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この熱誠を要す

 如何なる仕事に対しても、近頃の流行語に趣味を持たねば不可ぬといひますが、此の趣味といふ語の定義がどの辺にあるか、学者でないから完全なる解釈を下すことは出来ないが、人が職掌を尽すといふにも、此の趣味を持つといふことを深く希望する、趣味といふ字は理想とも聞えるし、慾望とも聞えるし、或は好み楽しむといふやうな意味にも聞える、故に此の趣味といふ字を約めて解釈したならば、単に其の職分を表面通りに勤めて往くと言ふのは、俗にいふ御極まり通りで、只その命令に従つて之を処して行くのである、併し趣味を持つて事物を処するといふのは、我心から持出して、此の仕事は斯くして見たい、斯うやつて見たい、斯うなつたから、是を斯うやつたならば、斯くなるであらうと云ふやうに、種々の理想慾望をそこに加へてやつて行く、其れが始めて趣味を持つたといふこと、即ち趣味といふのは其辺にあると、私は理解する、趣味の定義はどうであるか知らぬが、是非人は其の掌ることに就て、総て此の趣味を持たれたいと思ふ、更に一歩進んで、人として生れたならば、人たる趣味を持つて尽したいと思ふ、果して此世に一人前の趣味を持つて、其の趣味が真正に向上して往つたら、其れこそ相応の功徳が世の中に現はれ得るであらう、それまでに無くとも、趣味ある行動であつたならば、必ず其の仕事に就て精神あることであらうと思ふ、若し其のお極まり通りの仕事に従ふのであつたら、生命の存在したものでなくて、た〻゙ 形の存したものとなる、或る書物の養生法に、若し老衰して生命が存在して居つても、唯だ食うて、寝て、其の日を送るだけの人であつたならば、それは生命の存在では無くして、肉塊の存在である、故に人は老衰して、身体は十分に利かぬでも、心を以て世に立つ者であつたら、即ちそれは生命の存在であるといふ言葉があつた、人間は生命の存在たり得たい、肉塊の存在たり得たくないと思ふ、これは私共頽齢のものは、始終それを心掛けねばならぬ、まだあの人は生きて居るか知らんと云はれるのは、蓋し肉塊の存在である、若しさういふ人が多数あつたならば、此の日本は活き〳〵はせぬと思ふ、今日世間に名高い人で、まだ生きて居るかと言はれる人が沢山ある、是は即ち肉塊の存在である、故に事業を処するにも其通り、唯だ其の務めるだけでなく、其事に対して趣味を持たなければ不可ぬ、若し趣味がないなら精神がなくなつて了ふ、恰度木偶人と同様になる、斯の如き訳であるから、何事でも自己の掌ることに深い趣味を以て尽しさへすれば、自分の思ふ通りに総てが行かぬまでも、心から生ずる理想若くは慾望の或る一部に適合し得らる〻ものと思ふ、孔子の言に『之を知る者は之を好む者に如かず、之を好む者は之を楽む者に如かず』とある、蓋し之は趣味の極致と考へる、自分の職掌に対しては必ず此の熱誠がなくてはならぬのである。

底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.186-189

参考記事:全国商業学校長協議会々塲に於て(『竜門雑誌』第291号(竜門社, 1912.08)p.42-53)

サイト掲載日:2024年03月29日