四五年の長日月があつたのであるから、その間には商工業に関する素養も十分に積むことが出来たに相違なからう、仮りに爾うであつたとすれば、或は実業界に於ける現在の渋沢以上の渋沢を見出されるやうになつたかも知れない、けれども惜いかな、青年時代の客気に誤られて、肝腎の修養期を全く方角違ひの仕事に徒費して了つた、これにつけても将に志を立てんとする青年は、宜しく前車の覆轍を以て後車の戒めとするが宜いと思ふ。