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◎罪は金銭にあらず

 陶淵明は『盛年不重来、一日難再晨』と題し、朱子は『青年易老学難成、一寸光陰不可軽』と警めてある如く、殊更に空想に耽り、誘惑に陥り易き青年時代は、夢の如くに過ぎ去つて終ふものである、余等が青年時代も真に早く経過して、明日ありと思うてゐた中に矢の如く移り去つた、今日になつて後悔しても詮方のない事である、青年諸君は深く此の前車に注意して、余等の後悔の轍を蹈まぬやうにして貰ひたい、諸君の励精によりて、将来国家の運命に影響する所大なるものがあるから、従来相当の覚悟ある人も、更に其の臍を固めねばならぬのである。

 覚悟を新にするに就て注意すべき点は限りないのであるが、特に注意すべきは金銭の問題である、追々と社会の組織が複雑となつて来るが、昔でさへ恒産無くして恒心を保つことは出来ぬと言はれた位であるから、活気ある世務に処する程、金銭問題に関して充分の覚悟が無くては、意外の失敗を演じ過失に陥ることがないとは限らぬ。

 勿論金銭は貴いものではあるが、又頗る卑しい物である、貴い点より言へば、金銭は労力の代表となり、約束によつて大抵の物の代価は、金銭ならでは清算の出来ぬものである、蓋し茲に金銭といふは、只金銀貨幣紙幣の類の通貨のみを指すのでは無く、総じて代償することの出来る貨財は金銭を以て評することが出来るので、金銭は財産の代称であるとも言ひ得ると思ふのである、嘗て

昭憲皇太后宮の御歌を拝誦した中に、

もつ人の心によりてたからとも
     仇ともなるは黄金なりけり

とあつたやうに記憶して居るが、真に適切なる御評で、吾人の感佩服膺すべき名歌であると思ふ、然るに昔の支那人の書いたものに拠ると、一体に金銭を卑しむ風が盛んであるやうに思はれる、左伝に『小人玉を抱いて罪あり』とある類から、孟子に陽虎の言として『仁を為せば富まず、富めば仁ならず』とあるが如き、其の一例である、陽虎の如きは固より敬服すべき人物ではないが、当時にありては知言として一般から認められて居たのである、更に又『君子財多ければ其の徳を損し、小人財多ければ其の過を増す』といふやうな意味の言を漢籍の中で読んだこともある、兎に角東洋古来の風習は、一般に金銭を卑しむこと甚しいもので、君子は近づくべからざるもの、小人には恐るべきものとしたのであるが、畢竟貪婪飽くなき世俗の悪弊を矯めんとして、終には極端に金銭を卑しむ様に為つたものと思はれる、是等の説は青年諸君は深く注意を払はねばならぬ。

 余は平生の経験から、自己の説として論語と算盤とは一致すべきものであると言つて居る、孔子が切実に道徳を教示せられたのも、その間経済にも相当の注意を払つてあると思ふ、是は論語にも散見するが、特に大学には生財の大道を述べてある、勿論世に立つて、政を行ふには、政務の要費は勿論、一般人民の衣食住の必要から、金銭上の関係を生ずることは言ふまでもないから、結局、国を治め民を済ふためには道徳が必要であるから、経済と道徳とを調和せねばならぬ事となるのである、故に余は一個の実業家としても、経済と道徳との一致を勉むる為に、常に論語と算盤との調和が肝要であると手軽く説明して、一般の人々が平易に其の注意を怠らぬやうに導きつ〻あるのである。

 昔は東洋ばかりでなく、西洋も一体に金銭を卑しむ風習が極端に行はれたやうであるが、是は経済に関することは、得失といふ点が先に立つものであるから、或る場合には謙譲とか清廉とか言ふ美徳を傷けるやうに観えるので、常人は時としては過失に陥り易いから、強く之を警戒する心懸けより、斯る教を説く人もありて、自然と一般に風習となつたものであらうと思ふ。

 曾て某新聞紙上にアリストートルの言として、『総ての商業は罪悪である』といふ意味の句があつたと記憶して居るが、随分極端な言ひ方であると思ふたが、尚ほ再考すれば、総て得失が伴ふものには、人も其の利慾に迷ひ易く、自然仁義の道は外れる場合が生ずるものであるから、夫等の弊害を誡むるため斯様な過激なる言葉を用ゐたものかと思はれる、何うしても人情の弱点として、物質上の事に眼が著き易く、精神上のことを忘れて物質を過重する弊害の生ずるは止むを得ないことであるが、思想も幼稚であり、道徳上の観念の卑しい者ほど、此の弊害に陥り易いものである、故に昔は全体から観れば、智識も乏しく道義心も浅薄にして、得失のため罪悪に陥る者が多かつたのであると思はれるので、殊更に金銭を卑しむ風が高まつたのであらう。

 今日の社会状態は、昔よりは智識の発達が著しく進んで、思想感情の高尚な人が多くなつた、更に言ひ換へれば、一般の人格が高まつて来て居るのである、故に金銭に対する念慮も余程進んで来て、立派な手段を用ゐて収入を図り、善良なる方法を以て使用する人が多くなつたので、金銭に対する公平なる見解をなすやうに為つた、併し前述の如く人情の弱点として、利慾の念より輙もすれば富を先にして道義を後にする弊を生じ、過重の結果、金銭万能の如く考へて、大切なる精神上の問題を忘れて、物質の奴隷となり易いものであるが、斯くなりては責其人にありとは言ふもの〻、金銭の禍を恐れて其の価値を卑しく観るやうになつて、再びアリストートルの言を繰返さしむるに至るであらう。

 幸にして世間一般の進歩と共に金銭上の取扱も改まつて、利殖と道徳と離れまいとする傾向が増して来た、殊に欧米にては『真正なる富は正当なる活動によつて収得せらるべき者である』との観念が著々実行されて来て居るが、我国の青年諸君も深く此点に注意して、金銭上の禍に陥らず、倍〻道義と共に金銭の真価を利用する様に勉められん事を望むのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.157-163

出典:青年と金銭(『竜門雑誌』第307号(竜門社, 1913.12)p.30-33)

サイト掲載日:2024年11月01日