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能く集め能く散ぜよ

 金とは現に世界に通用する貨幣の通称であつて、而して諸物品の代表者なのである、貨幣が特に便利であるといふのは、何物にも代り得らる〻からである、太古は物々交換であつたが、今は貨幣さへあればどんなものでも心に任せて購ふことが出来る、此の代表的価値のある所が貴いのである、だから貨幣の第一の要件として、貨幣その物の実価と物品の値とが等しくなければならない、若し称呼のみ同一にして其の貨幣の実価が減少すると、反対に物価は騰貴する、また貨幣は分割に便利である、爰に一円の湯呑がある、之を二人に分けやうと思つても分けることは出来ない、壊して半分にして五十銭宛に分けることは出来ない、貨幣だと其れが出来る、一円の十分の一が欲しいと思ふと、十銭銀貨がある、又貨幣は物の価格を定める、若し貨幣といふものがなかつたなら、此の茶碗と煙草盆の等級を明確に定めることは出来ない、然るに茶碗は一個十銭、煙草盆は一円といふならば、即ち茶碗は煙草盆の十分の一に当り、貨幣あつて両者の価格は定まるのである。

 総じて金は貴ばなければならぬ、これは単に青年ばかりに望むのではない、老人も壮者も男も女も、凡て人の貴ぶべきものである、前にも言つた如く、貨幣は物の代表であるから、物と同じく貴ばなければならぬ、昔禹王といふ人は、些細な物をも粗末にしなかつた、また宋の朱子は、『一食一飯まさに之を作るの難きを思ふべし、半紙半縷来処の易からざるを知れ』と言つてある、一寸の糸屑半紙の紙切、又は一粒の米とても、決して粗末にしては為らないのである、それに就て爰に一つの佳話がある、英蘭銀行に有名なるギルバルトといふ人が、青年時代に目見えの為め銀行に出頭して、その帰る時に、室内に落ちてありし一本の「ピン」を見付けて、ギルバルトは直ちに之を拾つて襟にさした、之を見た銀行の試験役はギルバルトを呼止め、今足下は室内で何かお拾ひになつたやうですが、あれは何ですかと聞くと、ギルバルトは臆する色もなく、一本の「ピン」が落ちて居たが、取り上げれば要用のもので、此儘にして置けば危険であると思つて拾ひ取りましたと答へた、是に於て試験役は大に感心して、更に色々質問して見ると、洵に思慮深い有望な青年であつたので、遂に之を任用し、後年に至りて大銀行家となつたといふことである。

 要するに、金は社会の力を表彰する要具であるから、之を貴ぶのは正当であるが、必要の場合に能く費消するは勿論善いことであるが、よく集めよく散じて社会を活潑にし、従つて経済界の進歩を促すのは有為の人の心懸くべきことであつて、真に理財に長ずる人は、よく集むると同時によく散ずるやうでなくてはならぬ、よく散ずるといふ意味は、正当に支出するのであつて、即ちこれを善用することである、良医が大手術を用ゐて患者の一命を救つた「メス」も、狂人に持たしめると人を傷る道具となる、また老母の孝養に必要なる飴も、賊徒に与ふれば枢の開閉に音なきの盗具となる故に、我々は金を貴んで善用することを忘れてはならない、実に金は貴ぶべく又賤しむべし、之をして貴ぶべきものたらしむるのは、偏へに所有者の人格によるのである、然るに世には貴ぶといふことを曲解して、只無暗にこれを吝む人がある、真に注意せねばならぬことである、金に対して戒むべきは濫費であると同時に、注意すべきは吝嗇である、能く集むるを知りてよく散ずることを知らねば、その極守銭奴となるから、今日の青年は濫費者とならざらんことを勉むると同時に、守銭奴とならぬやうに注意せねばならぬのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.178-182

参考記事:金の威力(『竜門雑誌』第332号(竜門社, 1916.01)p.31-34)

サイト掲載日:2024年03月29日