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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.115-118

一八、口舌は福禍の門

⦅処世接物ノ綱領七、口舌は福禍ノ因テ生ズル所ノ門ナリ故ニ片言隻語必ズ之ヲ妄ニスベカラズ⦆

多弁はよいが妄語が悪い

 諺に『口は禍の門なり』といふことがある。軽卒に口を開けば思はぬ禍を招くから、気を付けて口をきかなくてはならぬとの戒であるが、余は未だこれだけでは物足らぬと思ふ。口舌は独り禍の門たるのみならず、口を開いたが為に福を招くこともある。故に単に口舌は禍の門だというて福の門だといふことを云はぬは片手落ちであると考へるから、余は之を改めて『口舌ハ禍福ノ因テ生ズル所ノ門』とした。併し乍らこれを妄にすることの如何に因つて、禍と福との差を生ずるものだから、一言一口と雖も妄にしてはならぬといふ点に注意を払うて貰ひ度い。

 彼の司馬温公が処世のことを説いたものゝ中に『妄語せざるより始まる』といふてある[。]これ即ち余が『片言隻語必ズ之ヲ妄ニスベカラズ』といふのに当るもので、言語は如何に多くとも、妄語さへなくば決して害あるものではない。言語はもと人と人との間に意志を通ぜんが為の必要に依つて起つたものであるから、一時もこれが無かつたら人生の用事は弁じない。けれどもそれだけ有用なものであると同時に、又一面に於ては大に禍の因ともなるものであるから、平素よく此の間の識別に注意し、有用なる言語は充分に吐くがよいが、妄語は何処迄も慎まねばならぬことである。

確信ある言語は大に必要なり

 余は平生多弁の方で、能く種々の場合に口を出し、或は演説なぞも処嫌はずに頼まれゝばやるので、知らず識らず言ひ過ぎることなぞあつて、人から屡々揚足を取られたり、笑はれたりすることがある。併し如何に揚足を取られようが笑はれようが、余は一度口にして言ふ以上は、必ず心にもないことは言はぬといふ主義である。従つて自分自身では妄語したとは思つて居らない。或は世人には妄語と聞える場合が無いでもなからうが、少くとも自分は確信のある所を口にした積りで居る。口舌は禍の門であるだらうが、唯禍の門であるといふことを恐れて、一切口を閉ぢたら其の結果は如何であらう。有要の場合に有要な言を吐くのは、出来るだけ意志の通ずる様に言語を用ひなければ、折角のことも却て有耶無耶中に葬らねばならぬことになる。それでは禍の方は防げるとしても、福の方は如何にして招くべきか。口舌の利用に因つて福も来るものではないか。固より多弁は感心せぬが、無言も亦珍重すべきものではない。啞は此の世の中に於て如何なる用を弁じ得るか。

口舌より来る福祉

 余の如きは多弁の為に禍もあるが、是に由つてまた福も来るのである。例へば沈黙して居ては解らぬのであるけれども、一寸口を開いた為に人の困難な場合を救うてやることが出来たとか、或は能く喋ることが好きだから、何かのことにあの人を頼んで口を利いて貰つたら宜しからうと、頼まれて事物の調停をしてやつたとか、或は口舌のある為に種々の仕事を見出すことが出来たとかいふ様に、総て口舌が無かつたら、それ等の福は来るものでないと思ふ。して見ればこれ等は誠に口舌より得る利益である。口は禍の門であると共に福の門でもある。芭蕉翁の句に『ものいへば唇寒し秋の風』といふのがある。これも要するに口は禍の門といふことを文学化したものであらうけれども、斯ういふ具合に禍の方ばかり見ては余りに消極的になり過ぎる。極端に解釈すればものを言ふことが出来ないことになる。それでは余りに範囲が狭過ぎるのである。

 口舌は実に禍の起る門でもあるが、又福祉の因つて生ずる所の門でもある。故に福祉の来る為には多弁敢て悪いとは謂はれぬが、禍の起る所に向つては言語を慎まねばならぬ。片言隻語と雖も決して之を妄にせず、禍福の分るゝ所を考へてするといふことは、何人に取つても忘れてはならぬ心得であらうと思ふ。

口は禍福の門なり(常識と習慣)

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