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師弟間の関係をして、情誼を厚くし、相親しむの念慮を強くあらせたいと思ふ、地方の学校に於ては何うか知らぬが、私が聞及ぶ東京の中辺の学校に於ては、頗る此の師弟の関係が薄い、殆んど師と弟子とが、悪い例を言はうならば、寄席に出る落語を聴きに往つた多数の聴衆の如く見受けられる、あの人の講義は面白くないとか、あの人は時間が長いとか、甚しきは悪い癖を見付けて、之を批評すると聞及ぶ、尤も昔とても師弟の間の情愛が総て密だとは言へぬけれども、試みに孔子は三千の弟子があつた、是等が皆能く顔を知り、皆能く談話した人ではあるまい、併し其中で六芸に通ずるものが七十二人あつた、是等の人々は常に孔子と談話して居つたやうに見える、七十三人は全く孔子の人格に感化されたやうに見える、斯の如き師弟を例として論ずるも余り過当であらうが、また今日の支那を見ると、左まで模範ともされない、併し今日の支那が悪いからとて、孔子の徳が変遷する訳はない、支那が後に悪いからとて孔子を軽んぜぬでも宜い、支那が善いからとても桀紂を重んずる訳には往かない、故に孔子が主として子弟を導いた有様は、誠に師たり弟子たる間柄が極く善いと思ふ、斯の如き有様を今日求める訳には往かぬけれども、徳川時代に於ても師弟間の感化力は強かつた、其の情誼が切実であつたといふことは、試みに一例を言はんか、熊沢蕃山が中江藤樹に師事した有様などで分かる、蕃山はあれ程気位の高い人であつて、謂ゆる威武に屈せず、富貴に蕩せずといふ、天下の諸侯を物の数ともせず、備前侯に仕へたが、師として敬せられたから、政を施した位の見識のあつた人だが、中江藤樹に向つては真に子供のやうになつて、三日忍んでさうして弟子たることを得た、其の師弟間の情愛の深かつたのは、蓋し中江藤樹の徳望が人を感化せしめたものと思ふ、又新井白石といふ人も剛情で、智畧といひ、才能といひ、また気象といひ、実に稀有の人である、それが終身木下順庵には服従して居たといふことである、近世佐藤一斎といふ人も、能く弟子を感化せしめた、また広瀬淡窓も同様である、私の知つてるのは漢学の先生だけだけれども、子[師]弟と云ふ関係が、昔風では一身を抽んでて親むといふのである、然るに今の子[師]弟の間は、殆んど寄席を聴きに往つた有様をなして居るといふことは、私は満足の風習でないと恐れて居る、畢竟これは師匠たる人が悪いと云はなければならぬ、徳望、才能、学問、人格がモウ一層進まなければ、其の子弟をして敬虔の念を起さしむることは出来ぬ、そこには師たる人に欠点があると謂はねばならぬ。
併し弟子の心得方も甚だ悪いと思ふ、一般の風習が、其の師に対して敬ふといふ念が少い、他の国々の有様はよく分かりませぬが、彼の英吉利などは如何も私は子弟の間の関係が、日本の今日のやうでは無いと思ふ、但し日本でも優れた教育に従事した人が、猶ほ今私が述べた有様とは言はぬ、或る方面には中江藤樹も、木下順庵もあらうけれども、甚だ鮮い、過渡時代のため、不幸にして俄出来の先生が沢山あるから、自ら斯る弊害を惹起したのだと弁解すれば、弁疏の言葉があるけれども、苟くも人に教授する以上は、其人自身が自ら省みて余程注意して貰ひたいものであると同時に、また一方より之を十分敬ふといふ心を以て、師弟の間に情愛を以てしたいと思ふ、若し諸君の従事なさる学校の教員諸氏にも、生徒をして常に之に接触せしむるに、此く心掛けられたら、其の風儀を良くするといふことが、悉くは届かないまでも、悪いのを防ぐといふだけ位のことは、必ず為し得られるものであらうと、斯う思ふのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.364-368
出典:全国商業学校長協議会々塲に於て(『竜門雑誌』第291号(竜門社, 1912.08)p.42-53)
サイト掲載日:2024年11月01日