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◎天然の抵抗を征服せよ

 世界文明の進歩に伴ひ、人智を以て天然の抵抗を征服し、海にも陸にも種々交通の便利を加へて、其の距離を短縮することは実に驚くばかりである、往昔支那に於ては天円地方と称して、我々の住む此の大地を方形のものと思惟せしのみならず、自国以外には殆んど他国の存在を認めなかつたのである、我国とても当初は斯かる偏狭なる見解に依りて誘導啓発せられたのであるから、会〻日本以外の国といへば、直ちに唐天竺を聯想するのみであつて、更に世界の何物たるを知らなかつたのである、されば五大洲の存在などいふことに至りては、夢想だも及ばなかつたのである、現に余の幼時に聞ける童話中にも、其の左右の翼を拡げるときは長さ三千里にも達するといふ大鵬でさへも、尚ほ且つ世界の涯際を見ることが出来ないのであると説いた程であつた。

 さて其の如く世界は広大無辺のものなれば、迚も我々の人智では容易に之を究むることの出来るもので無いとして居たのである、然るに文明の進歩と共に交通機関が発達して来た為に、地球の面積は漸次に減縮せられ、最近の半世紀間に於ては、殆んど隔世の感がある、顧みれば千八百六十七年、那波翁第三世が在位の時に当り、仏国巴里に世界大博覧会の開かる〻に際し、我が徳川幕府よりは将軍の親弟徳川民部大輔を特命使節として差遣せられ、余は随行員の一人として渡欧したのであるが、当時一行の者は横浜より仏国郵船に乗り印度洋及び紅海を経て蘇士の地峡に到りしに、仏国人レセツプ氏の経営に係る同所開鑿の一大工事は、既に着手せられて居たけれども、未だ成就しなかつたが為め、一行は船を棄て〻地峡に上り、鉄道に依りて埃及を横断し、「カイロー」を経て「アレキサンドリヤ」に出で、再び乗船して地中海を航し、横浜出帆以来五十五日にして、初めて仏国の「マルセーユ」に到着したのであつた、斯くて翌年の冬期に帰朝する時に其所を過ぎたが、尚ほ運河の工事は竣成の運びに至らなかつた。

 其の後(千八百二十九[千八百六十九]年十一月)該運河が開通して、諸国の艦船が通航を許さる〻や、欧亜の交通に一生面を開き、両者間の貿易に、航海に、軍事に、外交に一大変革を来したのである。

 これと同時に各国艦船は、爾来益々其の形態を大にして其の速力を加へたから、太西洋は言を竢たず、太平洋の面積も亦漸く減縮せられた事さへあるに、更に進んで西伯利亜横断鉄道が竣工したので、欧亜の交通、東西の聯絡上に一新紀元を開き、四海比隣の実が漸くにして挙らんとして居る。

 然るに爰に遺憾なりしは、米大陸が其の半腹に帯の如き一地峡の存するに由り、地勢は為に蜿蜒長蛇の如く南北に走りて、徒らに太西太平両海洋の聯絡を遮断することであつた、而して此の障壁を除却することに就ては、レセツプ氏以下何れも多大の辛酸を甞められたのであるけれども、不幸にして比々失敗し去つたのであつた、併し其儘に終ることはあるまいと思つて居ると、我が東隣友邦の雄大なる経営に依りて、遂に巴奈馬地峡開鑿の一大工事が竣成し、南北の水は乃ち相通じ、東西の半球は全く比隣と化し去らんとしつ〻ある、東洋の諺に命長ければ恥多しと云ふけれども、輓近五十年間に於ける世界交通の発達と、海運の面積の減縮とは斯の如く顕著なるものがあつて、前後殆んど別乾坤の観あるを思へば、身、昭代に生れたる余慶として、長寿の寧ろ幸福なりしを喜ぶのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.322-325

出典:対米所感(『竜門雑誌』第294号(竜門社, 1913.01)p.13-15)

サイト掲載日:2024年11月01日