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修養といふことに就て、私は或者より攻撃を受けたことがある。其説は大体二つの意味に分れて居たのである、其の一つは、修養は人の性の天真爛漫を傷けるから宜くないと言ふので、他の一つは、修養は人を卑屈にすると言ふのであつた、依つて是等の異見に対して答へて置いたことを左に述べて見ようと思ふのである。
先づ修養は、人の本然の性の発達を阻害するから宜くないといふは、修養と修飾とを取り違へて考へて居るものと思ふ、修養とは身を修め徳を養ふといふことにて、練習も研究も克己も忍耐も都て意味するもので、人が次第に聖人や君子の境涯に近づくやうに力めるといふことで、それが為に人性の自然を矯めるといふことは無いのである、つまり人は十分に修養したならば、一日々々と過を去り善に遷りて聖人に近づくのである、若しも修養した為に、天真爛漫を傷けると言ふならば、聖人君子は完全に発達した者でないといふことになる、又修養の為に偽君子となり、卑屈に陥るならば、其の修養は誤れる修養であつて、吾々の常に言ふ修養ではないと思ふ、人は天真爛漫が善いといふことは私も最も賛成する所であるが、人の七情即ち喜怒哀楽愛悪慾の発動が、いつ如何なる場合にも差支ないとは言はれぬ、聖人君子も発して節に中るのである、故に修養は人の心を卑屈にし天真を害するものと見るは大なる誤りであると断言するのである。
修養は人を卑屈にすると謂は、礼節敬虔などを無視するより来る妄説と思ふ、凡そ孝悌忠信仁義道徳は日常の修養から得らる〻ので、決して愚昧卑屈で其の域に達するものではない、大学の致知格物も、王陽明の致良知も、矢張り修養である、修養は土人形を造るやうなものではない、反つて己の良知を増し、己れの霊光を発揚するのである、修養を積めば積むほど、其人は事に当り物に接して善悪が明瞭になつて来るから、取捨去就に際して惑はず、而かも其の裁決が流る〻如くなつて来るのである、故に修養が人を卑屈愚昧にすると言ふは大なる誤解で、極言すれば、修養は人の智を増すに於て必要だと云ふことになるのである、是を以て修養は智識を軽んぜよといふのではない、唯今日の教育は、余りに智を得るのみに趨つて、精神を練磨することに乏しいから、それを補ふための修養である、修養と修学を相容れぬ如くに思ふのは大なる誤りである。
蓋し修養といふことは広い意味であつて、精神も智識も身体も行状も向上するやうに練磨することで、青年も老人も等しく修めねばならぬ、斯くて息むことなければ、遂には聖人の域にも達することが出来るのである。
以上は私が二つの反対説即ち修養無用論者に対して反駁したる大要であるが、青年諸氏も亦この考で大に修養せられんことを切望するのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.270-273
出典:修養団員に告ぐ(『竜門雑誌』第294号(竜門社, 1912.11)p.24-29)
サイト掲載日:2024年11月01日