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◎富豪と徳義上の義務

 私は老人の冷水といひませうか、将た老婆心といひませうか、此の歳になつても国家社会の為には朝夕駈け廻つて居ります、自宅へも皆さんが種々な事を云つて見えますが、それが必ずしも善いことばかりではありません。否、寄附をしろの、資本を貸せの、学費を貸与してくれのと、随分理不尽なことを言つて来る人もありますが、私は夫等の人人に悉く会つてゐます、世の中は広いから随分賢者も居れば偉い人も居る、それを五月蠅い善くない人が来るからと云つて、玉石混淆して一様に断り、門戸を閉鎖して了ふやうでは、単り賢者に対して礼を失するのみならず、社会に対する義務を完全に遂行することが出来ません、だから私は何誰に対しても城壁を設けず、充分誠意と礼譲とを以てお目にか〻る、而して若し無理な註文が出れば断るし、出来ることは尽して上げるやうにする、昔支那の語に、『周公三たび哺を吐き、沛公三たび髪を梳る』といふことがある、即ち周公といふ大政治家は、御飯を食べて居る時に訪問客があると、食べかけた御飯を吐き出して客を迎へて用件を聞く、客が帰ると復た御飯にか〻るが、そこへ来客があると復た御飯を吐き出して面会する、かくて一回の食事中に三度も哺を吐いて来客に接するといふほど来客を優遇した、また沛公は漢八百年の基を開いた高祖であるが、此人も周公に私淑し、能く広く賢者に俟つといふ主義で、朝髪を梳いて居る時来客があると、髪を梳つたま〻引見する、三度髪を梳るといふのは、三度結ひかけた髪を中止してまで訪客に接するといふ、非常に客を歓迎するの意味を現はしたものである、私は敢て周公沛公の賢に比するといふ訳ではないが、広く賢者に俟つといふ意味で、何誰にでもお目に懸ることにして居る、然るに世間往々にして客を引見することを憶劫がる人が多い、否、富豪だとか名士だとか言はる〻階級の人には、殊に来客を厭ふの風が甚しいやうであるけれども、五月蠅とか憶劫だとか言つて引込んで居つては、国家社会に対して徳義上の義務を全うすることは出来まいと思ふ。

 私は過日某富豪の子息で大学を卒業したばかりの御人に面会した、是から社会に出るに就て、色々御注意に与りたいと云ふことであつたので、私はその時斯んな話をしては貴方のお父さんに、渋沢は余計なことを云ふと蔭で恨まれるかも知らんがと冒頭して、次のやうな話をしました。

 今時の富豪は兎角引込思案ばかりして、社会の事には誠に冷淡で困るが、富豪といへど自分独りで儲かつた訳ではない、言は〻゙ 社会から儲けさせて貰つたやうなものである、例へば地所を沢山所有して居ると、空地が多くて困るとか言つて居るが、其の地所を借りて地代を納めるものは社会の人である、社会の人が働いて金儲けをし、事業が盛んになれば空地も塞がり、地代も段々高くなるから、地主も従つて儲かる訳だ、だから自分の斯く分限者になれたのも、一つは社会の恩だといふことを自覚し、社会の救済だとか、公共事業だとかいふものに対し、常に卒先して尽すやうにすれば、社会は倍々健全になる、それと同時に自分の資産運用も益々健実になると云ふ訳であるが、若し富豪が社会を無視し、社会を離れて富を維持し得るが如く考へ、公共事業社会事業の如きを捨て〻顧みなかつたならば、茲に富豪と社会民人との衝突が起る、富豪怨嗟の声は軈て社会主義となり、「ストライキ」となり、結局大不利益を招くやうにならぬとも限らぬ、だから富を造るといふ一面には、常に社会的恩誼あるを思ひ、徳義上の義務として社会に尽すことを忘れてはならぬ。

 斯んな事を言つては富豪から憎まれるかも知らんが、実際私共でさへ上述の訳合から出来るだけ尽して居るのに、どういふものか世間の金持は引込思案で困る、此間も或富豪に貴方がたがもう少し社会に口を出して下さらなくては困ると言ふと、どうも面倒臭くてと言つて居られたが、単に五月蠅いからと言つて引込んで居られては、私共ばかり躍起になつても誠に旨く行かないで困ります、現に私共がお先棒になつて明治神宮の外苑建設を企画して居りますが、之は代々木か青山辺に明治神宮の外苑として、宏大なる公園様のものを造り、帝国中興の英主たる先帝の御遺徳を永く後昆に伝ふべき記念図書館、若くは各種教育的娯楽機関を造りたいといふのが趣意で、約四百万円の費用を要する見込である、斯る企は社会教育の上から見て誠に適切なる事業だと信ずるのであるが、さて是れだけの費用を寄せるには容易でない、斯ういふ場合には岩崎さんや三井さんに是非一と奮発して貰はなければならぬ、がそれと同時に世の大方富豪が社会に対する徳義上の義務として、常に公共事業に尽されんことを望むのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.173-178

出典:青淵先生鶏肋談(『竜門雑誌』第327号(竜門社, 1915.08)p.22-26)

サイト掲載日:2024年11月01日