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『竜門雑誌』第334号(竜門社, 1916.03)p.11-21

◎実験論語処世談(十)

青淵先生

▲太閤秀吉の長所と短所

 乱世の豪傑が礼に嫻はず、兎角家道の斉はぬ例は、単に明治維新の際に於る今日の所謂元老ばかりでは無い。何れの時代に於ても乱世には皆な爾うしたものである。私なぞも、家道が斉つてると口はばつたく申上げて誇り得ぬ一人であるが、かの稀世の英雄豊太閤などが、矢張礼に嫻はず家道の斉はなかつた随一人である。乱世に生ひ立つたものには、素より賞むべきでは無いが、甚麽も斯んな事も致方の無い次第で、余り酷には責むべきでも無からうかと思ふ。然し、豊太閤に若し最も大きな短所があつたとすれば、それは家道の斉はなかつた事と、機略があつても経略が無かつた事とである。

 豊太閤の長所は?と云へば申すまでもなく、その勉強、その勇気、その機智、その気慨である。

▲秀吉の一生は勉強のみ

 此く列挙した秀吉の長所のうちでも、長所中の長所とも目すべきものは、その勉強である。私は秀吉の此の勉強に衷心より敬服し、青年子弟諸君にも、是非秀吉の此の勉強を学んで貰ひたく思ふものである。事の成るは成るの日に成るに非ずして、その由来する処や必ず遠く、秀吉が稀世の英雄に仕上がつたのは、一に其勉強にある。

 秀吉が木下藤吉と称して信長に仕へ、草履取をして居つた頃、冬になれば藤吉の持つてた草履は常に之を懐中に入れて暖め置いたので、何時でも温かつたといふが、此んな細かな事にまで亘る注意は、余程の勉強でないと、到底行届かぬものである。又、信長が、朝早く外出でもしやうとする時に、また[だ]供揃ひの衆が揃ふ時刻で無くつても、藤吉ばかりは何時でも信長の声に応じて御供をするのが例であつたと伝へられて居るが、これなぞも、秀吉の非凡なる勉強家たりしを語るものである。

▲中国より二週間にて山崎

 天正十年織田信長が明智光秀に弑せられた時に、秀吉は備中にあつて毛利輝元を攻めて居つたのであるが、変を聞くや直に毛利氏と和し、弓銃各五百、旗三十と一隊の騎士とを輝元の手許より借り受け、兵を率ひて中国より引つ返へし、京都を去る僅に数里の山崎で光秀の軍と戦ひ、遂に之を破つて光秀を誅し、其首を本能寺に梟すまでに、秀吉の費した日数は、信長が本能寺に弑せられてより僅に十三日、唯今の言葉で申せば、二週間以内のことである。鉄道も無く車も無い交通の不便この上無き其頃の世の中に、京都に事変のあつたのが、一旦中国に伝へられた上で和議を纏め、兵器から兵卒まで借入れて京都へ引つ返へすまでに、事変後僅に二週間を出でなかつたといふのは、全く秀吉が尋常ならぬ勉強家であつた証拠である。勉強が無ければ如何に機智があつても、如何に主君の仇を報ずる熱心があつても、斯くまで万事を手早く運んで行けるものではない。備中から摂津の尼ケ崎まで、昼夜兼行で進んで来たのであると謂ふが、定めし爾うであつたらうと思ふ。

 翌天正十一年が直ぐ賤ケ岳の戦争になつて、柴田勝家を滅ぼし、遂に天下を一統して天正の十三年に秀吉も目出度関白の位を拝するやうになつたのであるが、秀吉が斯く天下を一統するまでに要した時間は、本能寺の変あつて以来僅に満三年である。秀吉には素より天稟の勝れた他に異るところもあつたに相違無いが、秀吉の勉[強]が全く之を然らしめたものである。

 又、秀吉が信長に仕へてから間もなく、清洲の城を僅に二日間に修築して信長を驚かしたといふ事も伝へられて居るが、之れとても一概に稗史小説の無稽譚とのみ観るべきでない。秀吉ほどの勉強を以てすれば、これぐらゐの事は必ず出来た事と思ふ。

▲機略に長じ経略に疎し

 御前槍仕合の譚は、随分有名なもので、絵本太閤記などにも掲げられ、面白可笑しく書かれてあるが、これなぞも稗史小説家が、単に太閤の一生を飾るために編み出した虚構の作意であるとばかりは謂へぬ。全く実際の事実としてあつたことで、依て以て秀吉の如何に機略に富んだ人物であつたかを窺ひ得られるものと思ふ。長槍短槍の得失論が起つた時に、短槍の利を説いた上島主水が、敵方の探偵であるのを看破し、あべこべに長槍の利を説き、信長御前の仕合に於て、主水をして顔色なきまでの敗を取らしめたなぞは、素より秀吉の機略によるが、又其の勉強にも依ることである。平素より能く勉強して細事に注意し居らなかつたならば、主水が敵方の廻し者であつたのを知り得られさうな筈が無い。

 秀吉が中国の陣中に在つて、本能寺の変を聞くや、立処に一切の事情を隠す処なく披瀝して毛利輝元と和議を講じたところなぞは、是又如何に秀吉の機略に富むかを示すに足るものであるが、秀吉には斯く機に臨み変に応じて事を処する機略があつても、部下の如何なる人物を如何なる部署に配置し、如何なる順序方法によつて、全体の事業を進行さして行くべきか、といふ事に就ての経略の才が無かつたやうに思はれる。その結果は、何んでも才智に富んだ人物でさへあればその根本の精神如何を問ふの遑なく悉く之を信用して重用し、之に重要なる位置を与へたるかの如くに観られる。

 石田治部少輔三成や小早川隆景などが重く用ひられて秀吉の信用を得たのは、全く秀でたる才智があつた為めだが、秀吉は三成や隆景の如き才智のある人物のみを重用した結果は加藤清正の如き忠誠無二の臣を疎んずるに至り、秀吉は三成隆景等の才に魅せられて、清正を卻ける気味があつたと云はれても、弁解の辞が莫からうと思ふ。た〻゙ 片桐勝元[且元]のみが、忠誠無二の士でありながら猶ほ且つ秀吉の信用を得て居つたのは、寧ろ異数とするに足るが、勝元[且元]の秀吉に信用せられたのは、その無二の忠誠に因るよりも寧ろその機略に富んだところにあつたらうかと思ふ。勝元[且元]は清正の如く単に忠誠無二といふだけの人物では無い。元禄事変の大石良雄の如く、却々複雑した性格を有つた機略に富んだ人物である。

▲秀吉礼を知らぬ

 秀吉の晩年が甚だ振はなかつたのには、いろ〳〵の原因もあらうが、斯く才智のある人物をのみ偏重して部下の人物配置の法その当を得ず、機略にのみ秀で〻、経略即ち経綸の才に乏しかつたことが確に其一つだらう。然し、その最大原因は、礼の大本を弁へず、漫りに淀君の愛に溺れて其間に生れた秀頼を寵し、一旦猶子にまでして関白の位を継がしめた秀次を疎んじ卻け、遂に之に反意を懐かしむるに至り、反意ありと知るや、之を高野山に放つて切腹を命じ、その首を三条河原に梟して遺骸を葬りし墳墓に畜生塚の名を附し、一族の子女妻妾侍臣に至るまで悉く之を誅するなど、家道の甚だ斉はなかつたところにあらうかと思ふ。

 太田錦城などの意見も、此の点に於て、私の思ふところと同じで、秀吉が信長の遺子北畠内大臣信雄及び神戸三七信孝に対する所置は、戦国の事情止むを得ざるものとして責むべきではないが、秀次に対する所置は甚だ其当を得ざるもので恕すべからず、と論じて居る。畢竟皆な礼の大本を忘れたるの致すところ也と云はねばならぬ。

▲倫常を無視せる女色

 今日の如くに男女間道徳の進歩して居らぬ時代に於ては、売女に戯る〻とか、或は又、美しい女を容れて妾にするとかいふ事は、素より賞むべきで無いが、必ずしも酷に責むるわけにも行かぬ。殊に、乱世の英雄に斯ることの存するのは、止むを得ぬ次第である。然し、女に戯れ色に近づく間にも、如何に乱世なればとて、如何に英雄なればとて、倫常を無視して差支ないといふ法は决してあり得べからざることである。然るに、秀吉は、礼の大本を心得居られぬ方であつたものか女に戯れ色に近づいてゐる間に、人間として如何なる場合に於ても離れてはならぬ倫常を離れ、淀君の愛に溺れては、秀次に対し常識を逸せる所置に出で、其他、我意に任かせ、女に関する事に就ては、随分我儘勝手放題の仕たい三昧をした形跡がある。

▲氏郷の妻に秀吉の母

 蒲生氏郷は、素と織田信長に仕へて其寵を受け、永禄十二年八月信長大河内の城を攻めるに当り、年僅に十四にして先登の功を立て、信長の娘を娶されて之を妻としたほどの英才であるが、信長の歿後氏郷の秀吉に仕ふるやうになるや、秀吉は氏郷の妻の美しさに迷ひ、氏郷に迫つて其妻を献ぜしめ之を容れて妾にしたといふが、これは秀吉が単に氏郷の妻の美貌に迷つた為めばかりとも謂へず、多少其間に戦国時代の特色たる政略上の意味も混じ、氏郷の妻が信長の娘である処より、之を妾にして置けば、信雄、信孝等を制するに便ありと考へたのにも因らうかなれど、仮令、信雄信孝と同胞たるにせよ、既に一旦氏郷の妻になつてる女を、無理から其夫に迫つて之を自分の側室にするなどいふ事は倫常を無視するの甚しきもの也と言はねばならぬ。

 天正十二年秀吉小牧山の陣を収め長湫の戦を終え、漸く大勢の己れに利あるを見るや、天下一統の志を立てたが、目の上の瘤たる家康の事が気に懸つて堪らぬので、早く家康と和協の実を挙げたいものと思ひ、参河にある家康に切りに上洛を促したが、家康もさるもの、容易に之に応ずる色が無い、是に於てか秀吉も遂に力尽きて施すの策なく、自分の生みの母を人質にして家康の許に送り、漸く家康をして上洛せしめ、之と和睦するを得た、といふ事は正史の伝ふる処である。

▲晩年の振はざる所以

 秀吉如何に天下を一統するに鋭意し、家康と和睦の法を講ずるに急であつたからとて、天にも地にも懸け替の無い我が生みの母を、家康の許に人質として遣すを意に介せず、之によつて僅に家康との和を調へたなどといふのは、実に以て沙汰の限りで、人倫を無視するの甚しきものである。

 又、既に佐治若狭守の妻になつて居つた自分の妹を取り返えし、家康と和睦したさの一念から、之を家康の妻として嫁せしめたなども、随分乱暴な所置で、倫常を無視したものであると謂へる。人質や政略結婚は、如何に戦国の習ひであるとは申しながら、斯く礼の大本を忘れて人倫を蹂躪し、乱暴無尽に振舞つては、如何なる英雄と雖も决して其の終りを美くしさうな筈がない。是れが、秀吉に気慨あり、勇気あり、機智あり、併も非凡の勉強家なりしに拘らず、其晩年に至るや甚だ振はず、豊臣家の末路なるものが悲惨を極むるに至つた所以である。

 秀吉の晩年に就て譬ひ豊臣家の末路に鑑みても、人は勢ひに乗じ好い気になつて傍若無人、倫常を無視する如き挙動に出て[で]〻はならぬものである事が肯かれるたらうと思ふ。青年子弟諸君は、能く此の消息を胸底におさめ置かれ、如何なる塲合に於ても、礼の大本を忘れぬやうに心懸けて然るべきものである。然らずんば、一敗再び起つ能はざる如き悲惨なる境遇に陥る事にもなる。

▲何事にも根抵が第一

子夏問曰。巧笑倩兮。美目盻[盼]兮。素以為絢兮。何謂也。子曰。絵事後素。曰礼後乎。子曰。起予者商也。始可与言詩已矣。

(子夏問ふて曰く、巧笑倩たり、美目盻[盼]たり、素以て絢を為すとは、何の謂ぞや。子曰く、絵の事は素より後にす。曰く礼は後か。子曰く、予を起すものは商なり、始めて与に詩を言ふべきのみ。)

 この章句も礼に関したものであるが、巧笑倩たり以下絢たりまでの句は、逸詩と申して詩経に漏れて載らなかつた詩であるが、其意は、一たび笑へば其口元倩として忽ち万人を悩殺し、目元の美しく凉しいところは、実に盻[盼]たるの美人でもその微笑める口元とか或は又目元の美しい表情とかは抑々末のことで美貌の根抵になるものは、生れついて持つたる明眸皓歯の天質である、これに粉黛衣服の絢を加へて、茲に初めて美人の美人たるところが発揮せらる〻ものだといふにある、然るに、孔夫子の御弟子の子夏即ち商は、「素以て絢を為す」の字句を「素が直に絢となる」との意に解し、甚だ合点の行かぬのに疑を発し、近頃の言葉でいふ認識論的の質問を孔夫子に持ちかけたものである。然るに、孔夫子は例の気の利いた答弁振りによつて之に対し、恰も顧みて他を曰ふが如くにして「絵の事は素より後にす」と答へられ、絵に於ての大事は、先づ粉地を作り、純白の素地を調へるにある、五彩を施して之を絵にするのは、それから後のことだ、と申されたのである。

▲礼は仁義忠信の仕上げ

 私は、美術の方面は至つて不案内であるから、絵の事なぞに就て何事も申上げるわけに参らぬが、孔夫子は美人に関する詩より延ひて、絵の事に及ばれ、更に進んで道徳上のことを之によつて暗示せられたものである。子夏は、孔夫子に斯る意があるを直ちに汲み取つて「然らば道徳上に於ても、礼より先になるものは仁義忠信で、これにより人間の素地を作つた上に、礼の絢を施すべきものであるか」と再度の質問を発せられたものと思はれる。

 子夏即ち商の発した再度の質問は、大層孔夫子の御気に適つたものと見え「商よ、爾は予を失望せしめぬ好弟子である。爾の如くに考えてこそ始めて詩を真に解するものと謂へる」と、子夏を御賞めになつたのであるが、如何にも其の通りで礼は仁義忠信で出来あがつた徳性の上にかけられる仕上げである。又、美人の事を謡つた詩でも、人の解し方によつては之を道徳的にも解し、我が修養の一助に供し得るものである。

▲我家の菩提所は寛永寺

祭如在。(祭るには在すか如くにす)

 これも、孔夫子が形式よりも大切なものは、精神であるといふ意味を教へられた語で、祖先を祀るにしても眼前に其人あるが如き精神を以てせざれば、如何に祭式を調へても、それは藻抜の殻同然のものだといふ、教へである。

 私は、及ばずながら此の精神を以て、我が祖先に対し、我が亡き父母に対することに心懸けて居る。従つて墓地を立派に飾るとか何んとかいふことを致さず、た〻゙ 世間並にして置くばかりである、元来私の家は故郷で代々古義真言を宗旨とする寺の檀家であつたのだが、私の東京に居住するやうになつて以来、私が徳川家と関係のある都合上より、只今では私も上野寛永寺の檀家に移り、寛永寺を私の家の菩提所に定め、同寺の境内には既に先妻の墳墓もある。私も死ねば、矢張、其処に参ることになつて墓地が取つてある。さればこそ別にその墓地を立派にして置くといふわけでも無い。た〻゙ 私が、渋沢家代々の為に、微かな招魂碑を建て、位牌堂を寛永寺の境内に設けた丈けである。要するに、祖先より亡父母に至るまでの霊を在すが如くにして祀らんとする微意に外ならぬ。

▲私の母と父とは如何

 私の母は、他の女と変つたところのあつた豪い女だと、今になつても素より想ひはせぬが、非常に人情の深い慈愛に富んだ女であつたこと丈けは確実で、今日になつても、之を想ふと涙の垂れるほど難有く感ぜられる。母は、家付の娘で、父は同村の渋沢宗助といふ家から、私の家へ聟養子に参つたのであるが、父のことは、今になつて想へば思ふほど、豪い非凡の人であつた、と益々敬服するばかりである。父の事に就ては、これまでも既に申述べ置いたので、大略、読者諸君も承知せられて居ることて思ふが、極めて方正厳直、一歩も他人に仮すことの嫌ひな持前の人で、如何に些細なことでも四角四面に万事を処置する風があつたのみならず、非常な勤勉家で、相応な家産をも作り出したほどの人ゆゑ、働く方の慾は極めて深かつたが、物惜みなどは毫も致さず、至つて物慾には淡泊の方で、義の為めだとなれば、折角丹精して作りあげた身代でも何んでも、之を擲つて些か悔ゆる処無し、といつたやうな気慨に富んだ人である。又、他人に対しても頗る厳格でありましたが、深刻だといふ質でなく、小言を云ひながら能く他人の世話をしたものである。若し、不肖の私に多少なりとも、斯る美質がありとすれば、それは皆な父の感化による賜であると謂はねばならぬ。

▲父は見識のあつた人

 父は平常多く、書籍を読んで居つたといふほどの人でなかつたが、四書や五経ぐらゐは充分に読め、傍ら俳諧などもやるまでの風流気のあつたもので、何時でも自分相当の見識を備へ、漫りに時勢を追ひ、流行にかぶれるといふやうな事の無かつたものである。随つて、私にも十四五歳までは読書[、]撃剣、習字等の稽古をさせたが、当時の時勢にかぶれて、武士風にばかりなつても困るからとて、家業の藍を作つたり、之を買入れたり、又養蚕の事などにも、身を入れるやうにせねばならぬと、常々私を戒められたものである。それで、私も父の命に負かず、十七歳から二十二歳までの間に、三度も信州へ藍の買ひ出しに出かけたほどであるが、世間が段々騒々しくなつて来たので、既に是まで申述べ置いたうちにもある通り、私は隠忍して、家業に勉強ばかりして居られなくなり、国事に奔走して見たいとの気を起したものだから、それとなく父に話もしたが、父は飽くまで「其位にあらずんば親らせず」の意見で、た〻゙ 国事の評論をするだけならば如何に農を業とする者でも之を敢てして搆はぬが、実際の政治向の事は、その位にある人に任かして置くが可いと申され、私が国事に奔走せんとするのには不同意であつたものである。然し、私は飽くまで国事に奔走し、幕府を倒してしまはねばならぬとの决心を棄てるわけにゆかず、甚麽しても郷里より江戸に出やうと心を定めたのである。

▲文久三年九月十三日

 然し、私は全く父に何も打明けず、突然郷里を遁げて出発しても宜しく無いと思つたものだから、それとなく訣別のつもりで、文久三年九月十三日の夜、月見の宴にかこつけ、尾高蘭香[藍香]と渋沢喜作と私との三人が、父と一座して月を見ながら天下の形勢を談り、愈よ私が国事に奔走せんとする决心のほどを仄めかして打ち明けることにしたが、父は依然として矢張不同意で、其の位にあらざる者が如何に田舎から駆け出して単身奔走して見たところで、何の功果も挙るもので無いと諄々として説かれ、私の决心を翻させやうとせられたのである。之に対し、私は楠正成湊川戦死の例を引き、楠公とても、必ず彼の戦で勝てるものとは思はなかつたらうが、死するまで戦はれた処に楠公としての豪い処があるやうに、自分とても、微力を以てして奔走したのでは、或は到底その目的を達し得られずに終るやも測り難いが、楠公の如く戦死しても厭はぬゆえ、やれる処までやつて見る気であると、私が語を痛切にして决心の次第を父に物語ると、父も到底私の决心の翻し難きを見、それほどまでの决心ならば、思ふま〻に行るが可い、私は干渉せぬからと私の国事に奔走するのを許されたことは既に是まで申述べ置いたところにもある通りである。私は、是処が父の豪いところだ、と思ふて感服せざるを得ぬのである。

▲父は終生郷里にて暮す

 仏蘭西から帰朝して明治元年十一月三日横浜に入港するや否や、其趣を直に父に報知してやると、仏蘭西にあるうち予ねて私より、或は金子の必要を迫られ送金して貰はねばならぬやうになるかも知れぬと父に通知して置いてあつたので、若干かの金子を懐にして、早速東京まで出て来られたのであるが、もう金子の必要も無く、当座用は充分手許にあるから、御心配に及ばぬと申述べ、色々と洋行中の話などをして別れたのである。私は夫れより一旦静岡に参り、明治二年明治政府に出仕するやうになつて、東京に家を持ち、妻子とも同棲することに相成つたので、父にも是非、東京に参られて同じ家の内に住むやうに話しても見たが、父は「貴公と私とは全然、帰着点が違ふ。貴公は官にも出仕して居ればいろ〳〵と交際も広かるべく、私のやうな田舎者が、貴公の家に同居して居つては、水の中に油を入れたやうなもので貴公の迷惑にもなる。私は郷里に居る方が、却て気楽で可いから」とて、甚麽しても東京居住を承諾せられなかつたものである。就ては、私も父の意に任せ、郷里に住つて戴くやうにしたが、三ケ月に一度くらゐは出京されて、その頃深川にあつた住宅に私を訪れられ、三四晩も泊つては、又郷里に帰られたものである。

▲郷里にある父の死

 私が大阪造幣寮の整理をする為めに、明治四年の夏、同地に出張を命ぜられ、その任務を終へて東京に帰つたのは、十一月の十五日であつたが、帰京すると其月の十三日から郷里の父が大病であるとの飛脚に接したので、即刻にも出立して郷里に向ひたかつたのであるが、大阪滞在中の復命もせねばならず、又身苟にも官吏の班に列して居る以上、賜暇の手続きも経ねばならなかつたので、其一夜は千秋の思で過ごし翌朝井上大蔵大輔に面会して、大阪の事情を逐一報告に及んだ上、直に病父看護のため帰省の許可を得、折悪く降り切る大雨を冒し、中仙道を武州血洗島村にある郷里の家に着したのが、十六日の夜も大分晩くなつた午後十一時頃であつた。父は十三日に発病してから一時は人事不省に陥つたさうであるが、幸ひ私の帰つた時には、俗にいふ中癒とでも申すものであつたか、病状も稍々快方に向つたらしく、気力も回復して、私が看護のため帰省したのを甚く悦ばれたもの〻、六十以上になつてからの大患とて、とう〳〵全快せられず、十八日の昼頃から又人事不省に陥られ、二十二日といふに、六十三歳を一期として遂に亡くなられてしまつたのである。葬儀を郷里の菩提寺で営んで、祖先の墓地に葬ることに致し葬儀万端を済まして帰京したのが、十二月の初旬であったやうに記憶して居る。

▲郷里にある渋沢家

 父の亡くなられた跡の郷里にある家は、私の妹に須永才三郎といふ親戚の者を婿に貰つて継がせるやうに致し、今日も猶ほ其儘続いて居るが、妹の子の渋沢元治といふのは、もう相当の年配で、目下逓信省に奉職し相当の位置に就き、電気局の逓信技師として電気の方面を担当し工学博士にまでなつて居る。格別豪い人物だといふほどでも無からうが、将来のある人物として嘱望せられて居る。父母の墳墓は郷里にあるが、私は度々郷里まで展墓に行く暇も無いので、祭祀の便利を得るやうに、父の亡くなられた翌年谷中の墓地に建てたのが前回に述べて置いた招魂碑である。父の招魂碑に刻んである選文は、尾高惇忠の書いて呉れられたもので左の通りである。

晩香渋沢翁墓碣銘 翁諱美雅、小字元輔、長称市郎右衛門、更市郎、渋沢氏、晩香其号、武蔵大里郡八基村血洗島淵上人、考諱敬林、称只右衛門、妣島田氏、翁実同族諱政徳君第三子、敬林君養之、配以長女、為嗣、家世業農兼商、翁既執家務、時或凶歉或折閲、不少撓、尤用力製藍養蚕、親率家衆、施設有方、又能鑑人、選友、人間[問]経済、則諄々教訓、一郷敬服、費財漸富積至巨万、屡献金邑主安部侯、賜俸米、列士班、擢為村吏、自組頭進試名主、有暇読書賦俳詩、自奉節約、而賑貧窮、喜捨与親戚旧故之憂虞、自任保安之、慶応中其子青淵君従徳川民部公、留学仏国、未幾幕府廃、徳川氏不能送学資、君深憂之、遠寄書於翁、謀之、翁奮然鬻家産弁之、会朝廷命公帰朝、而事止、嗚呼翁以一農夫、欲挙私産任貴公子遠学大費、非弁財之公私、知事之軽重者、悪能至此、乃知、今日青淵君握大都商権、図一世公益、淵源於翁者深也、明治四年十一月十三日罹疾、青淵君夫妻趨自東京、看護備至、二十二日終不起、享年六十有三、葬先瑩之次、遠邇知与不知、莫不歎惜焉、翁有五男八女、長男即青淵君名栄一、叙従四位勲四等、別成家、長女曰奈可、適吉岡十郎、少女曰禎、養甥須永才三郎、更市郎、配之、承遺業、余皆早世、内外雲仍三十余人、曩建於招魂之碑於東京寛永寺、而郷里墓碣磨滅、今茲更建之、属文於惇忠、惇忠在甥行、毎誦遺訓、誥後輩、豈可以不文辞之、仍係銘曰
  勤倹殖産  捨私奉公
  事雖不行  高義何空
  矧青淵君  継志而立
  国利民福  拡張亹々
  有子如斯  翁也弗死
 明治三十一年一月    甥 尾高惇忠謹撰
        男従四位勲四等 渋沢栄一書

秀吉の長所と短所(立志と学問)

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