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 戦争して負けては困るが、唯国力を挙げて戦争にのみ奔るといふことは王道に適するものでは無い、今日の時局に対して我々は左様な事まで心配せぬでも宜い訳であるが、是から先きの商工業は如何にしたら宜からうか、平和が克復したら其後の実業界は如何なるかといふやうな事に就ては、意想外なる変化を生じて、中には悪いと思つたことが善くなり、善いと思ふたことが悪くもならうから、今日から臆断は出来ない、併し人は未来の事に向つて是非とも理想は持つべきものであるから、仮令違却するとも一定の主

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義に依て行ふといふやうなことが無ければ為らぬ、詰り能く思ひ審かに考へて事に当れば、必ず過は尠いものである、戦争の如き事変の勃発には、曾て想像したものに違却を生ずることはあるが、凡そ人の世に処するには、相当の趣味と理想とを以て道理から割出して進むのが必要であると思ふ、只その間に謂ゆる商業の徳義は如何しても立て通すやうにして、最も重要なるは信である、此の信の一字を守ることが出来なかつたならば、我々実業界の基礎は鞏固といふことは出来ないのである、約言すれば、時局の平和となつた暁には、別して我々実業に従事する者の責任が重くなるのであらうと思ふ、独り責任が重いのみならず、諸君が経営せらる〻事業に就ても、是が如何になるかといふ事を予想して、その予想から十分なる道理を考定して、是に由つて活動せらる〻やうにありたいと考へる、『道理ある希望を持つて活潑に働く国民』といふ評語は概括的な言葉で
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あるが、先頃或亜米利加人が我が同胞を評して、日本人の全体を観察すると、各人皆希望を以て活潑に勉強する国民であると言はれて、私は大に悦びました、私も斯く老衰しては居るが、向後益々国家の進運を希望として居る、また多数の人々の幸福を増すことを希望として居る、実業家諸君も亦同様であらうと思ふ、時局の有無に関はらず、苟くも実業に従事するものは斯くありたい、将来は斯うしなければならぬと云ふ希望は誰もあるに相違ない。

 況んや斯る大戦に際しては、将来どう変化するだらうかといふ予想は、最も慎思熟慮を要すること〻思ふ、その経営せらる〻事業に応じて宜しきを制して行くといふことは必要だらうと思ふが、之を処するに就て是非一つ守らなければならぬことは、前にも述べた商業道徳である、約すれば信の一字である、是が御同様実業者に健全に行はれて往

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つたならば、私は日本の実業界の富は更に増大して、同時に人格も大に進むであらうと思ふ、単に時局に就てのみ希望する訳ではないが、斯る時機は別して変化が多いことを予想すると、お互に負担して居る職分から考へたら、宜しきを制することが出来るであらうと思ふのである。

 如何なる仕事に対しても、近頃の流行語に趣味を持たねば不可ぬといひますが、此の趣味といふ語の定義がどの辺にあるか、学者でないから完全なる解釈を下すことは出来ないが、人が職掌を尽すといふにも、此の趣味を持つといふことを深く希望する、趣味といふ字は理想とも聞えるし、慾望とも聞えるし、或は好み楽しむといふやうな意味

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にも聞える、故に此の趣味といふ字を約めて解釈したならば、単に其の職分を表面通りに勤めて往くと言ふのは、俗にいふ御極まり通りで、只その命令に従つて之を処して行くのである、併し趣味を持つて事物を処するといふのは、我心から持出して、此の仕事は斯くして見たい、斯うやつて見たい、斯うなつたから、是を斯うやつたならば、斯くなるであらうと云ふやうに、種々の理想慾望をそこに加へてやつて行く、其れが始めて趣味を持つたといふこと、即ち趣味といふのは其辺にあると、私は理解する、趣味の定義はどうであるか知らぬが、是非人は其の掌ることに就て、総て此の趣味を持たれたいと思ふ、更に一歩進んで、人として生れたならば、人たる趣味を持つて尽したいと思ふ、果して此世に一人前の趣味を持つて、其の趣味が真正に向上して往つたら、其れこそ相応の功徳が世の中に現はれ得るであらう、それまでに無くとも、趣味ある行動であつた
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ならば、必ず其の仕事に就て精神あることであらうと思ふ、若し其のお極まり通りの仕事に従ふのであつたら、生命の存在したものでなくて、た〻゙ 形の存したものとなる、或る書物の養生法に、若し老衰して生命が存在して居つても、唯だ食うて、寝て、其の日を送るだけの人であつたならば、それは生命の存在では無くして、肉塊の存在である、故に人は老衰して、身体は十分に利かぬでも、心を以て世に立つ者であつたら、即ちそれは生命の存在であるといふ言葉があつた、人間は生命の存在たり得たい、肉塊の存在たり得たくないと思ふ、これは私共頽齢のものは、始終それを心掛けねばならぬ、まだあの人は生きて居るか知らんと云はれるのは、蓋し肉塊の存在である、若しさういふ人が多数あつたならば、此の日本は活き〳〵はせぬと思ふ、今日世間に名高い人で、まだ生きて居るかと言はれる人が沢山ある、是は即ち肉塊の存在である、故に事業を処する
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にも其通り、唯だ其の務めるだけでなく、其事に対して趣味を持たなければ不可ぬ、若し趣味がないなら精神がなくなつて了ふ、恰度木偶人と同様になる、斯の如き訳であるから、何事でも自己の掌ることに深い趣味を以て尽しさへすれば、自分の思ふ通りに総てが行かぬまでも、心から生ずる理想若くは慾望の或る一部に適合し得らる〻ものと思ふ、孔子の言に『之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽む者に如かず』とある、蓋し之は趣味の極致と考へる、自分の職掌に対しては必ず此の熱誠がなくてはならぬのである。

 道徳といふものは、他の理学化学のやうに、段々進化して行くものであるか、詰り道

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徳は文明に従つて進化すべきものであるかと云ふのである、一寸了解し難い言葉であるが、前にも言ふ如く、宗教信念を以て道徳を堅固にするが宜いか、さなくとも論理の上から徳義心は維持出来るものであると云ふやうに、追々其の解釈が進化し来りはせぬか、蓋し道徳といふ文字は、支那古代の唐虞の世より、王者の道といふのが即ち道徳の語原である、故に道徳といふ文字は余程古い。

 進化は生物のみでは無い、若しもダーヴヰン氏の説に拠りて、古いものは自然に進化すべしと言は〻゙ 、科学の発明、生物の進化に伴つて、追々に変更するといふことになつて然るべき訳ではないか、但し進化論は多くの生物に就て説明したやうであるけれども、研究を重ねて往つたならば、生物でなくても追々推移変更するものではないか、変るといふよりは寧ろ進み行く有様がありはせぬか、何時頃の教であるか知らぬが、支那で唱

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へる二十四孝は、種々なる孝行の例を二十四挙げてある、其の中に最も笑ふべきは郭巨といふ人が、其の身貧にして親を養ふ資財なく、為めに吾が児を生埋にしやうと思つて土を掘つたら釜が出た、其の釜の中に多くの黄金があつたので、吾が児を生埋にせずとも親を養ふことが出来た、即ち孝の徳であると云うて居る、若し今の世の中で、親孝行の為めに我が児を生埋にすると云ふたならば、馬鹿な事をする、困つたものだと人が評するに相違ない、即ち孝の一事にしても、世の進歩に伴れて人の毀誉が異ると云つても宜いと思ふ、更に一の例を云へば、王祥が親を養ひたい為に、鯉魚を捕ふるとて、裸体になつて氷の上に寝て居つたら、鯉が飛出したといふことがある、是は戯作かも知らぬが、若し事実としたならば、如何に孝道なればとて、其の心の神に感通する前に身体が凍死したならば、却つて孝道に反するであらう。

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 想ふに二十四孝の教旨の如きは、仮設のものにて的例にはなり難きも、善事といふことに就ては、見方が世の進歩と共に色々に変るといふことがありませぬか、若し或る物質に就て考へたら、即ち電気もなく蒸気も無かつた時のことを今日から回想して、殆んど並べ較べにならぬやうになる、故に道徳といふものも左様にまで変化するものであれば、昔の道徳といふものは余りに尊重すべき価値は無くなるが、併し今日理化学が如何に進歩して、物質的の智識が増進して行くにもせよ、仁義とか云ふものは、独り東洋人が左様に観念して居る許りではなく、西洋でも数千年前からの学者、若くは聖賢とも称すべき人々の所論が、余り変化をして居らぬやうに見える、果して然らば古聖賢の説いた道徳といふものは、科学の進歩に依て事物の変化する如くに変化すべきものでは無からうと思ふのである。

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 強い者の申分は何時も善くなると云ふことは、一つの諺として仏国に伝はつて居るけれども、漸々文明が進めば、人々道理を重んずる心も、平和を愛する情も増して来る、相争ふ所の惨虐を嫌ふ念も、文明が進めば進む程強くなる、換言すれば、戦争の価値は世が進むほど不廉となる、何れの国でも自ら其所に顧みる所があつて、極端なる争乱は自然に減ずるであらう、又必ず減ずべきものと思ふ、明治三十七八年頃、露西亜のグルームとかいふ人が、『戦争と経済』といふ書を著作して、戦争は世の進むほど惨虐が強くなる、費用が多くなるから、遂には無くなるであらう、といふ説を公にしたことがある、曾て露西亜皇帝が平和会議を主張されたのも、是等の人の説に拠つたものであると、

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誰やらの説に見たことがある、夫程に戦争の惨虐なものであるといふ事が唱へらる〻位だから、今度の如き全欧州の大戦乱なぞは、決して起るべきもので無いやうに思はれて居つたが、丁度昨年(大正三年)の七月末に日々各新聞紙の報導を見た頃、私は両三日旅行して、如何なるかといふ人の問に答へて、新聞紙で一見すれば戦争が起ると信ぜられるが、先年亜米利加のジヨルダン博士が「モロツコ」問題の生じた時に、米国に有名なる財政家ゼー、ビー、モルガン氏の忠言の為に戦争が止んだといふことを、電報でいつて来たと言うて、―博士は素より平和論者であるから、平和に重きを措いたのであらうが―特に手紙を寄越したことがある、私も其説を深く信じた訳では無かつたけれども、世の進歩の度が増すに随つて人々が能く考慮するから、戦乱は自然と減ずるといふ道理が起つて来る訳で、それは自然の勢ひと思はれると申したことであつた。

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 然るに今日欧羅巴の戦争の有様は、細かに承知はしないが、実に惨澹たる有様である、殊に独逸の行動の如きは、謂ゆる文明なるものは何れにあるか分らぬと云ふやうな次第である、蓋し其の根源は、道徳といふものが国際間に遍ねく通ずることが出来ないで、遂に是に至つたものと思ふ、果して然らば凡そ国たるものは斯る考を以てのみ、其の国家を捍衛して行かねばならぬものであるが、何とか国際の道徳を帰一せしめて、謂ゆる弱肉強食といふことは、国際間に通ずべからざるものとなさしむる工夫が無いものであらうか、畢竟政治を執る人、及び国民一般の観念が、相共に自己の勝手我儘を増長するといふ慾心が無かつたならば、此の如き惨虐を生ぜしむることは無からうけれども、一方が退歩すると他方が遠慮なく進歩して来るやうでは、此方も進まなければならぬから、勢ひ相争ふやうになり、結局戦争せねばならぬことになる、殊更その間に人種関係もあ
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り、国境関係もありませうから、或る一国が他の一国に対して勢力を張るのは其意を得ない、之を止めるには平和では不可ぬといふので、遂に相争ふやうになるのである、蓋し己の欲する所を人に施さないのであつて、た〻゙ 我を募り慾を恣にし、強い者が無理の申分を押通すといふのが今日の有様である。

 一体文明とは如何なる意義のものであるか、要するに今日の世界は尚だ文明の足らないのであると思ふ、斯く考へると、私は今日の世界に介在して将来我が国家を如何なる風に進行すべきか、又我々は如何に覚悟して宜いか、已む事を得ずば其の渦中に入つて弱肉強食を主張するより外の道はないか、是非これに処する一定の主義を考定して、一般の国民と共に之に拠りて行くやうにしたいと思ふ、我々は飽くまでも己れの欲せざる所は人にも施さずして、東洋流の道徳を進め、弥増しに平和を継続して、各国の幸福

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を進めて行きたいと思ふ、少くとも他国に甚しく迷惑を与へない程度に於て、自国の隆興を計るといふ道がないものであるか、若し国民全体の希望に依つて、自我のみ主張する事を止め、単に国内の道徳のみならず、国際間において真の王道を行ふといふ事を思ふたならば、今日の惨害を免れしめることが出来やうと信ずる。

 人は此の世に生れた以上、必ず何等かの目的がなくては叶はぬことだが、其の目的とは果して何事であるか、如何にして遂げ得べきか、これは人の面貌の異れる如く、各自意見を異にして居るであらうが、恐らくは次の如く考ふる人もあるであらう、それは自己の長じたる手腕にせよ、技倆にせよ、それを十分に発揮して力の限りを尽し、以て君

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父に忠孝を効し、或は社会を救済しようと心懸ける、併し其れも漠然と心で思ふだけでは何にもならぬ、矢張り何等か形式に現はして為なければならぬので、茲に己の修め得たる材能に依頼して、各自の学問なり、技術なりを尽すやうにする、例へば、学者ならば学者としての本分を尽し、宗教家ならば宗教家としての職責を完うし、政治家も其の責任を明かにし、軍人も其の任務を果すといふやうに、各自に其の能力の有らん限りを傾けて之に心を入れる、斯の如き場合に於ける其の人々の心情を察するに、寧ろ自己の為といふよりは君父の為め、社会の為といふ観念といふ方が勝つて居る、即ち君父や社会を主とし、自己のことをば賓と心得て居るので、余は之をしも客観的人生観とは名くるのである。

 然るに前陳のやうなことは全く反対に、唯々簡単に自分一人のことばかり考へ、社会

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のことや他人のことなぞ考へない者もあるであらう、併し此人の考の如く社会を観察すれば、矢張り其所に理屈がないでもない、即ち自己は自己の為に生れたものである、他人の為や社会の為に自己を犠牲にすることは怪しからぬではないか、自己の為に生れた自己なら、何所までも自己の為に計るが可いとの主張から、社会に起る諸事件に対し、出来得る限り自己に利益になるやうにばかりして行く、例へば、借金は自分の為に自分がしたのだから、是は当然払ふべき義務があるから払ふ、租税も自分が生存しつ〻ある国家の費用だから、当然に上納する、村費も亦左様であるが、此上他人を救ふ為に、或は公共事業の為に義捐するといふやうな責任は負はない、それは他人のため社会の為にはなるであらうが、自分の為にならぬからだとなし、何でも自己の為に社会を経営させようとする[。]即ち自己を主として他人や社会をば賓と心得、自己の本能を満足せしめ、自
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我を主張するを以て能事終れりとする、余は此の如きものを名けて主観的人生観とは言ふのである。

 余は今是等二者の中、事実に於て如何と考ふるに、若し後者の如き主義を以て押し通すときは、国家社会は自ら粗野となり、鄙陋となり、終には救ふべからざる衰頽になりはすまいか、それに反して前者の如き主義で拡充してゆけば、国家社会は必ず理想的のものとなつてゆくに相違ない、故に余は客観的に与して主観的をば排斥するのである、孔子の教に『仁者は己れ立たんと欲して先づ人を立て、己れ達せんと欲して先づ人を達す』と曰うてあるが、社会のこと人生のことは総て斯うなくては為らぬこと〻思ふ、己れ立たんと欲して先づ人を立てといひ、己れ達せんと欲して先づ人を達すといへば、如何にも交換的の言葉のやうに聞えて、自慾を充たさう為に、先づ自ら忍んで人に譲るの

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だといふやうな意味にも取れるが、孔子の真意は決してそんな卑屈なもので無かつたに違ひない、人を立て達せしめて、然る後に自己が立ち達せんとするは、其の働きを示したもので、君子人の行の順序は此くあるべきものだと教へられたに過ぎぬのである、換言すれば、それが孔子の処世上の覚悟であるが、余も亦人生の意義は此くあるべき筈だと思ふ。

 私共の組織して居る帰一協会といふのがある、帰一といふのは外でもない、世界の各種の宗教的観念、信仰等は、遂に一に帰する期のないものであらうか、神といひ、仏といひ、耶蘇といひ、人間の履むべき道理を説くものである、東洋哲学でも西洋哲学でも、

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自然些細な事物の差はあるけれども、その帰趣は一途のやうに思はれる、『言忠信、行篤敬なれば、蛮狛[貊]と雖も行はれん』といひ、反対に『言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里と雖も行はれんや』と云つて居るのは、これは千古の格言である、若し人に忠信を欠き行が篤敬でなかつたならば、親戚故旧たりとも其人を嫌がるに違ひない、西洋の道徳も矢張り同じやうな意味のことを説いて居る、但だ西洋の流義は積極に説き、東洋の流義は幾分か消極に説いてある、例へば、孔子教では『己の欲せざる所、人に施す勿れ』と説いてあるのに、耶蘇の方では『己の欲する所、これを人に施せ』と、反対に説いてあるやうなもので、幾分かの相違はあるけれども、悪いことをするな、善いことをせよと云ふ、言ひ現はし方の差異で、一方は右から説き、一方は左から説き、而して帰する所は一である、斯様に程合のもので、深く研究を進めるならば、各々宗派を分ち、門戸を
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異にして、甚しきは相凌ぐといふやうなことは、実は馬鹿らしい事であらうと考へる、凡てに於て帰一が出来るか否かは判らぬけれども、或る程度の帰一を期し得るものなれば、左様あらしめたいといふ考へで、組織せられたのが即ち帰一協会である。

 組織以来最早数年を経過して居る、之が会員は日本人ばかりでなく、欧米人も多少は居て、而して或る問題に就てお互に研究し合つて居る、私は即ち仁義道徳と生産殖利といふことは、一致すべきものであり、一致させたいものであることに就て、自分は四十年来その事を唱道し実践して居る、併しながら道理は左様であるけれども、之に反する事実が屡次世間に現はれるのは、真に情ない次第である。

 自分の説に対して平和協会のボール氏とか、井上博士、塩沢博士、中島力蔵博士、菊地大麓男などは、全然帰一とまでは行かないにしても、必ず或る程度までは帰一し得ら

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るべきものである、世の中の物事が、時としては横道に外れるやうなこともあるが、其れはその事物が悪いので、その為に真理は少しも晦まされるものでは無い、昔は斯うであつたとか、斯ういふ理論もあるとか曰はれて、仁義道徳を生産殖利とは必ず一致すべきもの、又一致せなければ真正の富を造り成し、之を永久に捕捉することの出来ないものであると云ふことは、大抵の議論が帰著しようと思ふと言つて居られる、若し果して斯ういふ論旨が十分に徹底して、世の中に鼓吹せられ、生産殖利は必ず仁義道徳に依らねばならぬ、と言ふ観念が打成されたならば、仁義道徳に欠ける行為は自ら止むに至るであらう、例へば、御用物品の買上に従ふ職司の人も、賄賂は仁義道徳に背くと心付けば、迚も賄賂を収め得るものでない、御用商人の側から云うても、仁義道徳に背戻すると思へは[ば]、賄賂を行うことは出来まい。

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 此の関係を押し進めて政治にせよ、法律にせよ、軍事にせよ、有らゆる事柄を此の仁義道徳に一致させなければ不可ない、一方は仁義道徳に従つて正しき商売の道を履んでも、一方が賄賂を要請するといふやうな片足では不可ない、世の中のことは殆んど車を廻すやうなもので、お互に仁義道徳を守つて行かなければ、必ず何所に扞格を生ずるのであるから、一切の事柄をして仁義道徳に合致せしむるやう、相互に努めなければならぬ、此の主義を十分に拡大して広く社会に行ふならば、賄賂などといふやうな、忌はしいことは自ら止むに至るであらう。

 社会の事柄は年を逐うて進んで来るやうにも見える、また学問も内からと外からと、

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次第々々に新しいものを齎して来る、社会は日に月に進歩するには相違ないが、世間のことは久しくすると、その間に弊を生じ、長は短となり、利は害となるを免れぬ、特に因襲が久しければ、潑溂の気がなくなる、故に古人も曰つた、支那の湯の盤の銘に『苟日新、日日新、又日新』とある、何でもないことだが、日々に新にして又日に新なりは面白い、総て形式に流れると精神が乏しくなる、何でも日に新の心懸が肝要である。

 政治界に於ける今日の遅滞は、繁縟に流れるからのことである、官吏が形式的に、事柄の真相に立ち入らずして、例へば、自分にあてがはれた仕事を機械的に処分するを以て満足して居る、イヤ官吏ばかりでない、民間の会社や銀行にも、此の風が吹き荒んで来つ〻あるやうに思ふ、一体形式的に流れるのは、新興国の元気欝勃たる所には少いもので、長い間、風習がつ〻゙ いた古国に多いものである、幕府の倒れたのは其の理由から

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であつた、『滅六国者六国也、非秦也』と曰つてある、幕府を滅したるは幕府の外なかつた、大風が吹いても強い木は倒れぬ。

 自分は宗教観念を今でも持たぬが、併し其れかと言つて外道で守る所がないと云ふのではない、私は儒教を信仰して、是を言行の規矩として居る、『獲罪於天無所祷』である、私一人は其れで可いが、一般民衆は爾うは行かぬ、智識の程度の低い者には、矢張り宗教がなければ、ならぬ所が、今日の状態は、天下の人心帰一する所なく、宗教も亦形式となつて、お茶の流派流儀と云つたやうな憾がある、民衆に嚮うべき所を教へぬ、是は何とかせねばなるまい。

 此の状態に対して善い施設をせねばならぬと思ふ、今日は迷信などが中々盛んであつて、そのお蔭で田を流したの、倉をなくしたのといふものが多い、宗教家が本当に力を

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入れて起たなければ夫等の勢は益〻盛んになるばかりであらう、西洋人は言ふ、『信念強ければ、道徳は必要なし』と、その信念を持たせねばならぬ。

 商売は己を利することを眼目とする為に、自分さへ利すれば其れで可い、他人の迷惑は知らぬ存ぜぬといふ考を持つて居る人がある、それ故に利殖と道徳とは一致せぬといふ人もあるが、これは間違ひで、そんな古い考は今の世に通用させてはならぬ、維新頃までは、社会の上流、士大夫ともいふべき人は利殖に関係しないで、人格の低いものが之に当るといふのであつた、その後此の風習は改まつたが、まだ余喘を保つて居る。

 孟子は、利殖と仁義道徳とは一致するものであると曰つた、其後の学者が此の両者を引き離して了つた、仁義をなせば富貴に遠く、富貴なれば仁義に遠かるものとして了つた、町人は素町人と呼びて賤められ、士の倶に齢ひすべきものでないとせられ、商人も

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卑屈に流れ、儲け主義一天張りとなつた、是が為に経済界の進歩は幾十年幾百年遅れたか分らぬ、今日は漸次消滅しつ〻あるが、まだ不足である、利殖と仁義の道とは一致するものであることを知らせたい、私は論語と十露盤とを以て指導して居る積りである。

 余が十五歳の時であつた、自分には一人の姉が脳を患つて発狂し、二十歳といふ娘盛りでありながら、婦人にあるまじき暴言暴行を敢てし、狂態が甚だ強かつたので、両親も余も之を非常に心配した、兎に角女のことであるから、他の男に其の世話はさせられぬ、余は心狂へる姉の後ろに附随して歩き、様々に悪口されながらも、心よりの心配に駆られて能く世話をしてやつたので、その頃近所の人々の褒め者であつた、然るに此の

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心配は独り一家内の上ばかりでなく、親戚の人々も等しく憂慮して呉れたが、中にも父の実家なる宗助の母親は大の迷信家であつたので、此の病気は家に崇のある為であるかも知れぬから、祈祷するが宜いと頻りに勧誘したけれども、父は迷信が大嫌ひで、容易に聞入れなかつたが、その中に姉を伴れて転地保養かた〴〵上野の室田といふ所へ行かれた、此の室田といふ所は有名の大滝がある所で、病人を其の滝に打たすれば宜いとのことであつた、しかるに父の出た後、母はとう〳〵宗助の母親に説き伏せられ、父の留守中に家にあるといふ崇を払ふため、遠加美講といふものを招いで御祈祷することになつた、余も父と同じく少年時代より迷信をひどく嫌つたので、其の時極力反対したけれども、未だ十五歳の子供の悲しさ、一言の下に伯母なぞに𠮟りつけられて、余が説は通らない。

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 さて両三人の修験者が来て其の用意に掛つたが、中座といへる者が必要なので、その役には近い頃家に雇入れた飯焚女を立てることになつた、而して室内には注連を張り、御幣などを立て〻厳かに飾りつけをし、中座の女は目を隠くし、御幣を持つて端坐して居る、その前で修験者は色々の咒文を唱へ、列座の講中信者などは、大勢して異口同調に遠加美といふ経文体のものを高声に唱へると、中座の女、初めの程は眠つて居るやうであつたが、何時かは知らず持つて居る御幣を振立てた、この有様を見た修験者は、直ちに中座の目隠を取つて其の前に平身低頭し『何れの神様が御臨降であるか、御告を蒙りたい』などと曰ひ、それから『当家の病人に就て何等の崇がありますか、何卒お知らせ下さい』と願つた、すると中座の飯焚女めが如何にも真面目くさつて、『此の家には金神と井戸の神が崇る、又この家には無縁仏があつて、それが崇をするのだ』と、さも横
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柄に曰ひ放つた、それを聞いた人々の中でも、別して初めに祈祷を勧誘した宗助の母親は得たり顔になつて、『それ御覧、神様の御告は確かなものだ、成る程老人の話に、何時の頃か、此の家から伊勢参宮に出立して其れ限り帰宅せぬ人がある、定めし途中で病死したのであらうと云ふことを聞いて居たが、今御告の無縁仏の崇といふのは、果して此の話の人に相違あるまい、どうも神様は明かなものだ、実に有難い』と曰つて喜び、而して此の崇を清めるには如何したら宜からうと謂ふ所から、復た中座に伺つて見ると、『それは祠を建立して祀りをするが宜い』と曰つた。

 全体余は最初から此事には反対であつたので、いよいよ祈祷するに就ては、何か疑はしき所でも有つたらばと思つて始終注目して居たが、今無縁仏と曰つたに就て、『其の無縁仏の出た時は凡そ何年程前の事でありませうか、祠を建てるにも碑を建てるにも、そ

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の時代が知れなければ困ります』と言つたら、修験者は重ねて中座に伺つた、すると中座は『凡そ五六十年以前である』というたので、又押返して『五六十年以前なら何といふ年号の頃でありますか』と尋ねたら、中座は『天保三年の頃である』と曰つた、所が、天保三年は今より二十三年前の事であるから、其所で余は修験者に向ひ、『只今御聞きの通り、無縁仏の有無が明かに知れる位の神様が、年号を知らぬといふ訳はない筈のことだ、斯様いふ間違があるやうでは、まるで信仰も何も出来るものぢやない、果して霊妙に通ずる神様なら、年号ぐらゐは立派に御解りにならねばならぬ、然るに此の見易き年号すらも誤る程では、所詮取るに足らぬものであらう』と詰問の矢を放つた、宗助の母親は横合から『其様なことを言ふと神罰が当る』といふ一言を以て自分の言葉を遮つたが、これは明白の道理で、誰にも能く解つた話だから、自然と満座の人々も興を冷まし
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て修験者の顔を見詰めた、修験者も間が悪くなつたと見えて、『是は何でも野狐が来たのであらう』と言ひ抜けた、野狐といふことなら、猶更祠を建てるの、祀をするのといふことは不用だといふので、詰り何事もせずに止めることになつた、それゆゑ修験者は自分の顔を見て、『さて〳〵、悪い少年だ』と曰はぬばかりの顔付で睨まへた、私は勝誇りたる会心の笑を禁ずることが出来なかつた。

 それぎり宗助の母親はぷツつり加持祈祷といふことを廃めて了つた、村内の人々は此事を伝へ聞いて、以来修験者の類を村には入れまい、迷信は打破すべきものぞといふ覚悟を有つやうになつた。

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 文明と野蛮といふ文字は相対的で、如何なる現象を野蛮といひ、如何なる現象を文明といふか、其の限界は随分六ケ敷いけれども、要するに比較的のものであるから、或る文明は更に進んだ文明から見ると、矢張り野蛮たるを免れないと同時に、或る野蛮は其れより一層甚しい野蛮に対すると文明と言へる訳になるけれども、今日之を論ずるに当りては、唯一の空理にあらずして実現されて居る所のものを例とするより外はない、但し一郷、一都市に就ても文化の程度を異にするけれども、先づ一国を標準とするのが文明野蛮といふ文字に相応しいと思ふ、私は世界各国の歴史、若くは現状を詳細に調べて居らぬから、細密なるお話は出来ぬけれども、英吉利とか仏蘭西とか独逸とか亜米利加とかいふ国々は、今日世界の文明国と云うて差支ないであらう、其の文明なるものは何であるかと云ふに、国体が明確になつて居て、制度が儼然と定つて、而して其の一
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国を成すに必要なる総ての設備が整うて、勿論諸法律も完備し、教育制度も行き届いて居る。

 斯の如く百揆皆整うて居るからと云うて、未だ文明国とは言へない、其の設備の整うて居る上に、一国を十分に維持し活動すべき実力がなくてはならぬ、此の実力といふことに就ては兵力にも論及せねばならぬが、警察の制度も、地方自治の団体も、皆その力の一部分である、斯の如きものが十分に具備して居る上に、彼此おの〳〵克く其の権衡を得て相調和し相聯絡して、一方に重きを措き過ぎるとか、若くは統一を欠くとかいふことの無いのが即ち文明と言ひ得るだらう、換言すれば、一国の設備が如何に能く整うて居ても、之を処理する人の智識能力が其れに伴はなければ、真正なる文明国とは謂はれない、但し前に述べたる如き、完全なる設備の整うて居る国で、之を運用する人は不

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完全であるといふことは、先づ少い道理であるが、或る場合には表面の体裁は完全に見ゆるが、根本が堅実でない場合もあり得ることで、謂ゆる優孟の衣冠で、立派な着物も其の人柄に似合はぬといふやうな事がないとは言はれぬ、故に真正の文明といふことは総ての制度文物の具備と、其れから一般国民の人格と智能とによりて始めて言ひ得るだらうと思ふ、斯く観察すれは[ば]、最早貧富といふことは論ぜぬでも、文明といふ中には自ら富の力が加はつて居ると見て宜しいけれども、形式と実力とは必ずしも一致するものに非ずして、形式が文明であつても実力は貧弱、是は甚だ不権衡の言ではあるけれども、必ず無いとは言はれない、故に曰く、真正の文明は強力と富実とを兼ね備ふるものでなければならぬ。

 さて一国の進歩は孰れに傾くかといふに、古来各国の実例を観るに、多く文化の進歩

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が先にして、実力が後より追随するやうに思はれる、殊に国によりては兵力が先づ前駆して、富力といふものは殊更に遅れ馳せになるといふことは、多く見る例である、我が帝国の現状も矢張りさういふ有様と謂わねばなるまいかと思ふ、其の国体が万国に冠絶して、而して百般の施設も、維新以後輔弼の賢臣が打寄つて漸次に建設せられたのであるから、洵に申分はないと思つて居る、只それに伴ふ富実の力が同じく完備して居るかといふと、悲いかな歳月尚ほ浅しと言はねばならぬ、富実の根本たるべき実業の養成は、短日月にして満足し得るものではない、為に前に申す国体とか制度とかいふものが完備せるに比較すれば、富力は頗る欠如して居る、但し其の富を増殖することのみに国民挙つて努力するならば、帝国小なりと雖も種々なる方法もあるだらう、けれども富むより先に使用せねばならぬといふ必要がある、文明の治具を張るために、富実の力を減損す
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るは今日の大なる憂である、凡そ国を成すは唯富みさへすれば宜いといふ訳に行かぬ、文明の治具を張るために、富力の一部を犠牲に供するといふことは止むを得ぬであらう[、]換言すれば、一国の体面を保つ為め、一国の将来の繁盛を図る為め陸海軍の力を張らねばならぬ、内治にも外交にも、種々の国費を支出せねばならぬ、即ち一国の治具の為には、其の財源を多少減損するといふことは、勢ひ免れぬことであるけれども、其れが劇しく一方に偏すると、終に文明貧弱にならぬとは謂へぬ、若しも文明貧弱に陥つたら、百般の治具は皆虚形となり、遠からずして文明は野蛮と変化する、此く考へると、文明をして真の文明たらしむるには、其の内容をして富実、強力、此の二者の権衡を得せしめねばならぬ、我が帝国に於て今日最も患ふる所は、文明の治具を張るために、富実の根本を減損して顧みぬ弊である、これは上下一致、文武協力して其の権衡を失はぬやう
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勉励せねばならぬと思ふ。

 明治の時代は新しい事物を入れて旧い事物を改造し、汲々として進歩を図つた時代であつた、勿論進歩が十分なりしとは言はれぬが、長い間国を鎖して欧米の文物に接触しなんだものが、僅かに四五十年の間に、漸次彼の長を採り我が短を補うて、或点は彼に恥ぢぬまで進歩した、勿論これは聖代の御蔭、明治天皇の聖明に由る所、在朝有司の誘導も亦謝意を表さねばならぬが、また国民の精励の然らしむる所と謂はねばならぬ。

 さて明治が大正に移つた所で、往々世間では、最早創業の時代は過ぎた、是からは守成の時代といふ人があるけれども、お互国民は、左様に小成に安んじてはならぬ、版図

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は小さく人口が多く、尚ほ追々に人口が増殖して行くのだから、そんな引込思案では居られぬ、内を整ふると同時に、外に展びるといふことを工夫しなければなるまい、耕地の面積は少いけれども、農法を改良して耕地の効用を増すことが出来る、種苗を改良し、耕作法を改良し、窒素肥料、燐酸肥料等、優良な肥料を宛て行ひ、集約的の農法を改良すれば、上田五俵の所は七俵も穫れ、下田は二倍にも収穫が倍すであらう、今まで出来なかつた陸稲も、人造肥料によれば、一反歩から五俵も七俵も穫れるといふ例もある、耕地が狭いからとて、其の効用を増すことを粗畧に考へては可かぬ、又北海道或は他の新領土等にも、須要の資金労力を注入して、行届くだけ事業を成立たせなければならぬ、此くお互に努めても、さて限りあるものは限りあるので[ある]から、一面海外に向つて大和民族発展の途を開くことを、須臾も怠つてはならぬのである。

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 海外に対つて発展するには、如何なる方面を択ぶべきかと云へば、矢張一番利益のある所に赴くといふことは、自然の趨勢であると思ふ、気候もよし、地味も良くて、その土地が能く人を容れ、農業に商業に、総ての事の遣りよい処を択ぶのが人情である、是に於て私共の切に憂ふるのは、北米合衆国と我邦との関係である、今日のやうに紛議を醸して居るのは、お互実に遺憾に堪へない、惟ふに是は先方にも大なる我儘があるに相違ない、不道理を言ひ張つて居ることは事実であるが、又事の此に到つたに就ては、我が国民も反省しなければならぬ点が大にあると思ふ、是等のことは現に当面の交渉問題となつて居るから、詳細に立入つて言ひ能はぬ事情もあるけれども、国民の期待は何所までも果す勇気を以て、而して能ふだけの忍耐を以て、大和民族の世界的発展の途を開き、何れの地方でも、厭がられ嫌はれる人民とならぬやうに心掛けることが、即ち発展
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の大要素であらうと思ふのである。

 一と揺ぎ揺いで茲に維新の大改革となつた、治める人治めらる〻人の分界を去り、又商売人の範囲も狭い区域にあつたものが、世界を股にかけての大活動を試みなければならぬといふことになり、又日本内地だけの商売でも、主なる品物の運送、蓄積等は、従来大抵政府の力に依つて行はれて居つたものが、それも一切個人でしなければ為らぬといふ風に遷り変つて来た、商人から云へば全く新天地が開かれたのである、而して彼等も亦相当の教育を受けねばならぬことになつた、商であれ工であれ、一の手続を教へ、或は地理、或は物品、品目に、或は商業の歴史に、兎に角、商売を繁昌させるに就ての

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必要な智識だけは、世界の粋を抜いて教へるといふ風になつた、けれども其れは主として実業教育であつて、道徳教育ではなかつた、寧ろ爾ういふ事は措いて問題にしなかつた、乃で自分の富を増さうとする人が続々と出て来る、俄分限が出る、僥倖で大富を得た者もある、それが刺戟となり誘惑となつて、誰でも爾ういふことを狙ふやうになる、斯くして益々富を殖す方にのみ相挙つて進む、そこで富む人は愈々富む、貧い者も富を狙はうとする、仁義道徳は旧世紀の遺物として顧みない、寧ろ殆んど其の何物たるかを知らぬ、唯智識だけを以て自家の富を増すに汲々乎たる有様である、腐敗に傾き、溷濁に陥り、堕落混乱を来す、固より怪むに足らない、勢ひ廓清を叫ばなければならぬ事にもなるのである。

 然らば如何にして其の廓清を計るべきであらう、一般に正当なる利益を進める方法を

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忘れ、徒らに利慾の餓鬼となる結果、此の如き道徳を滅却するやうな状態に陥るといふことは、前に言つた、併し其の行動を悪むの余り、生産利殖の根本をも塞ぐといふまでに立ち至るのは、甚だ取らない、例へば男女の品行の甚だ猥褻に流れるのを嫌うて、自然の人情まで絶つといふことは、甚だ不条理なことでもあるし、また行はれ難いことでもある、遂には生々の理を失つて了ふことになるのである、実業界の腐敗堕落に対しても、唯これに対して攻撃戒飭を加へるといふ方にのみ力を尽すのが、適当なる廓清であるか否かは余程注意すべき問題であつて、或は反つて為に国家の元気を喪ひ、国家の真実の富を毀損するやうな事にならぬとも言はれぬ、廓清といふことは中々六ケ敷い、旧に復つて、治める方の人のみが道義を重んじ、生産殖利に従事する人は成るたけ制限して、極く小さい範囲に棲息せしむるやうにして行つたならば、其の弊害を減ずること
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が出来るか知れないが、それでは国の富の進歩は止まつて了ふ、そこで飽くまで富を進め、富を擁護しつ〻、其間に罪悪の伴はぬ神聖な富を作らうとするには、どうしても一の守るべき主義を持たなければならぬ、それは即ち私が常に言つて居る所の仁義道徳である、仁義道徳と生産殖利とは決して矛盾しない、だから其の根本の理を明かにして、斯くすれば此の位置を失はぬといふことを、我れ人共に十分に考究して、安んじて其の道を行ふことが出来たならば、敢て相率ゐて腐敗堕落に陥るといふことなく、国家的にも個人的にも、正しく富を増進することが出来ると信ずる。

 其方法として日常の事に就き、斯る商売には斯く〳〵、斯る事業には斯く〳〵と爰に詳述は出来ないが、第一の根本たる道理なるものは必ず生産と一致するものである、而して富をなす方法手段は、第一に公益を旨とし、人を虐げるとか、人に害を与へると

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か、人を欺くとか或は偽り抔いふ事のない様にしなければならぬ、此くて各〻其職に従つて尽すべきを尽し、道理を誤らず富を増して行くことであれば、如何に発展して行つても、他と相侵すとか相害することは起らぬと思ふ、神聖なる富は此くて初めて得られ続けられるのである、各人各業が此域に達すれば、そこで廓清は遂げられたのである。

  • 子貢曰、貧而無諂、富而無驕、何如、子曰、可也、未若貧而楽[道、]富而好礼者也、子貢曰、詩云、如切、如瑳、如琢、如磨、其斯之謂与、子曰、賜也、始可与言詩已矣、告諸往而知来者。

    論語

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.183-227

サイト掲載日:2024年11月01日