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乱世の豪傑が礼に嫻はず、兎角家道の斉はぬ例は、単に明治維新の際に於ける今日の謂ゆる元老ばかりでは無い、何れの時代に於ても、乱世には皆爾うしたものである、私なぞも家道が斉つてると口はばつたく申上げて誇り得ぬ一人であるが、かの稀世の英雄豊太閤などが、矢張礼に嫻はず、家道の斉はなかつた随一人である、素より賞むべきではないが、乱世に生ひ立つたものには、どうも斯んな事も致し方のない次第で、余り酷には責むべきでも無からうと思ふ、然し豊太閤に若し最も大きな短所があつたとすれば、それは家道の斉はなかつた事と、機略があつても経略が無かつた事とである、若し夫れ豊太閤の長所はと云へば、申すまでもなく、その勉強、その勇気、その機智、その気槩である。
此く列挙した秀吉の長所の中でも、長所中の長所とも目すべきものは、その勉強である、私は秀吉の此の勉強に衷心より敬服し、青年子弟諸君にも、是非秀吉の此の勉強を学んで貰ひたく思ふのである、事の成るは成るの日に成るに非ずして、その由来する所や必ず遠く、秀吉が稀世の英雄に仕上がつたのは、一にその勉強にある。
秀吉が木下藤吉と称して信長に仕へ、草履取をして居つた頃、冬になれば藤吉の持つてた草履は、常に之を懐中に入れて暖めて置いたので、何時でも温かつたといふが、斯んな細かな事にまで亘る注意は余程の勉強でないと、到底行届かぬものである、また信長が朝早く外出でもしやうとする時に、まだ供揃ひの衆が揃ふ時刻で無くつても、藤吉ばかりは何時でも信長の声に応じて御供をするのが例であつたと伝へられて居るが、これなぞも秀吉の非凡なる勉強家たりしを語るものである。
天正十年織田信長が明智光秀に弑せられた時に、秀吉は備中にあつて毛利輝元を攻めて居つたのであるが、変を聞くや直ちに毛利氏と和し、弓銃各五百、旗三十と一隊の騎士とを輝元の手許より借り受け、兵を率ゐて中国より引返し、京都を去る僅に数里の山崎で光秀の軍と戦ひ、遂に之を破つて光秀を誅し、其首を本能寺に梟すまでに、秀吉の費した日数は、信長が本能寺に弑せられてより僅に十三日、只今の言葉で申せば二週間以内のことである、鉄道もなく車も無い、交通の不便この上なき其頃の世の中に、京都に事変のあつたのが、一旦中国に伝へられた上で和議を纒め、兵器から兵卒まで借入れて京都へ引返すまでに、事変後僅に二週間を出でなかつたと云ふのは、全く秀吉が尋常ならぬ勉強家であつた証拠である、勉強がなければ如何に機智があつても、如何に主君の仇を報ずる熱心があつても、斯くまで万事を手早く運んで行けるものでは無い、備中から摂津の尼ケ崎まで、昼夜兼行で進んで来たのであると云ふが、定めし爾うであつたらうと思ふ。
翌天正十一年が直ぐ賤ケ岳の戦争になつて、柴田勝家を滅ぼし、遂に天下を一統して、天正の十三年に秀吉も目出度関白の位を拝するやうになつたのであるが、秀吉が斯く天下を一統するまでに要した時間は、本能寺の変あつて以来、僅に満三年である、秀吉には素より天稟の勝れた他に異るところもあつたに相違ないが、秀吉の勉強が全く之を然らしめたものである。
是より先き、秀吉が信長に仕へてから間もなく、清洲の城壁を僅に二日間に修築して信長を驚かしたといふ事も伝へられて居るが、是れとても一概に稗史小説の無稽譚として観るべきでない、秀吉ほどの勉強を以てすれば、これぐらゐの事は必ず出来たと思ふ。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.65-69
出典:実験論語処世談(十)(『竜門雑誌』第334号(竜門社, 1916.03)p.11-21)
サイト掲載日:2024年11月01日