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凡そ事物に対し『斯くせよ』『斯くするな』といふが如き正邪曲直の明瞭なる者は、直ちに常識的判断を下し得るが、場合に依つてはそれも出来かねることがある、例へば、道理を楯にして言葉巧みに勧められでもすると、思はず知らず、平生自己の主義主張とする所よりも反対の方向に踏み入らざるを得ないやうになつて行くものである、斯の如きは無意識の中に自己の本心を滅却されて仕舞ふこと〻なるのであるが、左様の場合に際会しても、頭脳を冷静にして何所までも自己を忘れぬやうに注意することが、意志の鍛錬の要務である、若し左様いふ場合に遭遇したなら、先方の言葉に対し、常識に訴へて自問自答して見るが宜い、その結果、先方の言葉に従へば一時は利益に向ひ得らる〻が、後日に不利益が起つて来るとか、或は此の事柄に対して斯う処断すれば、目前は不利でも将来の為になるとか、明瞭に意識されるものである、若し目前の出来事に対し、斯の如き自省が出来たらば、自己の本心に立ち帰るは頗る容易なることで、従つて正に就き邪に遠ざかることが出来る、余は此の如き手段方法が即ち意志の鍛錬であると思ふのである。
一口に意志の鍛錬といふもの〻、それには善悪の二者がある、例へば、石川五右衛門の如きは悪い意志の鍛錬を経たもので、悪事にかけては頗る意志の鞏固な男であつたと云つて差支ない、けれども意志の鍛錬が人生に必要だからとて、何も悪い意志を鍛錬するの必要はないので、自分も亦それに就て説を立てる訳ではないが、常識的判断を誤つた鍛錬の仕方をやれば、悪くすると石川五右衛門を出さぬとも限らない、それゆゑ意志鍛錬の目標は、先づ常識に問うて然る後事を行ふが肝要である、斯うして鍛錬した心を以て事に臨み人に接するならば、処世上過誤なきものと謂つて宜しからうと思ふ。
斯く論じ来れば、意志の鍛錬には常識が必要であるといふ事になつて来るが、常識の養成に就ては別に詳説してあるから茲には省くとしても、矢張その根本は孝悌忠信の思想に拠らなければならぬ、忠と孝と此の二者より組立てたる意志を以て、何事も順序よく進ませるやうにし、また何事によらず、沈思黙考して決断するならば、意志の鍛錬に於て間然する所はないと信ずる、併しながら事件は沈思黙考の余地ある場合にのみ起るものでない、唐突に湧起したり、左なくとも人と接した場合なぞに、その場で何とか応答の辞を吐かねばならぬことが幾らもある、左様いふ機会には余り熟慮して居る時間がないから、即座に機宜を得た答をしなければ為らぬが、平素鍛錬を怠つた者には、其の場に適当な決定をすることが一寸出来難い、従つて勢ひ本心に反したやうな結末を見なければならぬ、故に何事も平素に於て能く鍛錬を重ねるならば、遂には其れが其人の習慣性となりて、何事に対しても動ずる色なきを得るに至るであらう。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.135-138
出典:意志の鍛錬(『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.485-492)
サイト掲載日:2024年11月01日