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私は志の曲つた軽薄才子は嫌ひである、如何に所作が巧みでも、誠意のない人は与に伍するを懌ばないが、併し神ならぬ身には人の志まで見抜くといふことは容易でないから、自然志の良否は兎に角、所作の巧みな人間に利用されぬとも限らぬのである、彼の陽明説の如きは、知行合一とか良知良能とか云つて、志に思ふことが其れ自身行為に現はれるのであるから、志が善ならば行為も善、行為が悪ならば志も悪でなければならぬが、私共素人考へでは、志が善でも所作が悪になることもあり、又所作が善でも志が悪なることもあるやうに思はれる、私は西洋の倫理学や哲学といふやうなことは少しも知らぬ、唯四書や宋儒の学説に由つて、多少性論や処世の道を研究しただけであるが、私の如上の意見に対して、期せずしてパウルゼンの倫理説と合一するといふものがある、其人の言ふには、英国のミユアヘツドといふ倫理学者は、動機さへ善ならば、結果は悪でも可いといふ、謂ゆる動機説で、其の例として、クロムウエルが英国の危機を救はんが為に、暗愚の君を弑し、自ら皇帝の位に上つたのは、倫理上悪でないと云つて居るが、今日最も真理として歓迎せらる〻パウルゼンの説では、動機と結果即ち志と所作の分量性質を仔細に較量して見なければならぬといふ、例へば、均しく国の為といふ戦の中にも、領土拡張の戦もあれば、国家存亡上止むを得ぬ戦もある、主権者としては均しく国家国民の為に計つたとは云へ、必ずしも領土拡張の必要もないのに、其の開戦の時機を誤つたとすれば、其の主権者の行為は悪である、けれども其の無謀の開戦も時宜に適して連戦連勝、大に国を富まし民を啓くの基をなしたといふ場合には、其の行為は善と言はねばならぬ、前例のクロムウエルの場合にも、幸に英国の危機を救ひ得たから善いが、若し志ばかり熱烈であつても、最後に国を危くするやうな結果を招いだ[た]とすれば、矢張り悪行為と判断されねばならぬ。
私はパウルゼンの説が果して真理か何うかは解らぬが、単に志が善ならば其の所作も善だといふミユアヘツドの説よりも、其の志と所作とを較量した上に善悪を定めるといふ説の方が確かなやうに思はれる。
私が常に客を引見して質問に応へることを自分の義務として居るだけ、叮嚀にすると、又頼まれたから止むを得ぬと厭々ながらするのでは、同一の事柄でも其の志が非常に異なる、之と同時に同一の志でも、其の時と所に由つて大に事柄を異にする事もある、詰り土地に肥瘠あり時候に寒暖ある如く、吾人の思想感情も異なつて居るから、同一の志を以て向つても対者に由つて其の結果を異にするのである、だから人の行為の善悪を判断するには、よく其の志と所作の分量性質を参酌して考へねばならぬのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.128-131
出典:志と行(『竜門雑誌』第332号(竜門社, 1916.01)p.28-31)
サイト掲載日:2024年11月01日