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◎道理ある希望を持て

 戦争して負けては困るが、唯国力を挙げて戦争にのみ奔るといふことは王道に適するものでは無い、今日の時局に対して我々は左様な事まで心配せぬでも宜い訳であるが、是から先きの商工業は如何にしたら宜からうか、平和が克復したら其後の実業界は如何なるかといふやうな事に就ては、意想外なる変化を生じて、中には悪いと思つたことが善くなり、善いと思ふたことが悪くもならうから、今日から臆断は出来ない、併し人は未来の事に向つて是非とも理想は持つべきものであるから、仮令違却するとも一定の主義に依て行ふといふやうなことが無ければ為らぬ、詰り能く思ひ審かに考へて事に当れば、必ず過は尠いものである、戦争の如き事変の勃発には、曾て想像したものに違却を生ずることはあるが、凡そ人の世に処するには、相当の趣味と理想とを以て道理から割出して進むのが必要であると思ふ、只その間に謂ゆる商業の徳義は如何しても立て通すやうにして、最も重要なるは信である、此の信の一字を守ることが出来なかつたならば、我々実業界の基礎は鞏固といふことは出来ないのである、約言すれば、時局の平和となつた暁には、別して我々実業に従事する者の責任が重くなるのであらうと思ふ、独り責任が重いのみならず、諸君が経営せらる〻事業に就ても、是が如何になるかといふ事を予想して、その予想から十分なる道理を考定して、是に由つて活動せらる〻やうにありたいと考へる、『道理ある希望を持つて活潑に働く国民』といふ評語は概括的な言葉であるが、先頃或亜米利加人が我が同胞を評して、日本人の全体を観察すると、各人皆希望を以て活潑に勉強する国民であると言はれて、私は大に悦びました、私も斯く老衰しては居るが、向後益々国家の進運を希望として居る、また多数の人々の幸福を増すことを希望として居る、実業家諸君も亦同様であらうと思ふ、時局の有無に関はらず、苟くも実業に従事するものは斯くありたい、将来は斯うしなければならぬと云ふ希望は誰もあるに相違ない。

 況んや斯る大戦に際しては、将来どう変化するだらうかといふ予想は、最も慎思熟慮を要すること〻思ふ、その経営せらる〻事業に応じて宜しきを制して行くといふことは必要だらうと思ふが、之を処するに就て是非一つ守らなければならぬことは、前にも述べた商業道徳である、約すれば信の一字である、是が御同様実業者に健全に行はれて往つたならば、私は日本の実業界の富は更に増大して、同時に人格も大に進むであらうと思ふ、単に時局に就てのみ希望する訳ではないが、斯る時機は別して変化が多いことを予想すると、お互に負担して居る職分から考へたら、宜しきを制することが出来るであらうと思ふのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.183-186

出典:時局に対する実業家の覚悟(『竜門雑誌』第329号(竜門社, 1915.10)p.21-30)

サイト掲載日:2024年11月01日