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余は平素多弁の方で、能く種々の場合に口を出し、或は演説なぞも処嫌はず頼まれ〻ばやるので、知らず識らず言ひ過ぎることなぞあつて、人から屡々揚足を取られたり、笑はれたりすることがある、併し如何に揚足を取られやうが笑はれやうが、余は一度口にして言ふ以上は、必ず心にもないことは言はぬといふ主義である、従つて自分自身では妄語したとは思つて居らない、或は世人には妄語と聞える場合がないでもなからうが、少くとも自分は確信のある所を口にした積りで居る、口舌は禍の門であるだらうが、唯禍の門であるといふことを恐れて、一切口を閉ぢたら其の結果は如何であらう、有要な場合に有要な言を吐くのは、出来るだけ意思の通ずるやうに言語を用ゐなければ、折角のことも有邪無邪中に葬られねばならぬことになる、それでは禍の方は防げるとしても、福の方は如何にして招くべきか、口舌の利用に依つて福も来るものではないか、固より多弁は感心せぬが、無言も亦珍重すべきものではない、啞は此の世の中に於て如何なる用を弁じ得るか。
余の如きは多弁の為に禍もあるが、是に由つてまた福も来るのである、例へば、沈黙して居ては解らぬのであるけれども、一寸口を開いた為に、人の困難な場合を救うてやることが出来たとか、或はよく喋ることが好きだから、何かのことにあの人を頼んで口を利いて貰つたら宜しからうと頼まれて、物事の調停をしてやつたとか、或は口舌のある為めに種々の仕事を見出すことが出来たとかいふやうに、総て口舌が無かつたら、それらの福は来るものでないと思ふ、して見れば、これらは誠に口舌より得る利益である、口は禍の門であると共に福の門でもある、芭蕉の句に『ものいへは唇寒し秋の風』といふのがある、これも要するに口は禍の門といふことを文学化したものであらうけれども、斯ういふ具合に禍の方ばかり見ては消極的になり過ぎる、極端に解釈すれば、ものを言ふことが出来ないことになる、それでは余り範囲が狭過ぎるのである。
口舌は実に禍の起る門でもあるが、また福祉の生ずる門でもある、故に福祉の来る為には多弁敢て悪いとは言はれぬが、禍の起る所に向つては言語を慎まねばならぬ、片言隻語と雖も、決して之を妄りにせず、禍福の分る〻所を考へてするといふことは、何人に取つても忘れてはならぬ心得であらうと思ふ。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.102-105
出典:口舌は福禍の門(『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.115-118)
サイト掲載日:2024年11月01日