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『竜門雑誌』第332号(竜門社, 1916.01)p.28-31

◎志と行

青淵先生

 本篇は国民時報記者が青淵先生を訪ふて「真面目、不真面目」なる問題に就て意見を問ひて十月発行の同誌上に掲載せるものなり但し青淵先生の校閲を経たるものに非ず(篇者識)

▲志と所作

 世間には冷酷無情にして聊かも誠意無く、其の行動常に奇矯不真面目なものが却つて社会の信用を受け成功の栄冠を戴き居るに、之に反して至極真面目にして誠意篤く、所謂忠恕の道に適つた者が却つて世に疎ぜられ落伍者となる塲合が幾程もある。天道は果して是耶非耶、此の矛盾を研究するのは誠に興味ある問題である。

 思ふに人の行為の善悪は、其の志と所作と相俟つて較量せねばなるまい。志が如何に真面目で忠恕の道に適つてゐても、其の所作が遅鈍であるとか放辟邪肆では何にもならぬ。志に於ては飽まで人の為になれかしと思ふてゐても、其の所作が人の害になるやうでは善行と云はれぬ。昔の小学読本に『親切の却つて不親切になりし話』と題して、雛の孵化せんとして卵子の殻から離れずに困つてゐるのを見て、親切な子供が殻を剝いてやつた処が、却つて死んで了つたといふ話があるが、孟子にも之と同じやうな例が沢山あつたやうに記憶する。文句は一々覚えてゐないが、人の為を計るといつても其の室に闖入し其の戸を破る、之をしも忍ぶかといつたやうな意味や、それから梁の恵王が政事を問ふた時に、庖に肥肉あり廐に肥馬あり、民に飢色あり、野に餓莩あり、此れ獣を率ゐて人を食ましむるもの也、と云つて、刃を以て人を殺すも、政事を以て人を殺すも同じだと断定してゐる。それから告子と不動心説を論じた処に、心に得ずとも気に求むること勿れとは可なれども、言に得ずとも心に求むる事勿れとは不可也、夫れ志は気の帥也気は体の充てる也夫れ志は至れり、気は次ぐ、故に曰く、其の志を持して其の気を暴ふ事無かれとある。之は志即ち心は本で、気は心の所作となつて現れる末である。志は善で忠恕の道に適つてゐても、出来心といつて偶と志に適はぬ事をする事が往々ある。だから其の本心を持して出来心たる気を暴はぬやう。即ち所作に間違の無いやうに不動心術の修養が肝要である。孟子自身は浩然元気を養ふて此の修養に資したが、凡人は兎角所作に間違を来し易い。孟子は其例として、宋人有閔其苗之不長而揠之者芒芒然帰。謂其人曰今日病矣。予助苗長矣。其子趨而往視之。苗則稿[槁]矣。云々と、大に告子を罵倒してゐる。苗を長ぜしめるには水の加减、肥料の加减、若しくは草を艾除する事に由らなければならぬのに、之を引き抜て長ぜしめやうとするのは如何にも乱暴である。孟子不動心術の可否は兎に角、世間往々苗を助けて長ぜしむるの行為ある事は争はれぬ事実である、苗を長ぜしめたい、といふ其の志は誠に善であるが、之を抜くといふ所作が悪である、此の意味を拡充して考へると、志が如何に善良で忠恕の道に適つてゐても、所作が之に伴はなければ世の信用を受ける事が出来ぬ訳である。

▲所作と志

 之に反し、志が多少曲つて居つても、其の所作が機敏で忠実で人の信用を得るに足るものがあれば其の人は成功する。行為の本である志が曲つてゐても所作が正しいといふ理屈は厳格に云へば有らう筈は無いが、聖人も欺くに道を以てすれば与し易きが如く、実社会に於ても人の心の善悪よりは其の所作の善悪に重きを置くが故に、それと同時に心の善悪よりも行為の善悪の方が判別し易きが故に何うしても所作の敏活にして善なる者の方が信用され易い。例へば昔将軍吉宗公が巡視された時、親孝行の者が老母を背負て拝観に出て褒美を貰ふた、処が平素不良の一不頼漢が之を聞いて、それでは俺も一つ褒美を貰ふてやらうと、他人の老婆を借りて背負ふて拝観に出懸た。吉宗公が之に褒美を下さると側役人かち[ら]彼は褒美を貰はん為の偽孝行であると故障を申立てた、すると吉宗公は、イヤ真似は結構であると篤く労はれたといふ事である。又孟子の言に西施も不潔を蒙らば則ち人皆鼻を掩ふて之を過ぐ、といふのがある。如何に傾国の美人と雖も汚穢を蒙つてゐては誰とて側へ寄る人は無からう、それと同時に内心如夜叉でも嬌々阿娜として居れば、不知不識迷ふのが人情である。だから志の善悪よりは所作の善悪が人の目に着き易い、従つて巧言令色が世に時めき、諫は耳に逆ひ、兎もすれば忠恕の志ある真面目な人が貶黜せられて、天道是耶非耶の嘆を洩すに引反へ、悪賢い人前の上手な人が比較的成功し信用さる〻所以である。

▲私はお上手者は嫌ひ

 併し私などは、志の曲つた軽薄才子は嫌ひである、如何に所作が巧みでも誠意の無い人は倶に伍するを喜ば無いが、然し神ならぬ身には人の志まで見㧞くといふ事は容易でないから、自然志の良否は兎に角所作の巧みな人に利用されぬとも限らぬのである。彼の陽明説の如きは、知行合一とか良知良能とか云つて、志に思ふ事がそれ自身行為に現れるのであるから、志が善ならば行為も善、行為が悪ならば志も悪でなければならぬが、私共の素人考へでは志が善でも所作が悪になる事もあり、又所作が善でも志が悪なる事もあるやうに思はれる[、]私は西洋の倫理学や哲学といふやうな事は少しも知らぬ、唯四書や宋儒の学説に因つて多少性論や処世の道を研究しただけであるが、私の如上の意見に対して、期せずしてパウルゼンの倫理説と合一すると云ふ者がある。その人の云ふには英国のミユアヘツドといふ倫理学者は、動機さへ善ならば結果は悪でも可いと云ふ所謂動機説で其の例としてクロムウエルが英国の危機を救はんが為に、暗愚の君を弑し、自ら皇帝の位に上つたのは倫理上悪でないと云ふて居るが今日最も真理として歓迎せらる〻パウルゼンの説では、動機と結果即志と所作の分量性質を仔細に較量して見なければならぬといふ。例へば均しく国の為といふ戦の中にも、領土拡張の戦もあれば国家存亡上止むを得ぬ戦もある。主権者としては均しく国家国民の為に計つたとは云へ、必らずしも領土拡張の必要もないのに、其の開戦の時機を過つたとすれば、其の主権者の行為は悪である。けれども其の無謀の開戦の時宜に適し連戦連勝、大に国を富まし民を啓く基をなしたといふ塲合には其の行為は善といはねばならぬ。前例のクロムユルの塲合にも、幸に英国の危機を救ひ得たから可いが、若し志ばかり熱烈であつても最後に国を危くするやうな結果を招いたとすれば、矢張悪行為と判断されねばならぬ。

 私などには、パウルゼンの説が果して真理か何うかは解らぬが、単に志が善ならば其の所作も善だといふミユアヘツドの説よりも其の志と所作とを較量した上善悪を定めるといふ説の方が確かなやうに思はれる。

 私共が客を引見して質問に応へる事を自分の義務として出来るだけ叮嚀にすると、又頼まれたから止むを得ぬと嫌々ながらするのでは、同一の事柄でも其の志が非常に異る、之れと同時に同一の志でも其の時と塲合に由つて大に事柄を異にすることもある、つまり土地に肥瘠あり、時候に寒暖あるが如く吾人の思想感情も異つて居るから、同一の志を以て向つても対者に由つて其の結果を異にするのである。だから人の行為の善悪を判断するには、よく其の志と所作の分量性質を参酌して考へねばならぬ。此の意味に於て複雑なる社会に於ては不真面目な人でも所作が巧みであれば人に信用され易く、又真面目な人でも所作が拙であれば不遇に終るやうな事もあるのである。

親切らしき不親切(常識と習慣)

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