論語の為政篇中に、『孟武伯問孝、子曰、父母唯其疾之憂』、また『子游問孝、子曰、今之孝是謂能養、至於犬馬、皆能有養、不敬何以別乎』、尚ほ此外にもある如く、孔夫子は孝道の事に就て屡〻説かれて居る、併し親から子に対して孝を励めよと強ゆるのは、却つて子をして不孝の子たらしむるものである、私にも不肖の子女が数人あるが、それが果して将来如何なるものか、私には解らぬ、私とても子女等に対して、時折『父母は唯その疾を之れ憂ふ』といふやうな事を説き聞かせもする、それでも決して孝を要求し
孝を強ゆるやうな事は致さぬ事にして居る、親は自分の思ひ方一つで、子を孝行の子にしてもしまへるが、又不孝の子にもしてしまふものである、自分の思ふ通りにならぬ子を、総て不孝の子だと思は〻゙ 、それは大なる間違で、皆能く親を養ふといふだけならば、犬や馬の如き獣類と雖も、猶ほ且つ之を能くする、人の子としての孝道は、斯く簡単なるものであるまい、親の思ふ通りにならず、絶えず親の膝下に居て親を能く養ふやうなことをせぬ子だからとて、それは必ずしも不孝の子でない。
斯ることを述べると、如何にも私の自慢話のやうになつて恐縮であるが、実際の事ゆゑ、憚らずお話しする、確か私の二十三歳の時であつたらうと思ふが、父は私に向ひ『其許の十八歳頃からの様子を観て居ると、どうも其許は私と違つた所がある、読書をさしても能く読み、又何事にも悧発である、私の思ふ所から言へば、永遠までも其許を
手許に留め置いて、私の通りにしたいのであるが、それでは却つて其許を不孝の子にしてしまふから、私は今後其許を私の思ふ通りのものにせず、其許の思ふま〻に為せることにした』と申されたことがある、如何にも父の申された如く、その頃私は文字の力の上から云へば、不肖ながら或は既に父より上であつたかも知れぬ、また父とは多くの点に於て、不肖ながら優つた所もあつたらう、然るに父が無理に私を父の思ふ通りのものにしようとし、斯くするが孝の道であると、私に孝を強ゆるが如きことがあつたとしたら、私は或は却つて父に反抗したりなぞして、不孝の子になつてしまつたかも知れぬ、幸ひに斯ることにもならず、及ばぬうちにも不孝の子にならずに済んだのは、父が私に孝を強ひず、寛宏の精神を以て私に臨み、私の思ふま〻の志に向つて私を進ましめて下された賜物である、孝行は親がさして呉れて初めて子が出来るもので、子が孝をする
のでは無く、親が子に孝をさせるのである。
父が斯る思想を以て私に対して下された為め、自然その感化を受けたものか、私も私の子に対しては父と同じやうな態度を以て臨むことにして居る、私が此く申すと少し烏滸がましくはあるが、何れかと云へば、父よりも多少優れた所があつたので、父と全く行動を異にし、父と違つた所があつて、父の如くになり得なかつたのである、私の子女等は将来如何なるものか、素より神ならぬ私の断言し得る限りでないが、今の所では、兎に角、私と違つた所がある、この方は、私と父とが違つた違ひ方と反対で、何れかと申せば劣る方である、併し此く私と違ふのを責めて、私の思ふ通りになれよ、と子女等に強ひて試みたところで、それは斯く注文して強ひる私の方が無理である、私の通りになれよ、と私に強ひられても、私のやうになれぬ子女は、どうしても成れぬ筈のもので
ある、然るに猶ほ強ひて、子女等を総て私の思ふ通りにしやうとすれば、子女等は私の思ふ通りに成り得ぬだけのことで、不孝の子になつてしまはねばならぬ、私の思ふ通りにならぬからとて、子女等を不孝の子にして仕舞ふのは忍ぶべからざる事である。
故に私は子に孝を為せるのでは無い、親が孝を為せるやうにして遣るべきだと云ふ根本思想で子女等に臨み、子女等が総て私の思ふやうに為らぬからとて、之を不孝の子だとは思はぬことにして居る。
昔の青年と今の青年とは、昔の社会と今の社会と異なるが如くに異なつて居る、余が二十四五歳の頃、即ち明治維新前の青年と現代の青年とは、其の境遇、其の教育を全然
異にして居るが為めに、何れが優り何れが劣つて居るといふことは、一口には言ひ現はせない、而かも一部の人士は、昔の青年は意気もあり、抱負もありて、今の青年より遥かに偉かつた、今の青年は軽浮で元気がないと云ふが、一概にさうばかりも言へまいと思ふ、何となれば、昔の少数の偉い青年と現今の一般青年とを比較し来りて、彼れ是れ言ふことは少しく誤つて居る、今の青年の中にも偉い者もあれば、昔の青年にも偉くない者もあつた、維新前の士農工商の階級は極めて厳格であつた、武士の中にも上士と下士といふが如き階級があり、百姓町人の間にも、代々土地の素封家で庄屋を勤めて居るやうな家柄と、普通の百姓町人とは、自ら其の気風教育に異なる所があつた、斯の如き有様であつたから、昔の青年といつても、武士と上流の百姓町人と、一般の百姓町人とは、其の教育も異つて居たのである。
昔の武士及び上流の百姓町人は、其の青年時代に多く漢学教育を受けたもので、初めは小学とか孝経とか近思録とか、更に進んでは論語、大学、孟子等を修め、一方身体の鍛錬と共に武士的精神を鼓吹したものである、而して一般の町人百姓は如何なる教育を受けたかと云へば、極めて卑近な実語教とか庭訓往来とか又加減乗除の九々等を学んだに過ぎない、従つて高尚な漢学教育を受けた武士は、理想も高く見識もあつたものであるが、百姓町人は通俗な手習に過ぎなかつたので、概して無学者が多かつたのである、然るに今は四民平等となり、貴賤貧富の差別なく、悉く教育を受くること〻なり、乃ち岩崎三井の息子も九尺二間の長屋の息子も、皆同一の教育を受くるといふ有様であるから、其の多数の青年中の品性の劣等な、学問の出来ない青年のあるのは、蓋し止むを得ないことである、故に今の一般の青年と昔の少数なる武士階級の青年とを比較し
て彼れ是れと非難するは、当を得ないことである。
現今でも高等教育を受けた青年の中には、昔の青年に比較して毫も遜色のない者が幾らもある、昔は少数でも宜いから、偉い者を出すといふ天才教育であつたが、今は多数の者を平均して啓発するといふ常識的教育となつて居るのである、昔の青年は良師を撰ぶといふことに非常に苦心したもので、有名な熊沢蕃山の如きは中江藤樹の許へ行つて其の門人たらんことを請ひ願つたが許されず、三日間其の軒端を去らなかつたので、藤樹も其の熱誠に感じて、遂に門人にしたといふ程である、其他新井白石の木下順庵に於ける、林道春の藤原惺窩に於けるが如きは、皆その良師を択んで学を修め、徳を磨いたのである。
然るに現代青年の師弟関係は、全く乱れて仕舞つて、美はしい師弟の情誼に乏しいの
は寒心の至りである、今の青年は自分の師匠を尊敬して居らぬ、学校の生徒の如きは、其の教師を観ること、恰かも落語師か講談師かの如く、講義が下手だとか、解釈が拙劣であるとか、生徒として有るまじきことを口にして居る、これは一面より観れば、学科の制度が昔と異なり、多くの教師に接する為であらうが、総て今の師弟の関係は乱れて居る、同時に教師も亦その子弟を愛して居らぬといふ嫌ひもあるのである。
要するに、青年は良師に接して自己の品性を陶冶しなければならない、昔の学問と今の学問とを比較して見ると、昔は心の学問を専一にしたが、現今は智識を得ることにのみ力を注いで居る、昔は読む書籍その者が悉く精神修養を説いてゐるから、自然と之を実践するやうになつたのである、修身斉家と言ひ、治国平天下と言ひ、人道の大義を教へたも[の]である。
論語にも『其為人也孝弟、而好犯上者鮮矣、不好犯上、而好作乱者、未之有也』といひ、『事君能致其身』といひて、忠孝主義を述べ、且つ仁義礼智信の教訓を敷衍しては、また同情心、廉恥心を喚起させるやうにし、又礼節を重んずるやうにし、或は勤倹生活の貴ぶべきことを教へたものであるから、昔の青年は自然と身を修むると共に、常に天下国家の事を憂い、朴実にして廉恥を重んじ、信義を貴ぶといふ気風が盛であつた、之に反して、現今の教育は智育を重んずるの結果、既に小学校の時代から多くの学科を学び、更に中学大学に進んで益〻多くの智識を積むけれども、精神の修養を等閑に附して心の学問に力を尽さないから、青年の品性は大に憂ふべきものがある。
一体現代の青年は学問を修める目的を誤つて居る、論語にも『古之学者為己、今之学者為人』と云つて嘆じてあるが、移して以て今の時代に当て箝めることが出来る、今の
青年は唯学問の為に学問をして居るのである、初より確然たる目的なく漠然と学問する結果、実際社会に出てから、我は何の為に学びしやといふが如き疑惑に襲はれる青年が往々にしてある、学問すれば誰でも皆偉い者になれる、といふ一種の迷信の為に、自己の境遇生活状態をも顧みないで、分不相応の学問をする結果、後悔するが如きことがあるのである、故に一般の青年は、自己の資力に応じて小学校を卒業すると、それぞれの専門教育に投じて実際的技術を修むべきである、また高等の教育を受くる者も、尚だ中学時代に於て、将来は如何なる専門学科を修むべきかといふ、確然たる目的を定むることが必要である、浅薄なる虚栄心の為めに修学の法を誤らば、是れ実に青年の一身を誤るのみならず、国家元気の衰退を招く基となるのである。
婦人は彼の封建時代に於けるが如く、無教育にして寧ろ侮蔑的に取扱つて置けば宜しいであらうか、それとも相当な教育を施し、修身斉家の道を教へねばならぬであらうか[、]之は言はずとも知れ切つた問題で、教育は縦ひ女子だからとて、決して疎かにすることは出来ないのである、それに就て余は先づ婦人の天職たる子供の育成といふことに関して、少しく考慮して見る必要があらうと思ふ。
凡そ婦人と其の子供とは如何なる関係を持つて居るものであるかと云ふに、之を統計的に研究して見れば、善良なる婦人の腹から善良なる子供が多く生れ、優れた婦人の教育に因つて優秀な人材が出来るものである、その最も適切な例は彼の孟子の母の如き、
ワシントンの母の如き即ち其れであるが、我国に於ても楠正行の母、中江藤樹の母の如き、亦皆賢母として人に知らる〻ものであつた、近くは伊藤公、桂公の母堂の如きも賢母であつたと聞いて居る、兎に角優秀の人材は、其の家庭に於て賢明なる母親に撫育された例は非常に多い、偉人の生れ賢哲の世に出づるは婦徳に因る所が多いと云ふことは、独り余一家の言では無いのである、して見れば婦人を教育して其の智能を啓発し婦徳を養成せしむるは、独り教育された婦人一人の為のみならず、間接には善良なる国民を養成する素因となる訳であるから、女子教育は決して忽諸に附することが出来ないものであるといふことに成るのである、然り矣、女子教育の重んずべき所以は未だそれのみにては尽きない、余は更に女子教育の必要なる理由を次に述べて見やうと思ふ。
明治以前の日本の女子教育は、専ら其の教育を支那思想に取つたものであつた、然る
に支那の女子に対する思想は消極的方針で、女子は貞操なれ、従順なれ、緻密なれ、優美なれ、忍耐なれと教へたが、此く精神的に教育することに重きを置いたにも拘はらず、智慧とか学問とか学理とかいふ方面に向つての智識に就ては奨めも教へもしなかつた、幕府時代の日本の女子も主として此の思想の下に教育されたもので、貝原益軒の『女大学』は其の時代に於ける唯一最上の教科書であつた、乃ち智の方は一切閑却され、消極的に自己を慎むことばかり重きを置いたものである、而して左様いふ教育をされて来た婦人が今日の社会の大部分を占めて居る、明治時代になつてから女子教育も進歩したとはいへ、未だそれら教育を受けた婦人の勢力は微々たるもので、社会に於ける婦人の実体は『女大学』以上に出ることの出来ぬものと言ふも、敢て過言では無からうと思ふ、故に今日の社会に婦人教育が盛んであるとは謂つても、尚ほ未だ充分その効果を社会に
認識せしむるには至らぬ、謂は〻゙ 女子教育の過渡期であるから、その道に携はる者は其の可否を能く論断し講究しなくてはならぬでは無いか、況んや昔の『腹は借りもの』といふ様なことは口にすべからざる今日、又言うてはならぬ今日とすれば、女子は全く昔日の如く侮蔑視、嘲弄視することは出来ないこと〻考へられる。
婦人に対する態度を耶蘇教的に論じて云々することは姑く別とするも、人間の真正なる道義心に訴へて、女子を道具視して善いものであらうか、人類社会に於て男子が重んずべきものとすれば、女子も矢張社会を組織する上に其の一半を負うて立つ者だから、男子同様重んずべき者ではなからうか、既に支那の先哲も『男女室に居るは大倫なり』と云うてある、言ふ迄もなく女子も社会の一員、国家の一分子である、果して然らは[ば]女子に対する旧来の侮蔑的観念を除却し、女子も男子同様国民としての才能智徳を与へ、
倶に共に相助けて事を為さしめたならば、従来五千万の国民中二千五百万人しか用を為さなかつた者が、更に二千五百万人を活用せしめる事となるでは無いか、是れ大に婦人教育を興さねばならぬといふ根源論である。
師弟間の関係をして、情誼を厚くし、相親しむの念慮を強くあらせたいと思ふ、地方の学校に於ては何うか知らぬが、私が聞及ぶ東京の中辺の学校に於ては、頗る此の師弟の関係が薄い、殆んど師と弟子とが、悪い例を言はうならば、寄席に出る落語を聴きに往つた多数の聴衆の如く見受けられる、あの人の講義は面白くないとか、あの人は時間が長いとか、甚しきは悪い癖を見付けて、之を批評すると聞及ぶ、尤も昔とても師弟の
間の情愛が総て密だとは言へぬけれども、試みに孔子は三千の弟子があつた、是等が皆能く顔を知り、皆能く談話した人ではあるまい、併し其中で六芸に通ずるものが七十二人あつた、是等の人々は常に孔子と談話して居つたやうに見える、七十三人は全く孔子の人格に感化されたやうに見える、斯の如き師弟を例として論ずるも余り過当であらうが、また今日の支那を見ると、左まで模範ともされない、併し今日の支那が悪いからとて、孔子の徳が変遷する訳はない、支那が後に悪いからとて孔子を軽んぜぬでも宜い、支那が善いからとても桀紂を重んずる訳には往かない、故に孔子が主として子弟を導いた有様は、誠に師たり弟子たる間柄が極く善いと思ふ、斯の如き有様を今日求める訳には往かぬけれども、徳川時代に於ても師弟間の感化力は強かつた、其の情誼が切実であつたといふことは、試みに一例を言はんか、熊沢蕃山が中江藤樹に師事した有様などで
分かる、蕃山はあれ程気位の高い人であつて、謂ゆる威武に屈せず、富貴に蕩せずといふ、天下の諸侯を物の数ともせず、備前侯に仕へたが、師として敬せられたから、政を施した位の見識のあつた人だが、中江藤樹に向つては真に子供のやうになつて、三日忍んでさうして弟子たることを得た、其の師弟間の情愛の深かつたのは、蓋し中江藤樹の徳望が人を感化せしめたものと思ふ、又新井白石といふ人も剛情で、智畧といひ、才能といひ、また気象といひ、実に稀有の人である、それが終身木下順庵には服従して居たといふことである、近世佐藤一斎といふ人も、能く弟子を感化せしめた、また広瀬淡窓も同様である、私の知つてるのは漢学の先生だけだけれども、子[師]弟と云ふ関係が、昔風では一身を抽んでて親むといふのである、然るに今の子[師]弟の間は、殆んど寄席を聴きに往つた有様をなして居るといふことは、私は満足の風習でないと恐れて居る、畢竟これ
は師匠たる人が悪いと云はなければならぬ、徳望、才能、学問、人格がモウ一層進まなければ、其の子弟をして敬虔の念を起さしむることは出来ぬ、そこには師たる人に欠点があると謂はねばならぬ。
併し弟子の心得方も甚だ悪いと思ふ、一般の風習が、其の師に対して敬ふといふ念が少い、他の国々の有様はよく分かりませぬが、彼の英吉利などは如何も私は子弟の間の関係が、日本の今日のやうでは無いと思ふ、但し日本でも優れた教育に従事した人が、猶ほ今私が述べた有様とは言はぬ、或る方面には中江藤樹も、木下順庵もあらうけれども、甚だ鮮い、過渡時代のため、不幸にして俄出来の先生が沢山あるから、自ら斯る弊害を惹起したのだと弁解すれば、弁疏の言葉があるけれども、苟くも人に教授する以上は、其人自身が自ら省みて余程注意して貰ひたいものであると同時に、また一方より之
を十分敬ふといふ心を以て、師弟の間に情愛を以てしたいと思ふ、若し諸君の従事なさる学校の教員諸氏にも、生徒をして常に之に接触せしむるに、此く心掛けられたら、其の風儀を良くするといふことが、悉くは届かないまでも、悪いのを防ぐといふだけ位のことは、必ず為し得られるものであらうと、斯う思ふのである。
世間一体に、教育のやり方を見ると――私は殊に今の中等教育なるものが其弊が甚しいと思ふ――単に智識を授けるといふことにのみ重きを置き過ぎて居る、換言すれば、徳育の方面が欠けて居る、確かに欠乏して居る、又一方に学生の気風を見ると、昔の青年の気風と違つて、今一と呼吸といふ勇気と努力、それから自覚とが欠けて居る、此く
言へばとて、自分の如き昔者が決して自慢高慢をする訳ではないが、何しろ当時の教育は学課の科目が多い、あれもこれもといふ有様であるので、その多い科目の修得にのみ逐はれて、維れ日も足らずといふ風であつて見れば、従つて他を顧みる遑もない勘定で人格、常識等の修養に心を注ぐことの出来ぬのも自然の数で、返す〴〵も遺憾千万な訳である、現に処世の人となつてる人々は兎も角として、是から世間に出て大に奮励努力、国家の為に尽さうと思はれる方々は、此辺に能く々々心を用ゐて貰ひたい。
所で、自分に最も関係の深い実業方面の教育に就て見るに、その昔にありては、実業教育と名付くべき程のものはなかつたが、維新以後になつても、明治十四五年の頃までは、此の方面には些の進歩を見ることは出来なかつた、商業学校の如きも、其の発達は僅々この二十年程の間のことである。
一体文明の進歩といふことは政治、経済、軍事、商工業、学芸等が悉く進んで、其所に始めて見ることが出来るので、其中の何れか一が欠如しても、完全なる発達、文明の進歩のあるものではない、然るに日本では、其の文明の一大要素である商工業が、久しい間閑却して顧みられずにあつた、翻つて欧洲の諸列強に見るに、他の方面の事も勿論進歩して居るが、其中でも取りわけ進んで居るのが実業である、即ち商工業である[、]我国に於ても近来は実業教育に世人が注意するやうになつて、進歩発達はして来たが、さて惜いかな、其の教育の方法はと云ふと、前述の如く其他の教育の方法と同じく、せくが儘に、急ぐが儘に、理智の一方にのみ傾き、規律であるとか、人格であるとか、徳義であるとか云ふことは、毫も顧みられない、機運の趣く所、余儀ない次第と言は〻゙ 言へ実に嘆ずべきことである、是を軍人社会に見ると、其の教育法の然らしむる所か、或は
軍事といふ其職が、既に其の性質を養ふものか、其辺の所は解らぬが、一般的統一、規律、服務、命令等のことが、整然と厳格に行はれて居るやうであるのは、実に結構なことで、立派な人格な士を見受けるのも、非常に頼もしい次第である。
実業界に立つ者は、前述の諸性質を十分に備へた上に、尚ほ一つ尊ばなければならぬ一大事が残つて居る、それは自由といふことで、実業の方では、軍事上の事務のやうに、一々上官の命令を俟つてるやうでは、兎角好機を逸し易いので、何事も命令を受けてやると云ふ具合では、一寸発達といふことは六ケ敷いのである、その結果、唯智へ、智へと傾いて行つて唯もう己が利益々々とのみ逐うて孟子の謂ゆる『上下交も利を征りて饜かず、国危し』と云ふやうな状態に陥つてはと、是れのみ気遣はれるので、どうがなして斯ういふ事に立ち至らぬやうと、窃かに手近い実業教育に於ても、智育と徳育とを併
行せしめて行きたいものと、及ばずながらも、多年努めて居る次第である。
徳川幕府の中葉より行はれはじめ、神儒仏三道の精神を合せ平易なる言葉を用ゐ、極卑近にして而かも通俗な譬喩を挙げて、実践道徳の鼓吹に力めたものに『心学』といふものがある、八代将軍吉宗公の頃、石田梅巌初めて之を唱へ、かの有名な鳩翁道話なぞも、此の派の手に成つたものであるが、梅巌の門下よりは手島堵庵、中沢道二などの名士出で、この両人の力により、心学は普及せらる〻やうになつたものである。
私は曾て此の両人の中の中沢道二翁の筆になつた道二翁道話と題せらる〻一書を読んだことがある、その中に載つてる近江の孝子と信濃の孝子とに就ての話は、未だに忘れ
得ざる程意味のある面白いもので、確か孝子修行といふ題目であつたかの如くに記憶して居る。
その名は何と云つたか、今明確に覚えて居らぬが、近江の国に一人の有名な孝子があつた、『夫れ孝は天下の大本なり、百行の依て生ずる所』と心得て、日夜その及ばざるを唯惟れ恐れて居つたが、信濃の国に亦有名なる孝子あると聞き及び、親しく其の孝子に面会して、如何にせば最善の孝を親に尽すことの出来るものか、一つ問ひ訊して試みたいものだ、との志を懐き、遥々と野越え山越えて、夏なほ凉しき信濃の国まで、態々近江の国から孝行修行に出掛けたのである。
漸々にして孝子の家を尋ね当て、其家の敷居を跨いだのは、正午過であつたが、家の中には唯一人の老母が在るだけで、実に寂しいものである、『御子息は』と尋ねると、『山
へ仕事に行つてるから』とのことに、近江の孝子は委細来意を留守居の老母まで申し述べると、『夕刻には必ず帰らうから、兎に角上つて御待ち下さるやうに』と勧められたので、遠慮なく座敷に上つて待つてると、果して夕暮方に至れば信濃の孝子だと評判の高い子息殿が、山で採つた薪を一杯背負つて帰つて来られた、そこで近江の孝子は、此所ぞ参考のために大に見て置くべき所だらうと心得て、奥の室から様子を窺つて居ると、信濃の孝子は、薪を背負つたま〻で縁に瞠乎と腰を掛け、荷物が重くて仕様がないから、手伝つて卸して呉れろと、老母に手伝はして居る模様である、近江の孝子は先づ意外の感に打たれて、猶ほ窺つてるとも知らず、今度は足が泥で汚れてるから浄水を持つて来て呉れの、やア足を拭うて呉れのと、様々な勝手な注文ばかりを老母にする、然るに老母は如何にも悦ばしさうに嘻々として、信濃の孝子が言ふま〻に能く忰の世話をして遣
るので、近江の孝子は誠に不思議なこともあればあるものと驚いてるうちに、信濃の孝子は足も綺麗になつて炉辺に坐つたが、今度は又あらうことか有るまいことか、足を伸して、大分疲れたから揉んで呉れと老母に頼むらしい模様である、それでも老母は嫌な顔一つせず揉んで行つてるうちに、はる〴〵近江からの御客様があつて、奥の一ト間に通してある由を信濃の孝子に語ると、そんならば御逢ひしやうとて座を起ち、近江の孝子が待つてる室にノコ〳〵やつて来た。
近江の孝子は一礼の後、信濃の孝子に委細来意を告げて、孝行修行の為に来れる一部始終を物語り、彼是れ話し込むうち早や夕飯の時刻にもなつたので、信濃の孝子は晩餐の支度をして客人に出すやうにと老母に頼んだ様子であつたが、愈〻膳が出るまで、信濃の孝子は別に母の手伝をしてやる模様もなく、膳が出てからも平然として母に給仕さ
せるのみか、やれ御汁が鹹くて困るとか、御飯の加減が何うであるとか、と老母に小言ばかりを言ふ、そこで近江の孝子も遂に見かねて、『私は貴公が天下に名高い孝子だと承つて、はる〴〵近江より孝行修行の為め罷り出たものであるが、先刻よりの様子を窺ふに、実に以て意外千万の事ばかり、毫も御老母を労はらる〻模様のなきのみか、剰へ老母を𠮟らせらる〻とは何事ぞ、貴公の如きは孝子どころか、不孝の甚しきものであらうぞ』と励声一番、開き直つて詰責に及んだのである、之に対する信濃の孝子の答弁がまた至極面白い。
『孝行々々と、如何にも孝行は百行の基たるに相違ないが、孝行をしやうとしての孝行は真実の孝行とは言はれぬ、孝行ならぬ孝行が真実の孝行である、私が年老いたる母に種々と頼んで、足を揉ませたりするまでに致し、御汁や御飯の小言を曰つたりするのも、
母は子息が山仕事から帰つて来るのを見れば、定めし疲れてることだらうと思ひ、『さぞ疲れたらう』と親切に優しくして下さるので、その親切を無にせぬやうにと、足を伸して揉んで貰ひ、また客人を饗応すに就ては、定めし不行届で息子が不満足だらうと思うて下さるものと察するから、その親切を無にせぬ為め、御飯や御汁の小言までも曰うたりするのである、何でも自然のま〻に任せて、母の思ひ通りにして貰ふところが、或は世間に、私を孝子々々と言ひ囃して下さる所以であらうか』といふのが、信州の孝子の答であつた、これを聞いて近江の孝子も翻然として大に悟り、孝の大本は何事にも強ひて無理をせず、自然のま〻に任せる所にある、孝行のために孝行を力めて来た我身には、まだ〳〵到らぬ点があつたのだと気付くに至つた、と説いた所に道二翁道話の孝行修行の教訓があるのである。
経済界に需要供給の原則がある如く、実社会に投じて活動しつ〻ある人間にも、亦此の原則が応用されるやうである、言ふまでもなく、社会に於ける事業には一定の範囲があつて、使ふだけの人物を雇ひ入れると、それ以上は不必要になる、然るに一方人物は年々歳々沢山の学校で養成するから、未だ完全に発達せぬ我が実業界には、迚も夫等の人々を満足させるやうに使ひ切ることは不可能である、殊に今日の時代は高等教育を受けた人物の供給が過多になつて居る傾が見える、学生は一般に高等の教育を受けて、高尚の事業に従事したいとの希望を持つてか〻るから、忽ち其所に供給過多を生じなければ止まぬことに為つて仕舞ふ、学生が此の如き希望を懐くのは、個人としては勿論嘉す
べき心掛であるが、これを一般社会から観、或は国家的に打算したら如何であらうか、余は必ずしも喜ぶべき現象として迎へることは出来ないやうに思はれる、要するに、社会は千篇一律のものでは無い、従つて之に要する人物にも色々の種類が必要で、高ければ一会社の社長たる人物、卑くければ使丁たり車夫たる人物も必要である、人を使役する側の人は少数なのに反し、人に使役される人は無限の需要がある、左れば学生が此の需要多き、人に使役さる〻側の人物たらんと志しさへすれば、今日の社会と雖も未だ人物に過剰を生ずるやうな事はあるまいと考へる、然るに今日の学生の一般は、其の少数しか必要とされない、人を使役する側の人物たらんと志して居る、つまり学問して高尚な理窟を知つて来たから、馬鹿らしくて人の下なぞに使はれることは出来ないやうになつて仕舞つて居る、同時に教育の方針も亦若干その意義を取り違へ、無暗に詰込主義の
智識教育で能事足れりとするから、同一類型の人物ばかり出来上り、精神修養を閑却した悲しさには、人に屈するといふことを知らぬので、徒らに気位ばかり高くなつて行くのだ、此の如くんば人物の供給過剰も寧ろ当然のことではあるまいか。
今更、寺小屋時代の教育を例に引いて論ずる訳ではないが、人物養成の点は不完全ながらも昔の方が巧くいつて居た、今日に比較すれば教育の方法なぞは極めて簡単なもので、教科書と言つた所で、高尚なのが四書五経に八大家文位が関の山であつたが、それに依つて養成された人物は、決して同一類型の人物ばかりでは無かつた、それは勿論教育の方針が全然異つて居たからではあらうけれども、学生は各〻其の長ずる所に向うて進み、十人十色の人物となつて現はれたのであつた、例へば、秀才はどん〳〵上達して高尚な仕事に向うたが、愚鈍の者は非望を懐かずに下賤の仕事に安んじて行くといふ風
であつたから、人物の応用に困るといふやうな心配は少かつた、然るに今日では教育の方法は極めて宜いが、其の精神を穿き違へて居る為に、学生は自己の才不才、適不適をも弁へず、彼も人なり我も人なり、彼と同一の教育を受けた以上、彼のやる位のことは自分にもやれるとの自負心を起し、自ら卑しい仕事に甘んずる者が少いといふ傾向である、これ昔の教育が百人中一人の秀才を出したに反し、今日は九十九人の普通的人物を造るといふ教育法の長所ではあるが、遺憾ながら其の精神を誤つたので、遂に現在の如く中流以上の人物の供給過剰を見るの結果を齎らしたのである、併し同じ教育の方針を執りつ〻ある、欧米先進国の有様を見るに、教育に因つて斯る弊害を生ずることは少いやうに思ふ、殊に英国の如きは我国に於ける現時の状態とは大に違うて、十分なる常識の発達に意を用ゐ、人格ある人物を造るといふ点に注意して居るやうに見える、固より
教育のことに関して其の多くを知らぬ余の如き者の容易に容喙さるべき問題ではないが、大体から観て今日のやうな結果を得る教育は、余り完全なるものであるとは謂はれまいと思ふ。