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徳川時代の末路でも、因襲の然らしむる所、一般の商工業者に対する教育と武士教育とは全く区別されて居つたのである、而して武士は皆修身斉家を本として、唯自己一身を修めるのみでは無く、他をも治めるといふ主義で、凡て経世済民を主眼として居つた、農工の教育は、他人を治め国家を如何するかといふやうな考を持たせる教育ではなく、至つて卑近な教育であつた、当時の人は武士的教育を受ける人は洵に少いので、総て教育は謂ゆる寺子屋式のもので、寺の和尚さんか、又は富豪の老人などが教育して呉れたものである、農工商は殆んど国内だけのもので、海外などには毫も関係がなかつたものであるから、農工商の人には低級な教育で足りたのである、而して主なる商品は幕府及び藩が運送、販売等の機軸を握つて居つたので、農工商民の関係する所は実に狭いものであつた、当時の謂ゆる平民は一種の道具であつた、甚しいのは武士は無礼打、切捨御免といふ惨酷な野蛮極まる行為を平気でやつて居つたものである。
此の有様が追々嘉永安政頃には、自然に一般の空気に変遷を起して、経世済民の学問を受けた武士は、尊王攘夷を唱へて遂に維新の大改革を成したのである。
私は維新後、間もなく大蔵省の役人となつたが、此の当時は日本には物質的科学的教育は殆んど無いと云つても可い位であつた、武士的教育には種々高尚なものがあつたが、農工商には殆んど学問はなかつた、のみならず、普通の教育のことを論じても低級で、多くは政治教育といふ風で、海外交通が開けても、それに対する智識といふものが無かつたのである、如何に国を富まさうと思つても、それに対する智識などは更にない、一つ橋の高等商業学校は明治七年に出来たものであるが、幾度か廃校せられんとしたのである、これは乃ち当時の人が、商人などに高い智識などは要らないと思つて居つた為である、私などは海外に交通するには、何うしても科学的智識が必要であるといふことを、声を嗄らして叫んだが、幸にも追々その機運が起つて、明治十七八年には斯うした傾向が盛んになつて、間もなく才学倶に備はつた人が輩出するに至つたのである、それから以後今日まで僅か三四十年の短い年月に、日本も外国には劣らないくらゐ物質的文明が進歩したが、その間にまた大なる弊害を生じたのである、徳川三百年間を太平ならしめた武断政治も、弊害を他に及ぼしたことは明かであるが、又この時代に教育された武士の中には、高尚遠大な性行の人も少くはなかつたのであるが、今日の人には其れがない、富は積み重なつても、哀しいかな武士道とか、或は仁義道徳といふものが、地を払つて居るといつて可いと思ふ、即ち精神教育が全く衰へて来ると思ふのである。
我々も明治六年頃から物質的文明に微弱ながらも全力を注ぎ、今日では幸にも有力な実業家を全国到る処に見るやうになり、国の富も非常に増したけれども、爰[奚]んぞ知らん、人格は維新前よりは退歩したと思ふ、否、退歩どころではない、消滅せぬかと心配して居るのである、故に物質的文明が進んだ結果は、精神の進歩を害したと思ふのである。
私は常に精神の向上を富と共に進めることが必要であると信じて居る、人は此点から考へて強い信仰を持たねばならぬ、私は農家に生れたから教育も低くかつたが、幸にも漢学を修めることが出来たので、これより一種の信仰を得たのである、私は極楽も地獄も心に掛けない、た〻゙ 現在に於て正しいことを行つたならば、人として立派なものであると信じて居るのである。
底本:『論語と算盤』(再版)(東亜堂書房, 1916.09)p.58-62
サイト掲載日:2024年11月01日